ナイーブ
12

「ひっでザマだな」

膝をついた上島が、傷の程度を確かめるように眺めて言った。

「痛ってぇ……。ちくしょ、石ついた指輪か、なんか嵌めてやがったな……」

歩道に座り込んだままの桂木がそう言って、左頬を手のひらで拭うと、かすれるような赤い血がうっすらと付着する。尤も口の中では鉄臭い血の味が充満していて、うっすらどころの騒ぎでない。

ふと桂木が俯けていた顔を上げると、もう、すぐ傍らの上島の隣で真由美が震えながらしゃがみこんでいて、その双眸から涙の粒がボロボロ零れた。体がその都度しゃくれ上がるその様を見て、一体誰が一番酷い目に遭ったのか分らなくなる。桂木はゆっくりと手のひらを差し出して真由美の頭をクシャっと撫でた。

「怪我ないか?」
「ない……」

たった二文字のその言葉が、ひどく弱々しくて聞こえにくい。とりあえず怪我のなさそうなのを目で確認して、桂木は安堵した。面子立つかな。

撫でた頭からその手を滑らせ、桂木の指が真由美の髪先を気持ち軽く引っ張った。その隣で上島が、 誰? という視線を寄越してきたので、桂木は思わず困った顔の苦笑を浮かべてしまう。

「田嶋の妹」
「あ、」

なるほどね。最後まで言わないまま上島は言葉を切った。まあいいけど、と上島が特になんの関心もなさそうな小さなため息をついて、立てよと促す右手を前に差し出した。上島にしては珍しく、ニヤニヤと笑うその顔を見て桂木は正直内心ムッとする。

「言いたかないけど、一応礼は言っておく。サンキュー、助かった」
「一応、ね。礼はいいから1回『貸し』な」
「……ヤなヤツだな」

お前に言われたかねーっつの、と言いながら、上島の顔は未だニヤニヤしたままだ。そりゃだって、そうだろう。滅多にみれない桂木の弱みを握ったのだ。喜ばずしてなんとしよう!

対する桂木は仏調面を浮かべたまま手を出した。座ったままでは威厳もクソもありはしない、と、とりあえず気持ち分、少しだけ上から上島を見下ろしとこうと桂木は思った。尤も言ったところで上島との身長差が何センチもあるわけではない。しかし桂木のプライドを回復させるにはささやかだけど、多少の効果はあるはずなのだ。

差し出された上島の右手を取って、桂木は立ち上がろうとしたけれど、ところが全然上手くいかなかった。それどころか思わず顔を顰めて歪ませて、不自然に止まった動きを不審に感じた上島が桂木の顔を覗きこむ。どうだ。

「…おい…。すごい汗だぞ」
「上島…悪ぃ、迷惑ついでに救急車呼んでくんねぇか…」

桂木は顔を顰めたまま、上島の上着の袖をギュッと掴んだ。

「肋骨折ったかもしんねぇ……」

 

*    *    *    *    *

 

駅すぐ近くにある消防局は、まったくもって迅速だった。「ケガ人です」と、上島が携帯から電話を掛けてから、ものの3分で現場に到着。二人の救急隊員が座り込んだ桂木を見て担架を持ってこようとしたが、さすがにそれは遠慮した。肋骨意外はそんな大した怪我でもないのに仰々しくて恥ずかしい。結局上島の肩を借りて救急センターの診察室に入ったのだった。

 

「また派手なケンカをしたもんだねえ」

と、言って今日の当直なのだろう、医者としては若く見える目の前のその男は、桂木の顔と胸部レントゲンを見て苦く笑った。

「はぁ……」

白い簡素な診察室で、愛想ない返事を桂木は返す。1メートルほど後ろに離れた場所に二人が立ってその様をじっと見ていたが、尤も心配そうなのは真由美一人で、隣の上島は涼しそうな顔なんかをしていた。

「肋骨どころか頭蓋骨折っても死なねぇよ」

だから安心しろ、と言わんばかりに上島は呟いた。その言いざまは、結構ひどくてめちゃくちゃだ。その言葉の荒くたさに真由美は思わず驚いた視線を上島に向けた。そんなひどい…。

それでも自信に満ちたその目は真由美の不安をかき消した。確かにこんな程度で、桂木みたいなタフな男がどうにかなるわけもない。真由美は気丈に視線を前に戻した。

「肋骨1本。うーん、キレイに折れてるから特に入院はしなくていいですよ」
「……肋骨折っても入院しなくていいんですか?」

骨折イコール即入院、だと思っていた桂木は意外そうな顔をした。

「3本以上折れてたら即入院なんですけどね」

若い医者は淡々と言いながら、ミミズの乗ったような文字列を早書きでツラツラとカルテに書着込む。カルテに書かれる文字はドイツ語らしいが、じっくりと目を細めて垣間見ても、さっぱり読めないと桂木は思った。

「痛み止めと化膿止めを出しときますけど、週明けに整形外科の方に行ってください。僕は整形は専門じゃないんで……。まあその間に腫れてきたり、痛みが酷くなったりするようならまた来てね」

と、医者は言って看護師に声をかけると、ひどい有様になった桂木の傷口の消毒を依頼したのだった。ある程度の手当てが終わるともう病院に用はないけど、一服ぐらいは吸わせて欲しい。診察室を出るやいなや、間髪入れずに桂木は自分の欲望を口にした。

「上島、タバコくれ」
「ちゃんとした場所で吸えよ」

諭すように言って、上島は顎をしゃくった。世間は今や禁煙ブームだ。常備灯と少しばかりの照明でほのかに薄暗いロビーの片隅に、追いやられたような4畳程度の喫煙コーナーがそこにあった。まあ病院だから当然かな。

