ナイーブ

桂木が自宅のマンションに着いたのは、時計の短針が 「10」 のところを過ぎた22時だった。17時過ぎに駅前で田嶋たちと別れてから、もう既に5時間以上が経過していることになる。

桂木はマンションのドアを締めると、もう習慣的に施錠と、ドアチェーンをかけた。

「ただいま」

独り言のように軽く言って桂木は、入って突き当りの短い廊下を真っ直ぐ進んで、ダイニングキッチンに続くそのドアを開けた。最近いつもと違うのは、部屋に入ってから一人ではないということだ。

馴染んだキッチンに足を踏み入れると、続きにあるリビングのソファに座って田嶋が受話器を片手に電話をしていた。少し憮然とした表情を浮かべているのは気のせいか。入ってきた同居人に気づいたのか、田嶋は目だけ桂木の方を向けて、2、3度軽く頷くような素振りを見せる。そしてそのまますぐに真っ直ぐ視線を前に戻した。

「うん、そう……こっちはいいから。うん…、うん……それじゃ」

そう言って電話を切って目の前のテーブルに置くと、田嶋は立ち上がって桂木の方を振り返った。

「主任、おかえりなさい」
「何、電話?」

ネクタイを緩めながら桂木は続ける。

「ええ。あいつ、親にも言ってなかったみたいで…困りますね」

困惑とも取れる苦笑を田嶋は浮かべた。

それはそうだろう、と桂木。田嶋は一応社会人なのだ。客人が来ると、大なり小なり生活ペースは乱れるし、会社だってそうそう休んではいられない。親が止めるのは尤もで、それにうまく泊めてもらえなかった時には潔く家に帰るつもりだったのかもしれない。

桂木はそんなことを考えながら、辺りをキョロキョロ見まわした。

「……真由美ちゃんは?」
「今、風呂に入ってます」
「あ、そう」

短く言って桂木は、リビング横に置いてあるハンガーラックに手馴れた様子で上着をかけた。下に着ている薄いグレーのカラーシャツが、色素の薄い桂木の髪と色よいコントラストを保って、こういう姿を見る度に自分の見せ方を良く知っている男だな、と田嶋は思う。

「結局、何日泊まんの」

桂木はそう言って緩めたネクタイを完全にほどくと、シュルっと音を立てて肩から外した。

「1週間のつもりで来たみたいですよ」
「は、1週間?長いような、短いような……」
「……すいません」
「ああ、いや。そんなことじゃなくって」

桂木はすまなさそうに顔を俯けた田嶋の横に立つと、その感度の良い耳元で低く小さく囁いた。

「こんなことなら朝、ちゃんと最後までやっとくんだったな」
「え?」

顔をパッと上げると、ニヤニヤとした顔つきで桂木は田嶋を見ていた。我慢できるかな、と桂木。それを聞いた田嶋は瞬時に意外そうな顔を桂木に向けたのだった。ちゃんと、考えていてくれたのだ。

「へえ。無駄かもしれないけど、一応こっちから釘をさそうと思ってたんですけどね」
「アホ」

言うと同時に桂木の手のひらがポンっと田嶋の頭を軽くはたいた。

「俺だってちゃんと考えてるよ。妹が隣に寝てるっていうのに……しちゃ、まずいだろうよ」

桂木はバツの悪そうな顔を浮かべた。いつ、どこでどうバレるのか分からない。ある意味スリリングではあるが、そういうことで二人の生活が気まずくなるのはごめんだった。とりあえず、この一週間をやり過ごせば問題ないのだ。

「そうだ、布団…」

思い出したように田嶋が言った。

「代えの布団ありますか?俺んちにあった来客の布団、こっちに来る時実家に戻しちゃったんでないんです」
「え、俺んちないよ。だってそんな部屋別にするような客なんか来ることなかったし……」
「ふーん、同じベッドで寝る相手ばっかりですか。シーツは一杯あるのにねぇ」

