ナイーブ
13

「さて、と」

素っ気無くも上島が去った後、桂木もそう言って吸いかけのタバコを灰皿に押し付けた。見知らぬ上島がいなくなったことで、ある種の緊張はほどけたが、横に座った真由美としては、まだまだちょっと落ちつかない。それでも、そんなことなど少しも気にしてない素振りで桂木は言葉を続け た。

「明日帰るんだっけ」

まあ、ちょっと寂しくなるけど、と、うつむき加減に目を閉じて、桂木はジャケットの襟を数回揺すって引っ張った。幾分首元が楽になる。

「急なことでアレだけど、田嶋、来週にはそっちに帰すように手配するから」
「え……」
「心配すんな。どうせこんなんじゃ、なんも出来ねえよ」

そこまで言って横目で真由美に視線を移すと、桂木は苦笑した。本気で笑うと折れた肋骨が半端でないくらい痛いので 微笑を浮かべた程度だが、その言葉の意味するところが分からない。数秒経って真由美は初めて気がついた。

「だ、誰もそんな心配なんか……!!」

照明が暗くてよくは見えないが、頬が少し紅潮したのが見て取れる。今時の子供にしては初心な感じがしないでもないけれど、まあ普通の男女に当てられる、それとはちょっと違うかな。

桂木はニヤッと笑って、からかうように言葉を返した。

「したした、したって!」
「してないもん!」

真由美は口を尖らせて、ぷうっと膨れっ面をしたけれど、悪びれない、桂木のニヤニヤ笑う顔を見てる内になんだかとても可笑しくなって、数秒経って噴き出した。

「ふっ、あはは……」
「おっ、3日ぶりに笑ったな」

指摘を受けて、真由美はきょんとした顔になった。ずいぶん長い間笑わなかった気がするけれど、実際そんなもんだったのだ。桂木は気持ち下から覗き込むような角度で真由美の顔に視線を移した。

「笑うと可愛いな。田嶋はあんまり笑わないから新鮮に感じる」

笑うと幾分幼くなるその顔は、田嶋とはあまり重ならないのに、何故だかひどく桂木の胸を痛くした。多分それは田嶋があまり笑わないからだろうけど、たまに見せる笑顔はこんな風に、もっと屈託なくていいと桂木は思う。

「本当に怪我ないか?お前になんかあったら、田嶋に合わせる顔ねえよ」

苦い笑いを思わず浮かべた。上島が寸でのところで現れて本当にラッキーだったが、もしもの事が起こっていたらと思うと、正直いってゾッとする。見知らぬ土地であるこの場所に、真由美を放りだしたままにしたのはちょっと軽率だったかも、と、桂木は猛省した。どうか田嶋に怒られませんように。

そこまで思って、桂木は隣で神妙な顔をしたままの真由美に気が付いた。

「真由美?」
「……ねえ、どうしてそんなに優しくできるの。私、2人のこと反対してる嫌なヤツじゃない。おまけにこんな酷い目に遭わされて…いいことなんか一つもない」

はあん、と、桂木はその首を、2度ほど小さく縦に振った。気持ちは分からないでもないけれど、これで真由美の気持ちが動いたとしたならば、肋骨の一本や二本ぐらいは安いもんだとと桂木は思う。

少し考えた素振りで沈黙してから、桂木は口を開いた。

「お前、田嶋の妹だよね」
「うん」
「どういうわけだか、田嶋はその小憎らしい妹をとても大事にしてるわけよ。大した反対でもないのに、俺みたいないい男とすぐさま別れを決断するぐらいにね」
「……」
「不公平だと思わねえ?家族はどんなにしたって切れることがないのに、俺とは別れたらそれっきりだっつーの」
「別れる?」
「お前が反対してる以上はね」
「……」
「まあそれだけ真由美の気持ちを優先してるってこと」

桂木は両手をジャケットのポケットに突っ込むんで椅子の背にもたれると、俯き加減にゆっくりと目を閉じた。

「田嶋が大切にしてるもんなら、俺も大事にしたい。出来るだけ気持ちに沿ってやりてえよ」

そこまで聞いて真由美は、ああ…、と、もうどうしようもない、それでいて敵わないような気持ちになった。膝上にかかるスカートの先を握りしめ、その手が震える。さっき、小銭を差し出した桂木の笑顔を見た時から、真由美の心は既に一つの方向へと動き始めていたのだ。

「桂木さん、私、私は……」

搾り出すような声で呟いた真由美の言葉に被さるように、薄暗い病院のロビーに急ぐ靴音が遠くに響いた。その足音に二人は同時に顔を上げる。誰だ?

