「上手上手。ほら、明日香。これ、積んでごらん」
田嶋の言葉に明日香は差し出された積み木を掴むと、その上に更に積み上げるべく手を動かした。そうはいっても、10ヶ月の子供に崩さないよう慎重に、などという言葉はない。たちまち積み木の山(といっても 3つだけ)がカラッと崩れた。(といっても3つだけ。しかも田嶋が積んだもの)
「あ〜……」
明日香ががっかりしたような声を上げて積み木を見つめた。何言ってんだか全然ちっともわからないが、口調のわりにひどくガッカリした感じも受けない。
「あ〜あ、崩れちゃったねえ。もう一回やろうか」
そうは言っても10ヶ月の子供が出来るのは、大人が苦労して積み立てた積み木をバラバラに、しかも豪快に壊すことぐらいだ。しかも笑みを浮かべて。田嶋が積み木の5個目をこれから積もうという時に、いきなり明日香の右手が瞬時にそれを破壊した。
「あは〜う」
「おお!すごいすごい」
そらすごいよ、ビルを破壊する怪獣だよ。
と、そこまで思って桂木は思い出した。そうなのだ。このぐらいの子供というヤツは怪獣なのだ。いつぞや流行った育児コミックにそういうコピーがあったじゃないか!
積み木を崩した明日香は満足そうにニコーっと笑みを浮かべた。ご存知だろうか。生後10ヶ月にもなった赤ちゃんは笑うと涎をたらすのだ。それもチョロっとか、タリッとかではなく、つ――――っと、滝のような勢いで!
「うわ――― ……」
桂木はバカみたいに口をポカンと開けたまま、その様に見入ってしまった。よくもまあこんな水みたいな勢いで出るものだ。半ば感心したように桂木は頷いた。
それを躊躇することもなく、田嶋は慣れた手つきで明日香の涎をサッと拭う。実の親でもないくせに、これはある意味尊敬に値する。
「おい、たじ……」
桂木が田嶋の背中からひょっこり顔を出すと目が合って、とたんに明日香の顔が悲しみに歪み、シクシクとなき始めたのだった。
「うう……!えっ…えっ、えっ、えっ……ああーん…!」
「……すいません。向こうへ行っててもらえます?多分人見知りなんですよ……よしよし、なんにも恐いことないからね」
「いいっ、ええ……っ」
田嶋の首にかきつくように手をまわし、明日香は泣いた。
「ああ……よしよし……」
泣きじゃくる明日香の背中を摩りながら田嶋は小さなため息をついたが、ため息をつきたいのはむしろ桂木の方である。なんでって……このガキ桂木が視界に入るとビビって泣く。更に田嶋に触れようものならガンを飛ばす。涙を流しながらも田嶋をとられまいと 睨みを利かせる目つきはなかなかのものだったのだ。
いわゆる人見知りというヤツにしてはあまりに挑戦的過ぎやしないか?こんなんじゃ子守りどころか、一緒の部屋にもいられやしない。
「ああ、せめて赤ん坊が男だったら良かったのになあ……」
「?どうしてです?」
「どうしてって、オムツ代えの時、サオの観賞。そして立派に育つようにまじないを……イテっ!」
飛んできた明日香の積み木が桂木の頭を直撃した。木のおもちゃというのは当たると結構痛い……というか、面削されてはいるけれど、角が結構尖っていてまさに凶器だ。投げてきたのは田嶋であった。
「呆れたこと、言わないで下さいよ!」
分かるはずもないけれど、冗談でもこんな小さな子供相手にそんな発言は許せないらしい。
田嶋はジロッと桂木を睨んで軽蔑のまなざしを向けたのだった。
* * * * *
「さて、と」
時計の針が軽く11時を周り正午も間近になった頃、明日香と一緒に積み木で遊んでいた田嶋がふいに立ち上がった。寝そべった格好でパラパラと手直にあった雑誌をめくり、気にしないふりをしながら、その実横目でチェックをかけまくっていた桂木がつられたように目線をあげる。
「何、どうしたよ」
「ごはんです」
「ああ、もうそんな時間……」
と白々しく桂木は言ったが、実は時間をめちゃくちゃ気にしていたのだった。田嶋の部屋についてからの1時間、何度時計を見たことか……。夕方にお迎えと言っていたが、今は12時を過ぎたばかりで約束の時間にはまだまだてんで程遠く、待ってる時間がこんなに長く感じられたのは、卒業式の練習以来かもしれない。
