「はははっ、そりゃあ傑作だ!」
大爆笑、とまでいかなくても、いきなり大笑いしたのは総務の上島洋介だった。タバコを吸いに行った屋上で、ばったりと出くわして、尤も屋上だなんてこんな辺ぴな場所、田嶋の他には上島ぐらいしかお目にかかったことはない。
さも愉快そうに笑う上島の隣で苦虫を噛み潰したような苦い表情を浮かべたのは話題の本人、桂木だ。不機嫌な表情を隠そうともしないまま、右手の指に挟んだタバコを吸いあげ、2秒ほどしてふっと煙を吐き出すと桂木はバツの悪い顔を浮かべて目を伏せて俯いた。何とでも言え。
いつもなら正反対の顔をして話す二人の立場は今日は逆だ。昨晩……というよりは、もう今日の話になってはいたが、本当に行動自体が軽率だった。まさかあんな展開になるだなんて、深く反省、といった感じである。残念ながら、いくら反省したところで過去の過ちを消せるだなんてことは、天地がひっくり返ったってありえることはないのだが。
上島は大笑いしたが、桂木の頭の中にはその時の出来事が鮮明に焼きついて離れなかった。笑い事では到底、ない。
* * * * *
『……真由美……』
声を発したのは桂木だったか田嶋だったか。ただ呆然とその名を呼んだが、その場は一瞬にして凍りついた。高揚した顔、肩に回された両手、うっすらと額にかいた汗、露出した白い肌に残る赤い跡、それと……。これはもう、ちょっとふざけていたというレベルではすまされない。そういう行為をしていたのは誰の目にも明らで、言い訳するのも見苦しい。尤もあまりの突然の出来事に、何を喋っていいかだなんて一行たりとも思いつきはしなかったのだが。
罵声を浴びせるかと思いきや、真由美はすごい形相で桂木を睨みつけると何も言わずにその場を走り去ったのだ。
『真由美っ!』
すぐさま叫ぶと、田嶋は乗っかったままの桂木を力まかせにどかして、その跡を追いかけた。人間、あまりに突然の出来事に遭遇すると、頭が真っ白になるというのは本当らしい。数秒遅れて桂木も後を追った。
『真由美!』
部屋のドアはけたたましい音を立てて頑なに閉じられた。田嶋が何度か叩いたドアの音で、ようやく真由美のヒステリックな返事が帰って来たのだ。
『いやっ、もう、来ないでよっ!』
『真由美っ!ちょっと、出てきて……!』
『やだったら!』
田嶋も何を言っていいのか分からない様子で、後に続く言葉の一つも出てこない。桂木はこんなうろたえた田嶋の姿を見るのは初めてだったが、その後続いた真由美の言葉はかなりきいた。
『お兄ちゃんも桂木さんも気持ち悪いわよっ!あっち、行ってよ……!!』
結局そのまま、その扉は開かれることは無かったのである。朝、出勤する前に田嶋が声をかけてみたけれど、真由美の返事はウンともスンとも帰ってこない。当然か。
田嶋の大切な妹に一番最悪の状況で知られることになったのだ。それでも、田嶋は愚痴も、不満も、咎めるようなことさえ一つ口にしない。それが返って気まずくさせた。いっそ罵られでもした方がどんなに楽か。
呆然と、二人でドアの前に立ち尽くすこと一時間。苦渋の表情を浮かべ、やっとの思いで開いた口から出たものは、結局なんの変哲も、ひねりの一つも無いチンケな謝罪の言葉だった のだ。あまりにも定番過ぎて、反省の念など少したりともも伝わらないようなそんなありふれた言葉で、桂木はとりあえず営業でする45度のお辞儀よりうんと深く頭を下げた。
『田嶋、その……本当に悪かった……』
『ちょっ、主任!止めてください』
下げた頭を咎めるように田嶋は言った。
『謝って済む問題じゃないのは分かってる……、でもごめん!』
顔を上げる様子のない桂木に諦めたのか、ますます困ったような顔をして田嶋は顔を歪ませた。
『あんただけが悪いんじゃありませんよ。俺もその気になりましたし、なにより……あの時ちゃんと言っておけば良かったんです』
良かったというよりは、ショックの程度が微弱に減少する程度の慰めに過ぎない。背を向けて小刻みに震えていた田嶋の肩と、あの一晩中のまんじりともしない雰囲気の後味の悪 るさを、忘れられないだろうと桂木は思った。
* * * * *
「見てみたかったなー、そん時のお前の顔!」
上島はまだ笑いが止まらない、といったふうで癇に触る。そんな上島を横目でジロリと睨みつけると桂木は言った。
「……お前なあ、人ごとだと思って……」
「実際、人ごとだもんよ」
シレっとした顔立ちで上島は言った。確かに人ごとには違いないし、桂木と違って自制心溢れるこの男なら、恐らくはこんな展開どころか疑惑に上りもしなかっただろう。上島はそういう点でもソツのない、優秀な男なのだ。
「あのなあ、あの後本当に大変だったんだぞ!」
「知るかよ。大体、お前のは自業自得だっての!それは完ッ全にお前が悪いだろ、我慢できなかったんだから」
図星ばかり突かれて桂木の内心はズタボロだった。ああ、もう消えてなくなってしまいたい……。
桂木は3本目のタバコを取り出すと、銀のスリムなフリントライターで火をつけた。一息大きく吸い込んで、ゆっくり煙を吐き出すと桂木はムッとした表情で言ったのだった。
「じゃ、お前は横に、非っ常〜っに魅力的な恋人の寝顔があるっていうのに、5日間も我慢できるっていうのか」
「……それはちょっと自信ないな」
上島は自嘲気味に笑った。頭に思い描いたのはきっと今熱愛中の誰かさんなのだろうが、きっと上島ならもっと上手くやったに違いないだろうと桂木は思う。自分はもっと要領の良い部類の人間だと思っていたのに、思いのほか運もタイミングも悪い人間だったようだ。