桂木はジャケットのポケットに右手を突っ込むと、その手を真由美に向けて差し出した。驚いてとっさに出した両手にチャラチャラと音を立てて、種類の違う小銭が数枚、真由美の手のひらに踊る。

「ジュース」

慌てて上げた視線の先にはニコッと笑った桂木の顔があって、思わず真由美をドキリとさせた。なんでこんな場面でそんな笑顔で笑えるのだ。

「好きなの買ってこいよ」
「あ、ありがと……」

動いた真由美の心がはっきりと形になった瞬間だった。

 

*    *    *    *    *

 

「あー、その辺痛てー……」

座りながら桂木は小さな声で呟くと、一番ひどくやられたであろう顔の、口元を手のひらで擦った。それから頂戴したタバコのフィルターを口に銜えてゴソゴソと、身体の周りを探ってみたけどお目当てのものは見つからない。気づいた上島が、スーツの内ポケットからライターを取り出して、桂木の目の前で無言のまま火を点けた。サンキュ、と小さく言って、上島も続けざまに自分のタバコに火を点ける。オレンジ色の紙パックを包み込むように持った真由美も桂木の隣に腰かけた。さっきより幾分落ち着いた感じが見て取れて、本当にヤレヤレだと桂木は思う。

それにしてもムカつく……。あのままイケてたら、絶対勝てたケンカなのに。

尤も本質はそんなことでもないのだが、桂木は不満を率直に述べるような勢いで報復の言葉を口にした。

「……くそ、あいつら、ウチの会社に入社してくるようなことがあったら職権乱用して犯しまくってやる……」
「おいおい、品のないこと言うなよ」

品があるとかないとか以前に、それじゃ脅迫という名の犯罪だ。ついでに強制わいせつ罪も適用される。桂木が言うと冗談に聞こえないところが恐しかったが、本人はいたって冗談のつもりだから始末に終えない。桂木はフィルターを軽く吸い上げると、少し離して煙を吐いた。

(そういえば、こいつ、なんであんなところにいたんだろう……)

ふと、桂木の頭に疑問が沸いた。上島の家は、桂木の家とは会社からいっても全然反対側なのだ。それが一体どうしてあんなにもタイミングよく現われたのか不思議でならない。

桂木はタバコを持った右手で頬杖を付くと、チラリと目線をナナメに向けた。

「おい、上島。助かったけどよ、なんでお前あんなところにいたんだ?お前ん家、全然方向反対じゃんかよ」
「ああ」

思い出したように上島は一言言って、無造作に足元に置いたビジネスバッグを膝に載せると、金の留め具をパチリと外した。

「そういや、すっかり忘れてた。これ」

桂木の目の前に、小さな紙袋に入った長方形状のものが差し出されたのだ。

「『ハリーポッター』」

上島が一言言うと、瞬間桂木はあっと言う顔をした。そういえば、そんな約束したっけか。あれからいろいろありすぎて、そんなこと桂木の頭からはとうの昔に消えていたのだ。

「昨日持ってきたんだけど会わなかったし、今日営業部へ行ったら代休とってるし。で、持ってるものなんだから家まで渡しにきた」
「……わざわざ?」
「わざわざ」

桂木は驚きを通り越して半分呆れた。几帳面もいいとこだ。

「でも感謝しろよ。そのおかげで助かったんだから」
「ま、まあ確かに……」
「びっくりしたぜ、駅前でめちゃくちゃに殴られてる男がいるんだからよ。しかも近づくとそれがお前だったりすんの!もう笑うしかねぇよなぁ」

(……笑えねーっつの)

心の中で即座に突っ込みを入れたが、上島の顔は本当に可笑しくて仕方がないという風で、収まりかけた桂木の内心に波風を立てる。いつも苦虫を噛み潰したような顔ばかりしている上島にしては珍しが、助けられた方としては、肩身が狭い。

……しかし……『ハリー・ポッター』。

桂木は袋の中をこそっと覗いて睨むように目を細めた。このシリーズは世界のあちこちで大人気だから、当然その続編が何本も出てるのだ。そして、この先新しく製作されるのも間違いない。と、いうことは、だ。

(この映画のシリーズを見るたびに、この日のことを思い出すのか……なんか、嫌だな)

良い思い出ではないから当然だ。なかったことにしようと桂木は、無表情気味に袋の口をグシャッと閉じた。

「さてと」

上島はタバコの先をすぐ前のスモークスタンドに押し付けると、立ち上がりざま左手の袖をスッとずらして、手首の時計に視線を落とした。22時。

「そろそろ帰るぜ、連れが部屋で待ってるからな」
「連れ?恋人の間違いだろ」

ニヤニヤ笑う桂木を、あからさまにムッとした顔で上島は見下ろした。

「うっせぇ、バカ」

いきなり険悪なムードになった二人の間にどういう立場をとればいいのか分からずに、真由美はどっち付かずのまま落ち着かない目線を交互に向けた。そんな視線もお構いなく、上島はビジネスバッグを右手で持って肩に掛け、喫煙コーナーの入り口へと差し掛かる。

「上島」

桂木が声を掛けた。

「ホント助かった。ありがとう」
「あ、ありがとうございました!」

つられるように慌てて真由美も立ち上がって頭を下げた。

「大事にしろよ」

振り向きもせず素っ気無くそう言って、上島はパーティションの後ろへ姿を消した。

 


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