冷ややかにジロッとこちらを睨んだ田嶋の視線に、やぶへびだ、と桂木は思った。

真由美は17歳と年頃なのだ。いくら兄妹といったって、田嶋と一緒の部屋に寝かすわけにはちょっといかない。

「ううん、ソファででも寝ようかと思ってたんですけど、掛け布団がないんじゃあまだ寒いですよね…。どうしたもんかな」

田嶋は右手のひらで頬を擦ると困ったような顔を浮かべた。そこまで見ていてピンと来た。ははーん、どうやら田嶋は自分の寝る場所を確保しようとしているのだ。

桂木の部屋は3LDKだが、そのうち一室は田嶋が来てから完全な物置と化していて、人が寝られるような場所では到底ない。そうなると使用できる部屋は二つしかない計算になり、今使っている田嶋の部屋は当然真由美が使うのだ。22時では恐らく店も開いてはいまい。

ううん、と考え込んだ田嶋に桂木は、一瞥くれるとサラリと言った。

「いいじゃん、俺の部屋で寝れば」
「は?」
「ダブルで広いぜ。不満?」
「いえ、不満っていうか……」

一瞬驚きに似たニュアンスを持った瞳が、見る間に細められる。

「いやですよ、大体不自然じゃないですか」
「布団がないから仕方なく男同士で寝るのが?意識しすぎじゃねえの」
「う……」
「寒い夜にソファで毛布一枚なんかで寝て、風邪引くほうがよっぽど不自然だと思うけど〜?」

意地悪そうに語尾を上げて、ニヤニヤと桂木は微笑を浮かべた。確かに暦上では春だと言っても、3月下旬はまだまだ寒い。

田嶋は少し考え込むように右手の拳を口元に当てた。その表情は少し憂い気味で、不謹慎にもちょっとそそる。やがて十数秒が経ち、田嶋が手を当てたままの視線で桂木をジッと見つめてこう言った。

「我慢、できます?」
「……する」

ワン、と犬が飼い主の言うことを従順に聞くが如くに桂木は、半ば諦めたように返事を返した。見た目が大型犬っぽいだけに、ちょっと笑える。

「あとそれと……」

クスっと微笑を浮かべた田嶋の顔が少し色を失って、一つ言葉を付け足した。

「すいませんでした」
「はあん?何が」

何のことだか、分からない。訝しげな表情を浮かべる桂木とは対照的に、すまなさそうに、本当にすまなさそうな面持ちで、田嶋は小さな声で言ったのだった。

「…本当のこと、言えなくて」
「ああ、あのこと」

田嶋の憂いは、駅前でのご対面で妹に桂木のことを 『友人』 だと、紹介したことだったのだ。

「別に構やしねぇよ。お前にも立場ってもんがあるんだろうからよ」
「俺がどう思われるかとか、そんなことはどうでもいいんです。ただ、高校生っていう多感な時期に、こんなことわざわざ教えたくなくって……」

『自分がどう思われようが、そんなことどうでもいい』。田嶋らしいな、と桂木は思った。

田嶋は顔を俯けたまま、視線を合わせない。そして田嶋がどんな気持ちで嘘をついたのかも、桂木は十二分に知ってるつもりだ。

うん、と小さく相槌を打って、いきなり気弱な口調になった田嶋の腕を掴んで引き寄せると桂木は言った。

「まあ、そりゃあショックだろうなあ。自分の『お兄ちゃん』がホモじゃあなあ」
「ホモって、別に俺はどっちでも……」
「俺は男じゃなきゃ、ダメなの」

そう言うと桂木は軽く抱きしめた田嶋の身体を少し離して、唇にそっと短く口付けた。合った視線が優しげな色で田嶋を見つめる。

「大事な妹、ね。そんなに可愛いもんかな、妹ってのは」
「そりゃあ可愛いですよ。なにせ10も年が離れてるんです。産まれたときから覚えてるんですから」
「俺、兄弟いねえから分かんねぇ」