桂木は横たえていた身体を上半身だけむっくり起こすと、まるで構ってくれといわんばかりに田嶋の背中に熱い視線を送ってみた……が、そんな桂木の心情を知ってか知らずか、田嶋は目もくれずに冷蔵庫のドア なんかを開けている。
躊躇もなく手を伸ばし、手際よく目的のものを選ぶあたりが、田嶋の冷蔵庫がいかに空っぽなのかを想像させた。そして田嶋の右手に掴まれて出てきたものは半透明の小さなタッパーだったのだ。
「何、それ……」
「離乳食ですよ。隣の奥さんが持たせてくれたんです」
「は?」
聞きなれないその言葉に桂木の頭の中でクエスチョンマークが回った。
離乳食とは生後5ヶ月前後から赤ちゃんに食べさせる食事のことで、大人の食事である固形物型のものを食べれるようにするための準備食のことらしい。確かにそれまでは水状のミルクなんかを主食にしている赤子にむかって今日からこれを食べなさい、と固形の米を食べさせるには無理がある。
言われてみればなるほどだけど、赤ちゃんだなんてそんな特殊な生き物、桂木の29年間の人生で遭遇した試しもない。尤も男しか愛せない桂木に、これから先遭遇する予定もあるわけがないのだが。
無知な桂木に説明しながら田嶋は収納を兼ねたマルチラックの上に置かれてある電子レンジにタッパーを入れる。加熱すること1分半。その間に田嶋は床に散らばった積み木を片付けテーブルを手早く拭いた。
「明日香」
気が付くと、フラフラと捕まり立ちした明日香が田嶋の顔を足元から覗き込んでいる。田嶋が片手で腰に手を回して抱き上げるとキャッキャとはしゃいで大喜びだ。
そのまま田嶋はシンク下の引き出しを開けてティースプーンを取り出すと、そのまま桂木の横に腰をすえた。 その後ろに隠れるように明日香は泣きそうな顔で桂木を睨んでいたが、目の前の飯の誘惑には勝てないようだ。田嶋がタッパーの蓋を開けるとするりと前に陣取った。
タッパーの中で粥状の、ほんのり色の付いたご飯に白い物体が覗く。思わず桂木は田嶋が適度にかき回すその中身を興味深深に覗き込んだ。
「………………それ、しらすにみえるんだけど」
「ええ、しらすですね」
「そっちの緑のは……」
「ほうれん草でしょう」
混ざっているのはそれだけではない。にんじん、玉ねぎ、とにかく野菜がふんだんに盛り込まれためちゃくちゃ柔らかそうな粥だったのだ。
ゲル状……。
「う、美味いのか……」
「さあ……食べてみます?」
「いらねぇよ」
スプーンですくったご飯を唇に当て温度を測る。真正面では明日香がムズムズしながらお待ちかねだ。一口口にすると、もっともっととスプーンを持った田嶋の手を両手でぐいっと引き寄せる。
(動物みてぇ……)
覚えてないのをいことに、自分の小さな頃を棚に上げて桂木はぼんやりそんなことを思った。 今の子供は食物が豊富になった分成長が早いと言うけれど、やることなすこと大差はない。それにしても。
「お前、やけに手馴れてるなあ。やっぱり隠し子の一人や二人いるんじゃねぇの?」
「まさか。10歳の時に妹が生まれたんで、少し経験あるだけですよ」
田嶋が苦笑を浮かべてそう言うと、 桂木は、ふうんと気のない返事を返したが実は内心ショックを受けた。田嶋に妹がいたなんて今の今まで知らなかったのだ。
(兄妹いたのか)
家族構成なんて今の今まで思ったこともなかったけれど、自分に両親という家族がいるように、田嶋にもそれを支える家族がいたのだ。いや、大抵の日本人には当たり前過ぎる話ではあるのだけれど。
桂木がモヤモヤ〜っとした気分でいると、その傍らでひどく優しげな微笑を浮かべて田嶋が言った。
「おいしいかい?」
明日香といえばその田嶋の問いかけに対して分かっているのかいないのか、それでもごにょごにょと返事だかなんだか分からない言葉を返している。尤もおかしいのはそれに対して田嶋がうんうんと相槌なんか打っているところだ。なんだ?この 意味不明の言葉が分かるのか。
