「離してくれないか」
「なんだよ、テメーは…」
腕を掴まれた男が桂木の方を振り向きながら、乱暴に手を跳ね除けた。低く言ったその声は分かり易い威嚇ではあるけれど、センスという点ではちょっとばかり頂けない。
「言っただろ、連れなんだって」
桂木は言いながら真由美の手を引っ張って背中に隠す。一瞬の動作だったが、真由美が震えているのが掴んだ手から十二分に見てとれた。そりゃあ恐かっただろうな、と桂木は思う。男友達どころか男そのものに免疫もなさそうな17歳の女の子が、見知らぬ土地で、しかもこんな暗い時間に、こんなガラも頭も悪そうな連中に囲まれちゃ。
田嶋の可愛い妹が本格的な男嫌いのトラウマにでもなったりしたらコイツらのせいだよな、と、桂木の物言わぬ軽蔑を込めた視線にカチンと来たのか、腕を振り払った男があからさまに気に入らない、と顎をしゃくりあげながら低く喉を鳴らして言った。
「うっせーよ、オッサンは黙ってな」
(オッサン……)
桂木は少し……いや、かなりムッとした。そりゃあ19やそこらの若者から見れば、29歳は立派におっさんだといえる。が、しかし一度社会に出れば、20代は後半でもまだまだ若手。二十歳そこいらの子供なんか赤ん坊もいいとこだ。多分こっちの方が少数派だと思うけど、この系統の若いモンは礼儀も節度もなさすぎる。
(しかし、まずい雰囲気だな……)
桂木は左から右へゆっくりと視線を泳がせた。一人二人、三人……。身長180センチもある桂木が声をかけても、こいつらは臆するようなところが少しもない。しかも目つきが少し悪くて非常に危ない感じがするのだ。
クスリをやってる、とは到底思えなかったが、3人も寄れば気でも大きくなるのか。桂木の危険察知センサーは、言葉を交わした今も頭のどこかで警報を鳴らしたままだ。
ちょっと分が悪いな、と桂木はそこまで思って、眼鏡のフレームに手を掛けた。ゆっくりとした動作でそれをジャケットの内ポケットに軽くしまうと、ざっと値踏みするように目を細める。
自分より強いかどうか―――。
相手の力を瞬時に見分けてケンカを買うのはセオリーだ。勝てないケンカをするバカが一体どこにいるものか。
ルールのある格闘技と違って、ケンカには加減や理性がたまに吹っ飛ぶ。冷静な自分のレベルの熟知と判断力がものを言うのだ。ついでに言うと、ケンカの極意に「逃げ足」もそこに加わる。
意外に見えるが実は桂木、場数は相当踏んでいて、腕には少々覚えがあった。元々小学時代に少しかじった程度の合気道と、少々荒んでケンカ三昧だった中学時代の1年半。それにプラスして大人になってからの酒の入った席でのトラブル。もちろんビジネスでの事でもなくプライベートでの出来事で、そんなこんなで結構揉まれた。
しかしボクサーの卵やなにか格闘技の師範でもあるまいし、一対複数は正直きつい。まあこの程度の相手なら3人相手でもトントンか、と、桂木は冷静に、最終的に結論を出した。それでももし。
(もし一発ドカンと食らって倒れたら…)
袋にされてメチャメチャにやられるだろうなー、と桂木は内心浮かぶ苦笑を殺すのに苦労した。そんな飛びぬけた強さの男は当然いなさそうだけど、相手は3人で、しかもこっちは真由美を連れているのだ。後先のことを考えてそんなご大層な無理をするわけにもいかないし、もしもの時は真由美だけでも逃がさなければ。
(ちゅかそれが最優先だろう)
桂木は半歩後ろの真由美と目を合わし、仕方がないと苦く笑って囁いた。
「こっちから向こう100メートル先に派出所がある。そこまで走れ」
「え?」
「っんだよ、ムカツクやろーだなっ!」
「走れ!」
桂木は、向かってきた若い男のパンチを軽く左に顔を傾けてそれをかわすと、右の拳を繰り出した。男はよろけて2、3歩後ずさったが、筋力トレーニングなんか趣味でもないし、流石にちょっと当たったぐらいで都合よく倒れてはくれないか。
「野郎、やっちまえ!」
うわー、若いのにマンガみたいな台詞だ!と桂木はそこまで思って、場は一気に乱闘状態になった。殴るわ蹴るわ……そうなった時の桂木のその顔!見ているこっちは結構な状況でハラハラしてるというのに、ずいぶんと楽しそうで、どうもケンカは嫌いじゃないらしい。いや、むしろ好きな部類か。
桂木は乱暴に相手一人のむなぐらを掴むと、ゴツッと顔に頭突きをかました。かまされた男は鼻を押さえて座り込み、ここまでしたなら、もう大立ち回りと言ってもいい。周りを通る人たちが避けるように遠くから、もの珍しげに、あるいは苦々しい顔をして、数人まばらに足を止めては行きかった。
(もうちょっと苦労するかと思ったけれど……)
まあ昔取った杵柄というか……バリバリの現役でもないので桂木も多少のパンチは食らったが、即座にKOする程度の衝撃でもない。読み違いだったかな、と桂木はそんなことを思いながら、違う男の顔にパンチを見舞った。身長180センチもある桂木の手足は長くて重い。素で殴られたらさぞかし強烈な一撃だと思う。
(しかししつっこいな…)
これだけ歴然と力の差が出てるというのに、コイツらは少しもマズイ相手にケンカを売った、と思ってるのが感じられない。自分達の力量がちっともさっぱりわかってないのだ。それでも、実はこういう手合いが一番恐い。頭に血が昇ると何をしでかすか分からないからだ。
(まあ、真由美はいないし……)
と、余裕に見えた桂木の動きが一瞬ピタリと、ふいに止まった。てっきりその場から逃げたと思っていた真由美の姿が桂木の視界に入って見えたのだ。これには流石の桂木も狼狽を隠せない。なんでまだここにいる?