ものの数秒としない間に、入り口として配置された仕切りの切れ間をガタっと言わせて、その存在は姿を成した。

「田嶋……」

桂木は呟くようにその名を呼んだ。上がり気味な呼吸から、田嶋がどんなに急いでここに来たのかが一目で分かる。真由美は思わずその場に立ち上がった。

「お兄ちゃん……」
「肋骨折って病院って……一体何があったんですか」

声には多少の狼狽が感じられたが、その口調は極めて厳しい。目の前に立った真由美の姿を通り越し、田嶋は桂木の方を見る。レントゲンを撮る前に、心配しないようにと上島に連絡を頼んだが、ご丁寧に病院名まで言ったのか。まさか来るとは思わなかった。

「何って…見ての通りだよ」
「全然分かりません」

口調と同じで表情もなかなか厳しい。田嶋でもこんな顔をするのかと思って、桂木は妙なところで得をした気分になった。

「あんたら一緒にいたそうですね。真由美が関連してるんですか?」
「二人で歩いてたらちょっと絡まれてケンカになったのさ」

桂木は素っ気無く答えたが、田嶋が聞きたいのは実はそんなことではない。どういう経緯でそんなことになったのか。昨晩まで険悪だった二人が街中へ、一緒に仲良く出かけるなんてありえないのだ。

田嶋は気丈な顔で桂木をじっと睨むと、納得いかないといった感じで言葉を続けた。

「肋骨折るようなケンカがちょっとですか。俺が聞きたいのはそんなことじゃなくって……」
「わ、私が……!」

真由美が声を上げた。

「私が悪かったの、ごめんなさい……。ごめんなさい……」
「どういうことだか分からない。ちゃんと説明して」

田嶋は真由美の両肩に手を置いて正面になるようにこちらに向かせた。桂木に相対したさっきと違って幾分優しい口調にはなったけれど、事態をうやむやにするつもりは田嶋にはない。まったく真由美に非がないわけでもないけれど、そこはお互いさまなのだ。それにこれは、真由美にとっても十分ショックな出来事で、それらを今すぐ詰問するのは少々酷でもある。雰囲気に焦れたように、桂木は横から口を出した。

「おい、田嶋…」

桂木の声を真由美の肩越しに、田嶋は目だけ合わせて首を振った。異議は却下されたのだ。

「お兄ちゃんの話を桂木さんとして、それから……」
「それから?」
「いろいろ考えて、よ、よく分からなくなったの……」

必死に言葉を紡ごうとするさまは、桂木の目には痛々しく見えた。桂木の眉間に、あからさまに不満を伝える皺が寄る。

「よく分からなくなったって何が」
「お兄ちゃんにとって、何が一番いいのか……」

それを聞いた田嶋は瞠目した。何が一番いいのかだって?

「そ、そしたら一人で考えたくなって、外に出たの。時間が、経ったら、い、家に帰るのが気まずくなって……駅でお兄ちゃんを待って……。そ、そしたら知らない男の人3人と目が合って 、声をかけられて……」