「分かるわけないじゃないですか」
「じゃあ相槌なんか打つなよ」
「でも何か言おうとしてるってことぐらいは分かるでしょう。返事はしてあげないと……」
「知るか」
そう言ってごろっと寝そべり背中を見せて、とうとう桂木はそっぽを向いてしまった。桂木はあからさまな不機嫌さを隠そうともせず、これではどれが子供で誰が大人なのかちっとも全然分からない。困った人だと思わず田嶋は苦笑を浮かべた。
* * * * *
豪勢に食べておなかが膨れると、明日香は急にグズグズと泣き出すような声を上げた。抱き上げた田嶋の肩にしなだれかかるように明日香が顔を擦り付ける。
「ああ、眠いの?うん……」
そう言って田嶋はゆっくりとしたリズムで明日香の体を揺らしてやると、ものの5分もしないうちに明日香の体から力が抜けた。早い。
「何、寝たの?」
「ええ。みたいです」
言いながら田嶋はそっと明日香を下にあった座布団の上に置いてそのまま毛布をかけてやった。おい田嶋。お前完璧にお母さんだよ。
桂木が時計に目をやると、時間は現在13時を回ったところでまだまだ昼間を感じさせる。
「どれぐらい寝るんだ?」
「さあ、2時間ぐらいじゃないですかね。それと……あ」
それを聞くと桂木は一も二もなく舜即で田嶋を押し倒し、大真面目な顔で言ったのだった。
「しよう」
「『しよう』って何を」
眼下で驚いた顔をした田嶋がそこにいる。ああ、くそ。めちゃくちゃそそる。
「決まってるじゃないか、セッ……!」
言い終わるか言い終わらないうちに、置いたばかりの明日香がたちまち泣き出した。
「ううっ、えっ……ああ〜ん!!」
「あーっ!もう、折角寝たのに!!」
目が覚めたのが桂木のせいかどうかはともかく、田嶋は怒気のこもった声を上げて上に乗っかっていたその男を勢いよくどかすと、明日香を抱いて隣の部屋へ行ってしまった。『折角寝たのに』と一番切実に思っていたのは桂木だったろう。 とことんついてない男よ。
その後結局、明日香が目覚めるまで完全なお預け状態となった。田嶋が添い寝をしてる間に明日香と共に眠ってしまったからだ。明日香の隣で眠りこむ田嶋の寝顔は限りなくあどけない。またそれが桂木の下半身を刺激した。
「あ〜、ちくしょ……生殺しだぜ」
こんなことなら家に帰って夜出直してくりゃ良かった、と桂木はトホホな気分になってきた。
いつまで経っても戻ってこない田嶋にしびれを切らして隣へ続く襖を開けてみたものの、これではセックスどころか会話も出来やしないじゃないか。
桂木は明日香を挟んだ田嶋の横に身を伏せた。本当は田嶋の横で寝たいけど、それじゃあ顔が良く見えない。
「疲れてんなあ」
桂木が右手を伸ばして田嶋の頬を指の甲で撫でる。うん、と小さな言葉を洩らして田嶋はそれでも起きなかった。
まあこうなった一端は桂木のせいでもあるのだ。桂木ときたら部下の仕事ができるのをいいことに、仕事をじゃんじゃん振りまくる。そうは言っても別に桂木が一人楽をしているわけではない。部下の力量を見切った上で相応の仕事を割り当てられるのは管理職として大事な要素の一つだし、大体、部下のマネージメントが増えた分だけ仕事の量は増えたぐらいだ。
昼は昼でオーバーワーク。それでも10時前に仕事が終われば必ずといっていいほどベッドに誘う。田嶋が疲れていたのは知ってたけれど、それでも一緒にいたいのだ。まあ別にセックスはしなくても……………………やっぱりしたい。
(俺、こんなに自制の効かない男だったかな)
左手で頭を支えながら桂木は苦笑した。自制はともかく、ほんの3ヶ月まで節操はなかったはずだが。
ふと、眠る田嶋の横で明日香が寝返りをうった。田嶋の方に向けていた顔がこちらに向けられる。
「なんだよ、睨まなきゃ可愛いじゃん」
すうすう寝息を立てて眠るその様はまさしく天使だ。
「………………」
まさしく、天使。
「………………」
明日香の寝顔をみてる間に、急にムクムクと悪戯心がおきてきた。こうしたらどうなるんだろう?