でしょうね、と田嶋はクスリと笑うと、桂木の腕をほどいて離れた。

「まあ、俺にとって妹は……ちょっと特別なんですよ。ご飯、食べますよね。用意してきます」
 

 

*    *    *    *    *

 

「毎日ちゃんと食わせてやるよ」、と、桂木が最初に言った約束は、今は一体どうなってるのか。

目の前に並べられた一汁ニ菜の彩りに、桂木は感謝の念を込めて手を合わせた。据え膳って素晴らしい。

約束はあってないようなもんである。朝は低血圧の田嶋には到底無理だが、いかんせん夜となると、先に家にたどり着いた方がすることになる。普段ならそんなに差のない帰宅でも、今が忙しい桂木には無理なのだ。ところが、である。何も出来ないといっていた田嶋はそれなりに料理を作れるといったことが判明した。

まあ、働きに出ていた母親の代わりに、あの妹にいろいろと作ってやったりもしてたんだろうな、と想像を巡らすのは大して難しいことではない。田嶋は 「何もできない」 のではなくて、「自分の生活に対する無頓着さから何もしようとしなかった」 だけだったようなのだ。

結局、夜はほとんど田嶋が家事を努め、なにやら本当に嫁さんを貰った気分にもなってきた。すぐ目の前の椅子に座った田嶋の顔を見ながら思わずにいられない。

「ぐわー、幸せ……」
「何冗談言ってんですか」

空になった食器を前に、桂木がポツリと心境を漏らすと、迷惑そうに田嶋が返した。ホントに連れない。桂木が苦笑を浮かべると、ちょうど真由美が風呂から上がってきたのだった。

「あ、桂木さん!お疲れさまです、お帰りなさい。すいません、先にお風呂、頂きました」

そう言って真由美は桂木にペコッっと頭を下げた。駅前での剣幕とはえらい違いで、思わず桂木は吹き出しそうになる。桂木は誤魔化すように水を飲んでコップを置いた。

「ああ、田嶋。お前も先に風呂、入っとけよ」
「あ、じゃあ先に入れさせてもらいます」
「それと明日は俺、休日出勤だから」
「忙しいんですか?」
「めちゃくちゃ」

桂木の今週・・・いや、この月末は特別忙しかったのだ。まあ、もともと中間管理職営業の仕事もこなさなければならないのだから、いつもかしこも忙しい。しかもよりにもよって今週は、週明けまでに仕上げてしまわなければならない見積りが、あと2件残っていて、かなりの割合でカツカツなのだ。

「まあ、明日の日曜日は二人でどっか行って来てよ」
「桂木さん、来ないの?」

残念そうな顔をしたのは意外にも、桂木の恋人本人ではなく妹の真由美の方だった。どうやら、田嶋の同居人としては合格点を貰えたらしい。

桂木はニコっと笑って付け足した。

「真由美ちゃんみたいな可愛い子と一緒に歩けないのは残念なんだけどね」
「……よく言えますね、そんなこと」

女には興味がないくせに、と田嶋は呆れた目を向けた。目の前のその席で、小さく囁くその声は半ば蔑みに満ちている。

「俺は嘘はつかないぜ。ま、田嶋の大事な妹に手は出さないから安心しろよ」
「その点においては信用してます」

『手を出さない』んじゃなくて 『はなから対象外』 なのだ。そういった意味では、桂木というこの男の素行は保証付きだともいえる。弟だったらどうなのか、分かったものでは到底ない。妹で、本当に良かった。

田嶋は小さく息を吐くと、席から立ち上がった。

「じゃあ俺、風呂に入ってきますから」

そう言って、田嶋は素っ気無くキッチンを後にした。ところが、である。

「桂木さん……すいません!」

二人きりになった空間で真由美がいきなり謝ってきたものだから、慌てたのは桂木だ。なんなんだ?