真由美はゆっくりと俯いた。

「桂木さんが、助けに来てくれた……」

シン、と、緊張した空気がロビーに流れた。俯いた顔の下で真由美の肩が小刻みに震えて、怯えているのが見てとれる。田嶋は苦い顔でそれを見た。

「大体、分かった。でも」

田嶋は一呼吸おいて、言葉を続けた。

「俺にとって何が一番とかそんなこと思わなくてもいい。お兄ちゃんはお前の言うとおりにちゃんとするって言ったよな?これまでだって、これからだって……」

真由美は泣きそうな顔で視線を上げてハッとした。

「だけどもうこんな……」
「…………」

目の前のその兄の方が、よっぽど泣きそうな顔をしている。それは自分のせいなのだ。

「誰かを巻き込むようなことはするな……!!」
「落ち着けよ」

搾り出すように言った田嶋を宥めるように、いつの間にか真由美の後ろに立って桂木が言った。その桂木をじっと睨んで田嶋は続ける。

「十分落ち着いてます。あんたは黙っててください」
「この程度で済んだんだ、もういい」
「この程度ですって?肋骨折れば十分でしょうよ!」

田嶋は声を荒げた。

「今回はたまたまこの程度で済んだかも知れないことです。でもね」

一瞬トーンを落として、田嶋の声が下がる。ゆっくりと目線を上げて、気丈な田嶋の視線が桂木に刺さった。

「あんたは知らないんです、自分の軽率な行動で誰かを傷つけることが、どんなにか…!!」
「それで黙ってられるか!見ろ、この顔」

桂木は怒鳴って、真由美の両肩に手をかけた。反動で2、3歩後ろによろついて、真由美と桂木の距離がなくなる。

「俺も悪かったし、真由美もうかつな事したって、充分思ってるよ」
「……」
「お兄ちゃんのこと、好きなんだよな」

桂木は庇うように、真由美の肩からその腕を回してゆっくりと目を伏せた。

「他の誰にも、取られたくなかったんだよな」

ポツリポツリと、返答のない問を桂木は話しかけるように呟く。

「お兄ちゃん、格好良くて優しいもんな。……分かるよ」

その一言で真由美の双眸から堰を切ったように涙が溢れて、ボロボロと、頬の線を伝って落ちた。後から後から零れる雫は留まることなく、桂木のジャケットの袖へと落下して、丸い、小さな花をいくつも作る。その姿を見てさすがの田嶋も痛々しい顔をした。

「ナイーブで、まだまだ精神的にも未熟な小さな子供だ。感情的にもなるだろうよ」

困った顔で微笑を浮かべて、桂木は田嶋に視線をやった。

「でも…」
「お兄ちゃんだろ。カンベンしてやれよ」

抑えて、それでも時折漏れる真由美の泣き声が、病院の暗いロビーに響いた。

 

*    *    *    *    *

 

田嶋の運転する白いプリメーラの助手席で、桂木は上機嫌に軽快なテンポの鼻歌なんかを歌っていた。恋愛専科か、ラブリーか……10年前の小沢健二はちょっとばかし古いかな。とにかく、キュートなラブソングであることには間違いない。

田嶋はそんな桂木に呑気な、と少々呆れた視線を送った。

今日という日は雲ひとつない快晴だったが、まだまだ肌寒い日の続く季節だというのに桂木は窓を全部開け切って、潮の香りのする風を満喫している。今はあれから二日後である日曜日の昼下がりで、 滞在を一日伸ばした真由美を、少々離れた乗り換えの必要ない駅まで送って行った帰りなのだ。

まっすぐ帰れば、たかだか20分も掛からない距離なのに、海が見たいと言った桂木の要望でわざわざこんなところまで来るハメになった。歌詞と場所は違うけど、東京タワーも見えてくる。

田嶋はアクセルを踏んでスピードを上げた。

翌日土曜日、相当ひどい状態になったその顔は、翌々日の朝には褐色やら紫やら、痛々しい痕を残したけれど、腫れがすっかり引いていて、あっという間に人に戻った。骨はどうか知らない けれど、この顔の再生力は一体どうなってるんだろう、と、田嶋は思う。いや、それ以上に。

「ねえ……、俺は到底信じられないんですよね」
「はあん?何が」

100m先の信号機が黄色に変わり、ブレーキを掛けてスピードダウンしたプリメーラが、停止線でゆっくり止まった。

「真由美があんたを認めたことが」

別れを告げる発車5分前の駅のホームで、真由美は丁重に頭を下げて言ったのだ。

『お兄ちゃんのこと、よろしくお願いします』。

 

「身体はったんだから当たりまえだろ」
「それだけじゃない気がするんですよね」
「まあいいじゃない。結構丸く治まったんだから!」
「はあ……」

青になった信号を確認して、田嶋はアクセルを踏み込んだ。その隣で、窓枠に肘を突いた桂木は、ふうん、と言ってニヤニヤ笑った。ご明察。

あの時、田嶋が現れたのは桂木にとっても大いに歓迎すべき誤算だった。まあ、思ってもないことは口どころか考えにも至らないのは確かだが……あの場面でどう振舞って、どう庇い、どう言葉をかけてやれば真由美の心が最大限に動くのか、桂木は意地悪く計算したのだ。

物事には、それらを確実にするタイミングがある。商品を買う気がある人、迷っている人、さっぱり買う気のない人も……人の心の動きに敏感でなければならない営業の、最前線にいる桂木にとってそれは朝飯前のこと。あの時、そこに総てが揃っていたのだ。

