ナイーブ

感情のままに、真由美が桂木の顔に水を浴びせてからもう既に3時間が経過する。

部屋に駆け込んだのは8時過ぎで、それから頭から布団を被って真由美は泣いた。泣きつかれていつのまに眠ってしまったのか。 寝起きの、ぼんやりとした頭で真由美はゆっくりと体を起こすと、壁の時計に目を凝らした。午後11時30分。案外中途半端な時間にちょっと驚く。てっきり朝だと思っていた のに、窓の外はまだまだ黒く、照明器具のオレンジ色した豆電球だけが頼りなげに周りを照らしていたのだった。

真由美はゆっくりと、ぶたれた左頬に手のひらを当てた。

信じらんない、信じらんない、信じらんない……! お兄ちゃんが、私をぶった。叱られたことなんか今まで一度だってなかったのに!

改めて思い返すと、なにやら悔しいやら情けないやら、ドロドロとした感情が胸の奥から沸いてきて、涙がボロボロと、折角乾いた真由美の頬を再び濡らした。

「もう……」

真由美は吐くようにそういうと、手の甲で右目を擦った。頭を抱え込むように曲げた膝に押し当てて、ゆっくりと目を閉じる。どうしよう……。

コツコツ。

不意にドアを叩く音がして、真由美はハッと、顔を上げた。この部屋には鍵がない。上げた視線の先には、部屋に帰ってすぐ様ドアの前に移動させた小さな棚が あったのだ。

「誰……」
『真由美、入っていいかな?』
「……お兄ちゃん?」
『うん……』

真由美は少し躊躇したが、結局3分後にドアを開けることになる。 いつまでもこうやって部屋に閉じこもっているわけにはいかないし、何より、大好きなあの兄から、優しい言葉をかけて欲しかったのだ。

「ちょ、ちょっと待ってて…」

真由美は腰程の高さの小さな棚を、引きずるように動かした。床をするような音が聞こえて、50センチほど左に寄せる。ドアを開けると、棚の移動音に困った微笑を浮かべた 田嶋が立っていて、真由美をなんとも言えない気持ちにさせた。

「入っていい?」
「うん……」

そのまま田嶋は部屋に入ると、真由美も座るように促してベットに腰をかけた。 部屋の電気は暗いままだったが、田嶋はあえて電気をつけようとは思わない。 自分のせいで涙で濡れた妹の顔を見るのは忍びないのだ。

 田嶋はさっき叩いた妹の左頬を気にするようにそう言った。

「ごめんな、痛かったか?」
「…ううん、私も……悪かった」

真由美は俯いて、右手のひらで片目を擦った。田嶋は申し訳なさそうに妹の顔を覗きこんだが、暗い電気の下で細部までは確認できない。田嶋はゆっくりと目を細めてそのまま閉じた。

「お兄ちゃん。あの人のこと、好きなの?」

突然に長い沈黙を破った真由美の言葉に、田嶋はさほど驚く様子もなく答える。

「……うん」

そう言って田嶋が微かな微笑を浮かべたのを真由美は見逃さなかった。 本気なのだ。直感で、そう思った。いやだ……!そう思うと同時にさっき止まったはずの涙が、ボロボロこぼれた。

「ま……」
「……いやだよ」
「え?」
「いやだよ、お兄ちゃんが男の人となんて……いやだよ……」
「……真由美……」

田嶋は呆然とした表情を浮かべたが、それはすぐにかき消された。なだめるように妹の肩に手を回すと、そのまま反対側の手も回す。胸にもたれた真由美の重みを感じながら、その昔、夜中に目覚めて母がいないとすすり泣いた、あの頃の妹の姿が微妙に重なるのだった。すまない、と心の底から切に思う。

「いやだよぉ……」

腕にかかった力にハッとした。田嶋は見えない、妹の顔に視線を移して目を細める。大きくなったと思っていたけど、中身はまだまだ純粋で、ナイーブな子供なのだ。田嶋はゆっくりと目を閉じて、真由美の髪をサラリと撫でた。

「どうして欲しい?」
「え?」
「真由美の気が済むように言えばいい。お兄ちゃん、お前の言う通りにするから」
「…………」
「お兄ちゃんが今まで真由美に嘘ついたことあったか?」

真由美はブンブンと強く首を横に振った。嘘をつかれたことなんか一度もない。 俯けていた視線を田嶋と合わすと、小さな声で言ったのだった。

「あの人と別れて……」
「うん」
「家に帰ってきて?昔みたいに、家族で一緒に暮らそうよ……」

田嶋はその言葉を聞いて驚いた瞳を一瞬見せたが、薄暗い部屋の中でその表情は真由美に見えはしなかったのだ。家族で、一緒に……。

田嶋は何かを言いかけて口を開けたが、それは言葉にはならなかった。そして、その間が不自然でないぐらいの短い時間で田嶋はこう言ったのだ。

「いいよ」

 

*    *    *    *    *

 

時計の時刻はいつしか午前1時を指した。カチカチと小さな音だが、人々が寝静まる真っ黒な夜中には、微かな音でも耳に障る。

その後、 一人部屋に残された桂木は 手持ち無沙汰で風呂に入った。それでもなんだか、落ち着かない。身体洗いもそこそこに、ものの10分で風呂から上がり、結局その時間の大半を田嶋を待つことに費やしたのだ。

桂木は新しく出したタバコを銜えると、スリムな銀のフリントライターで火ををつけた。

「ちぇ……」

なんだか、疎外感を感じたりして……。白い煙を吐き出しながら、桂木は思わず小さな言葉をふいに洩らした。独り言もいいところである。

桂木は台所から続くリビングの、ソファの上でイライラと組んだ足をゆすった。 どれぐらい桂木が落ち着いていなかったかは、灰皿に盛られたタバコの量で一目瞭然。 答えを聞かないと、眠れやしない。いや、答えを聞いた後のほうが眠れないかも……。