「は……何か、悪いことでもしたの?」
「実は私……、疑ってたんです」

疑う?疑うって一体、何を……。

突拍子もない真由美の告白は、桂木の内心をドキリとさせた。バレるようなこと、したっけか……。

「お兄ちゃん、ああいう性格でしょう?何の前触れもなく同居なんて始めたから、女の人と結婚を前提に同棲でも始めたんじゃないかって」
「同棲……」

真由美の言わんとするところの言葉の意味を、呆けた頭で数秒のちに理解して、桂木は声をあげた。

「ああ、そういうこと!」
「桂木さんって、女の人じゃないかと、疑ってたんです」
「……苗字しか、言ってなかったのか」

桂木は『女の人』ではなかったが、その実態は真由美の危惧したそれと大して変わらない。否、世間一般の常識からはみ出している分だけ、それより数段性質が悪いともいえる。桂木はポーカーフェイスを保ったけれど、内心冷や汗が出て止まらなかった。おいおい田嶋!お前の大事な妹はかなりな率でするどいぜ。

桂木はテーブルの上に装備してあるラッキーストライクに手を伸ばし、まるで間持たせするような感じでタバコの先に火を点けた。気まずい……。

煙を吐き出して目が合うと、ふと、思い当たることがあって桂木は真由美に訊いてみた。

「真由美ちゃん、何も言わずに来たのはそのことを確かめるため?」
「……うん」

真由美は小さな声で俯いた。

「真由美ちゃん、田嶋……お兄ちゃんのこと好きなんだ」
「うん。皆からはよくブラコンなんて言われるけど」
「ふうん……」

この兄にして、この妹あり、か。まあ、それは分かる気がする。何せ田嶋はこの自分が惚れた最高の男なのだ。顔良し、性格良し、仕事はかなりデキてソツがない。無口であるけど、それは決して口下手だというのではなく、田嶋という男の価値に対して何らマイナスになるような要素ではないのだ。女からみればかなり良い男の部類に入ると桂木は思う。そんなのが兄なのだ。生まれた時から傍にいて、そんじょそこらの男なぞ、さぞ物足りなく薄っぺらく見えてしまうに違いない。

ま、恋愛における性格は多少難有りだけど……と、そこまで思って桂木は苦笑した。

 

*    *    *    *    *

 

「いやだ真由美、そんなこと言ってたんですか?」

桂木の寝室で、呆れたような声をあげたのは田嶋だった。

自慢のダブルベッドの上でタバコをふかしながら桂木は、さっきの会話の一部始終を言って聞かせた。サイドテーブルに置かれたライトスタンドだけの明かりが、部屋をひどく深鬱な感じにさせる。

桂木は手元の灰皿に灰を落とすと、こうも言った。

「あなどれないよなあ、女の勘って。お前も気をつけた方がいいかもしんねーぞ」
「はあ……」

分かっているのかいないのか、気のない返事を田嶋は返す。

あと30cm手を伸ばせば、すぐにでも触れられる距離にいながら一週間もお預けか。隣で新聞を広げた田嶋を横目で見ながら桂木は苦笑した。まあ、壁を挟んですぐ横に、真由美の寝ている田嶋の部屋があるのだから、追々無理をするわけにもいかない。

桂木は灰皿にタバコの先を押し付けると横になり、右手のひらで頬杖をつきながら困ったような笑いを浮かべた。

「しかし、可愛いじゃないの。明るくて、真っ直ぐで……イイ子じゃないか」

桂木がそう言うと、田嶋は今まで桂木が一度だって見たこともないような静かで、穏やかで、鮮やかな笑い顔を見せた。

「ええ、アイツがそういう風に育ってくれたのは、俺にとっては何よりの救いなんです」
「救い?」

そんな大袈裟な、と思って桂木はその言葉を繰り返した。しかし田嶋はそのことをあまり触れて欲しくないようで、その続きを無視したのだった。

「寝ましょうか」

そう言って田嶋はパチリと、サイドテーブルにあった唯一の明かりを闇に消した。

 


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