結果として、それは想像以上の効果を桂木にもたらした。田嶋は知らないだろうけど、真由美はこんなことを言ったのだ。

『桂木さんは私が初めてお兄ちゃん以上に好きになった人』。

でもその桂木さんは、ホモで、女に興味なくて、私のお兄ちゃんが大好きで、だから憧れだけにしときます、と。真由美は快活に言葉を続けて、桂木を大いに笑わせたのだが……今思い出してもやっぱり可笑しい。桂木の肩がブルブル震えた。

「肋骨痛え……」
「え、大丈夫ですか?」
「大丈夫だいじょうぶ。あ、そこ左に曲がって」

言われるままに、田嶋は左にハンドルを切った。

「もう、あんまり心配かけないで下さいよ」
「かけないよ。次の信号右」
「どうだか」

桂木のナビゲート通りに田嶋は車を進める。道がどんどん狭くなってきたけれど、桂木のプリメーラぐらいは、まだまだ余裕で走れるようだ。願わくば、対向車が来ませんように。

「あのね、本当に心配したんですよ。家に帰ったら暗いし誰もいないし、なんだろうと思ってたら上島さんから電話がかかるし」
「悪かったよ。そこ、右に折れたら突き当りまで直進して」

ブレーキを踏んで減速すると、田嶋は緩やかに右にハンドルを切った。車の車体がまっすぐになると同時にアクセルを踏んで、ところが!もう目の前の突き当たりの風景にあっという顔をして、田嶋は呆然としたままその黒いビニールのカーテンの向こうへと車を滑らせた。

入った先はすぐに建物の駐車場にゲートインで、その姑息な間取りに妙なところで感心する。
頭から突っ込んで白線内に車を止めると、田嶋は助手席の桂木に、呆れたように視線を移した。

「ちょっと……」
「家までガマンできねえよ」
「無理でしょ」
「誰のためにここまで身体を張ったと思ってんの。ちょっとぐらい奉仕しろよ」
「奉仕てあんた……誰もそんなこと、頼んでませんて」
「おい……」
「第一病人相手にそんな気になりませんよ」

田嶋は上げたサイドブレーキをおろそうとして左手を伸ばしたが、その手に桂木の右手が重なって、思わずはっと息を飲んだ。

「ちょっと……」
「じゃあ、どうしたらその気になる?」

甘えた声で桂木は言った。

「どうって……そうですね」

サイドブレーキの上でお互い手をかけたまま、二人とも前を向いた。

「やりたいやりたい、やたらに言わない」
「……はあ」
「やらしい触り方をしない」

桂木は無言で右手を上げた。

「……で?」
「俺がその気になるまで待つこと」
「……」

いや、だからどうやったら、すぐ様その気になるのかって話なんですけど……、と、桂木は不服気に目を細めたが、結局通りに沈黙した。急がば回れ。

その姿は美味しいエサを目の前に、絶対服従の主から、待て!を、命令された犬のようでもある。 知ってるか?そういう時、ガマンが中途半端にしか出来ない犬は、口の端からツーと涎を垂らすのだ。

さすがに涎は垂らさなかったが、その胸中には折れた骨だけでなく、なかなか複雑な気持ちが詰まっていたと思われる。

二人揃って壁しか見えないフロントガラスを前に、沈黙のまま5分10分と待たされて、その間、バックミラーには2台の車が通過した。おいおい、真っ昼間からかよ……、と、桂木は悪態を心の中でついたりしたが、人のことを言えた立場か。

更に10分が経ち3台目の車が通過したとき、可哀想な桂木は、キュン、と小さく一声上げた。その声に田嶋は、目だけでチラリと視線を向ける。

(……俺もまだまだ甘いかなあ……)

ギシっ、と助手席の背もたれに左腕をかけて、うなだれた桂木の前へと身を乗り出し、縮まった距離の気配に視線を上げたその唇に、田嶋はそっと口付けた。

舌を入れない清楚な口付けは、思わぬところで桂木の心を蕩かす。確かめるようについばんだ唇をゆっくり離して、じっと視線を合わせたまま、すぐ至近距離で田嶋は言った。

「その気になりました。無理はしないで下さいよ」

と、本当にその気になったのか、なってないのか……、素っ気無くそう言って、田嶋はもう一度唇を静かに重ねた。

 

end.


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