桂木はタバコを銜えたまま、ゆっくりと目を細めた。

気になるのは、田嶋の妹に対する姿勢というか、なんというか……。 うまくは言えないのだけれども、まるで腫れ物にでも触るような、えらく気を使っていると思うのは気のせいなのか。 なんだか、『9つ年下の大事な妹』、だけではないような気がするのだった。

もし、真由美が別れろと一言いえば、さっき言ったように田嶋はなんの躊躇もなく桂木と別れるだろう。その様が、桂木の脳内にはありありと想像できた。だが、 家族と自分とどっちが大事か、などと聞けるほど、桂木は無神経な男ではない。大事なものはいつも一つとは限らないのだ。 たとえ、その優先順位が家族より低かろうと、その愛情に差があるとは思わない。もし、相手が自分に問うてくれば、とたんに興醒めするだろう。

尤も桂木は恋愛と家族を計りにかければ、なんの躊躇いも憂いもなく、恋愛に天秤が傾くタイプではあるが。

手が伸びて、新しい箱から2本目のタバコが指に触れた時、ふいにリビングのドアがカチリと開いた。瞬間桂木は、まるで主人の帰りを待ちわびて仕方のなかった愛犬のように顔を上げる。俺は犬か。

心で一人ボケツッコミを入れて、桂木は田嶋の顔に視線をロックした。いつものポーカーフェイスさながらに、ちっともさっぱり表情なんて読めやしない。

桂木は一本だけフィルターの伸びたタバコの箱を、横に掛けた田嶋の方へと差し出した。

「どうも」
「別れろ、ですか」
「分かりますか」

意外な顔をして、田嶋は顔を上げた。

「お前のことならなんだって分かるのさ」

桂木は勝気な笑みでニヤっと笑った。ちっともさっぱり分かるかい!桂木に計れたのは、妹のあの性格だけである。たかだか一週間、朝と夜しか会わない妹の言いそうなことの方が、手に取るように分かるって一体どういうことなのだ。

田嶋は素っ気無い表情のまま、タバコを銜えて火をつけた。淡々としているその様は、まるで悟りを開いた坊さんのようでもある。先だけ吸って、田嶋はすぐにその火を消した。

「……俺ね、ここ出て一度実家の方へ帰ろうかと思うんですよ」
「あ、そう」
「会社は、ちょっとばかり遠くなりますけど、通えない距離じゃないし」
「ふーん」
「業務引継ぎでたら、実家の近くで再就職先を探します」
「堅実じゃん」
「いいですか」
「良かねぇよ」

桂木はあっさりと否定した。 田嶋が、こういう選択をするだろうということは、この段階でまったくもってお見通しなのである。そんな一方的なもの、はいそうですかと認めてたまるか。

桂木はソファの背もたれに肘をかけると、そのまま田嶋の方へと距離を縮めた。

「別れる?本気か」
「ええ」

まったくもって小憎らしい。困った顔の一つも見せろよ。桂木は至近距離にある恋人の顔をじっと見つめたが、まっすぐ見返す田嶋の視線は決して少しも揺るがない。本当に真っ直ぐな男だと桂木は思う。

自己本意の桂木と違って、田嶋は自分ではなく他人のためだけに生きている、そんな気がした。 それは自分のことを自分で決めれないということでは、もちろんない。

(言っても聞かないだろうなあ。まあ、しゃーないか)

桂木は自嘲気味に笑った。

「可笑しいですか?」
「割と」

近づけていた身体を離して距離を開けた。

「別れたら、後悔するかも知れないぜ?」
「するでしょうね」
「別れたら、すぐ忘れちゃうかも知れないな」
「致し方ないですね」
「別れたら、すぐ次の男を作るかも。お前みたいな良い男は滅多にいねーから、不特定多数でしまくり!」
「恐縮ですね。病気には気をつけて下さいよ」
「これだけ聞かせろ。……俺、今どの辺にいる?」
「特別な所に」

言ったと同時に桂木は、田嶋の腕を力任せに引っ張ってそのまま深く唇を奪った。右に、左に角度を変えて、いきなり行為に溺れそうだ……。軽く石鹸の香りのする桂木の口付けに、田嶋はゆっくりと目を閉じた。

口付けていた時間は、1分だったのか5分だったのか。引っ張られた田嶋が押し倒すような格好になっていて、どっちが誘ったのか分からない。ゆっくりと口を離すと、眼下から桂木がニヤッと笑ってこう言った。

「いいぜ、好きにしな」
「我侭言って……すいません」

田嶋が身体を起こすと、桂木は手を出して俺も起こせと促した。音を立てるほどの激しいキスだったのに、二人とも何事もなかったような涼しい顔で、元の場所に収まる。

「妹」

桂木がポツリと言った。

「許してくれたら戻ってくるか」
「え?」
「もうちっと大きくなって恋でもすれば変わるだろうよ。待ってるよ」
「ちょ、ちょっと!俺は……!!」
「多少の浮気は我慢しろよ」

その言葉に、信じられないという顔をしたのは田嶋だ。なんだって?待つ?この男が?

「あんた……それ本気で言ってるんですか」
「冗談言ってどうするよ。俺はいつでも真剣だぜ」
「春になって頭がおかしくなったんじゃないんですか?何年先の話だと思ってるんですか!」
「5年先でも、10年先でも……」

呆然と、 驚いたままの表情をみせる田嶋の左頬に桂木は手を添えた。

「待つよ」

 


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