桂木はつっと親指と人差し指で深く眠る明日香の鼻をきゅっと摘んだ。5秒ほどすると、変わらなかった明日香の眉が苦悶のごとくにしわを寄せた。ぱっと離すとたちまちものとの涼しい顔に逆戻る。
「ああ、ちゃんと鼻から息してるんだ」
小さくてもその機能は一人前。ライバル心を燃やすか燃やさないかは別にして、桂木は純粋にこの小さな生き物に妙に感心してしまったのだった。
「おもしれー……」
実に、実に面白い生き物だ。
ここにきて初めて桂木は笑みを洩らした。指先でぷにぷにと頬を突付くとやっぱり迷惑そうな顔をして明日香が眉間にしわを寄せる。
「赤ん坊でもいっちょまえに眉間にしわが寄るんだなあ。ふうん」
知らなかった〜…、と桂木は小さなその手に触ったり、(爪がすごい小さいのに驚いた!)フサフサとしたまさに産毛を触ってみたり、まるで子供のような尽きることのない興味をそのまま実行に移していくのだった。
ところで不思議なことに眠気は伝染る。気が付けば10分もしない間に桂木も明日香と、田嶋のその横で桂木までもが寝入ってしまったのだ。
* * * * *
目が覚めたのはクシュクシュとした明日香の泣き声だった。
「え!?何……」
慌てて桂木が飛び起きると、田嶋が明日香を抱っこしたまま真横に座っていた。
「ああ、起こしちゃいました?すいません。子供って寝起きはぐずるんですよ。でもやっぱり寝起きはお母さんじゃないとダメみたいなんですよねえ……ほら。よしよし……」
「ああ、そう……」
ぼうっとした頭のままで桂木は答えた。ああ、そうだ。ここは田嶋の部屋で子供を預かってたんだっけ……と、桂木は覚醒とともに自分の置かれた状況をうすらぼんやり思い出した。
そこまで思ってふと気づく。おいおい今は一体何時だ?
桂木が本棚に置かれた小さな置時計に目をやると、時間はもう4時を回ろうかという時間帯で、冬至が過ぎて幾分日は長くはなったが、日没はまだまだ早い。
ああ、休日が終わっていく……。
悲哀に満ちる桂木とはうらはらに、泣きじゃくっていた明日香が落ち着きを取り戻したかのように泣くのを止めた。こっちも意識がはっきりとしてきたらしい。
ところがふいにパチッと目と目が合って、またもや明日香がグシュグシュ言い出したのだった。
「やっぱり……」
起きるとダメだ。寝てるとどんなに天使でも、興味を掻きたてる生き物でも……桂木はパッと目を逸らすととたんに不機嫌な顔になった。子供とはソリが合わない。
そんな桂木の表情が気になったのか、それとも最初からそのつもりだったのか。ふてくされる桂木を放ったまま、田嶋は着々と出かける支度を始めたのだった。桂木がそれに気づいたのは桂木の前で田嶋が明日香に小さなコートを着せた時だ。後ろを向いた桂木にも田嶋は着てきたジャケットを放った。
「あん?」
桂木が怪訝な声を上げて頭に掛かったジャケットを右手で掴んで引き下げると、田嶋は言った。
「行きましょうか」
「行くって、どこへ……」
「近くの川原。良い公園があるんです。お日様の下で俺を観賞するんでしょう?」
まだ間に合いますよ、と田嶋は子供のような悪戯っぽい目を桂木に向けて笑った。
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