「で、今朝はどういう状況だったんだよ」
「どうもこうも……話どころか部屋から一歩も出てこねえよ」
「ま、当然かな。俺が妹の立場だったら顔も見たくないね。特にお前の方はな」
「…………そらそうだよな」
桂木はいよいよ気難しい顔になって、タバコをふかした。落ちそうになった灰に上島が携帯灰皿をスッと差し出す。
「まあ、これもタイミングだろ。今日は早めに帰れよ。長い時間、部屋でジッとしてるなんてできるもんか。突然、何か始まればな」
上島はニヤっとした笑いを浮かべて、桂木に目配せをした。上島のこういうところ、敵には絶対回したくないと桂木は思う。
愛飲のゴールデンバッドの灰を灰皿に落として上島は再度タバコに口を付けた。
「あ、そうだ。お前さあ、『ハリー・ポッター』は観た?」
「いや、見てねー。面白そうだとは思うんだけど、なかなか機会がなくってなあ」
ハリー・ポッターは今や社会現象にもなっているイギリス生まれの大ブレイク作品だ。日本でも近年人気に火がついて、その人気ときたら、ネットで検索をかけるとそのすごいヒット数に思わず驚嘆の声を上げてしまう。
「実は先週、『賢者の石』のDVDを買ったんだけど結構面白かったからさ。見るか?」
「おっ、見る見る、貸してくれ!」
勢いこんで言う桂木に、「分かった、分かった」、とまるで子供を宥めるように上島は言うと、それじゃあ と言って去って行った。後に残された桂木は、4本目のタバコを取り出して口にくわえると、屋上の高い空を仰いだ。
「……それまでに、うまく、収まってるといいんだけどなあ……」
言わずと知れた、真由美のことであった。
* * * * *
いろいろと考えた結果、桂木は上島の言いつけどおりに早めの帰路についた。急ぎの業務はほとんど昨日で済ませていたし、何より仕事に手がつかない。
ただいま、と、家に帰ると真由美はまだ部屋に閉じこもったままで、やっぱりというか何と言うか……変わらぬ勢いで桂木を落胆させた。
「まだ、出てこないのか……」
桂木は呆然と真由美が篭ったままであろう扉を見つめた。ま、そりゃあ当然だろう。大好きなお兄ちゃんが、実は男と出来てました。しかも最悪なことにその濡れ場を目撃したとあっては、やはり……相当な、ショックだろうなあ。
桂木はますます陰鬱な気分になり、それでも田嶋の顔を見てると、そんなこと言ってられないと思う。別の意味で一番ショックを受けているのは田嶋なのだ。何か言いたげ、というよりは今にも泣き出しそうな顔をして、それでも冷静でいようと努めるその顔は、なかなかの絶品ではあるが早く何とかしなくては。
桂木は田嶋に聞こえないような小さなため息をついて、ドアの前に立った。ドア越しに弁解しようにも、どう言って切り出せば良いものか、さっぱり全然検討がつかない。それに一番問題なのは、その後のことなのだ。肝心の真由美がこの剣幕で、言ったところで二人の仲をとても許してもらえそうにもない。いや、それより冷静に話が出来るかどうかも……怪しいな。
時計の針は20時を回っていて、刻々と時間が流れる。田嶋はコンコンとドアを叩いて、話かけた。
「真由美、夕食……」
『いらない』
「そんなこと言わないで、ちゃんと食べないと……」
『顔見たくないのよ……、あっちへ行って!』
とにかく部屋から出て話しをしないことには……。一体誰のせいでこうなったのか、大きなため息をつく田嶋を見るのも忍びない。桂木は正面のドアをジッと見つめるとゆっくりと目を細めた。
『長い時間、部屋でジッとしてるなんてできるもんか。突然、何か始まればな』
ドアの前で心配そうな顔をして、うろうろする田嶋の肩に手をかけて、桂木は田嶋の耳に口を寄せた。
「田嶋。…………」
「え?何…………。…ちょっと、主任!」
部屋の電気もつけず、真由美はドアの前にうずくまっていた。もちろんドアを開けさせないためだ。この部屋には鍵がない。
「もう……」
信じられない、大好きなお兄ちゃんが、男と、あんな……!!
ふと何かが聞こえたような気がして真由美はとっさに頭を上げた。扉の外から聞こえる小さな声。真由美はドアの外へ神経を集中させて、そっと耳を澄ました。
『ちょ……、主任!』
『いいじゃん、妹なんてもうほっとけよ』
『そんなわけにはいきませんよ……あ!』
『もう気にしないで存分にやれるじゃん。昨日の続きとか……』
『ちょっと、本当に、やめ……あ……っ』
一応性的な知識のある高校生が何を連想する会話であるかは容易に想像がつく。これを聞いた真由美は慌ててドアを開けた。
「バカッ!いきなりこんなとこで始めるなんて止めてよっ……!」
ドアを開けた真由美の目に入ってきたのは、ドアのすぐ前に立ちふさがる桂木の姿だったのだ。
『田嶋。作りものでいいから、良い声出せ』
『え?何…………』
耳打ち仕掛けたさっきの言葉。真由美がやられた!と慌ててドアを締めようとしたけれど、もう遅い。すばやく右手でドアを指しとめていた桂木はニヤッと笑って言ったのだった。
「いくらなんでもするわけねえだろ、こんなところで」
呆然とした表情を浮かべていた真由美だったが、数秒立って桂木をキッと睨み上げた。
まさに、一触即発。
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