バレて盾にでも取られると本末転倒もいいとこだ。何やってんだ、早く行け!
桂木は派出所のある方へと顎をしゃくった。うっかり言葉を口に出せば、頭に血が昇った連中に真由美の存在を思い出させてしまう。桂木は必死に目で訴えたが、しかし、当の真由美は足がすくんで動けなかったのだ。興味本位に見物しながら行き違う人の中に、真由美だけがその場から動かない。
注意が散漫になれば当然ながらに隙が出来る。複数相手にこの隙は、桂木にとっては致命的と言えるほどの怠慢だった。どんなに強い男でも、例外はない。その時、懸念どおりに桂木の腹部に一発、かなり強烈なのが入ったのだ。
「がは……っ!」
無防備になった腹への衝撃で呼吸が止まって、桂木は腹部を押さえたままその場に倒れんで咳き込んだ。
「はぁっ、は……」
こうなると、形成は一気に桂木に不利になる。これは一対一のケンカではない。相手は目の前の男以外に、2人もいるのだ。
非情にも仲間の一人が後ろから桂木の体を羽交い締めにして立ち上がらせた。背中にいる男が、笑いを含んだような声で「タカシ」、と促すように名前を呼ぶと、きっとリーダー格だろう。さっき勝気な発言をした若い男が桂木の前に立った。
そいつの顔の方がもう十分に殴られ跡が痛々しく見えたが、当人にはそんなこと関係もないらしい。小憎らしい、嘲笑するかのような顔と口調で桂木に言ったのだ。
「形成、逆転ってヤツだよなあ。あんたケンカ強えーけど、もうこれじゃどうしようもないよな?ああ!?」
威嚇の声と共に、タカシは桂木の腹に更にもう一発パンチを見舞った。
「が……ッ!!」
そんな強いパンチでもなかったけれど、当たり所が悪かった。ボキッ、と鈍い音が、桂木の腹の上部から体中に響き、ドクドクと胸の鼓動と同じスピードの血の流れが耳元で聞こえる。
(折れたかも…)
桂木は、痛みに思わず顔を顰めた。尤も骨折なんか生まれてこの方したことないから、どこら辺が折れたのか、いや、もとより本当に折れたかどうかも分からない。ただ、意識だけが、痛みとショックで体中の血が桂木の耳元で悲鳴を上げてるのを認識させた。それでもよっぽど気に入らないのか、タカシは右手を伸ばすと、桂木の顎を掴んで乱暴に顔をそっちへ向けさせる。
「今のはかなり効いただろ。早くさっさと謝れよ」
ニヤニヤ笑って男は言った。しかし一体何を謝るんだか……。
体中の痛みで汗も吹き出る。至近距離に近づいたその顔に桂木は、不愉快さを隠さないまま口から唾を吐き掛けた。
「効くかよ、バーカ……」
言い終わった言葉と同時に、桂木の左頬に思いっきりパンチが入った。柔らかな内頬が口内の歯に巻き込まれ、口の中で鉄臭い独特の味が広がる。
「くそ、コイツマジ気にいんねぇ!」
タカシは唾を手の甲で拭いながら吐き捨てるようにそう言って、桂木のむなぐらを思いっきり掴んで引き寄せると、もう数回、固い拳を力任せに顔に浴びた。もう痛いどころのレベルではない。このままいったらあと数分で意識を失うだろうな、と桂木は思った。
通りには人が何人もいるのに、間に入って助けてくれそうな人間は一人もいそうにありはしない。皆知らん顔で通り過ぎて、係わり合いになりたくない、そんな感じが露骨に伝わる。そりゃそうだ。仲裁に入ったところで、1対3にもなり兼ねない、こんないかにも不利な状況で人を助けに入ってこようなんて、相当腕に自信があるか、よほどのバカか……。自分だってゴメンこうむる。ところが。
「や、やだ、もう止めて…、止めてよーー!!」
目の前に飛び出してきた影に桂木は瞠目した。こんなところに出てくるヤツがあるか!
「バ、バカ!何で出てきた!!」
桂木の苦労も一瞬にして無駄になる。そしてそれは、桂木が一番避けたい最悪の展開だったのだ。一体自分が何のためにここまで殴られているのか。誰を守ろうとしてこんなことになっているのか。
「バカっ、何の為に俺が……」
と、そこまで怒鳴って、苛立ちを隠せない桂木の口の動きがふいに止まった。ガタガタと、恐れているのが遠めにも分かるほどの震えで、若い男の腕を掴んだまま、真由美がゆっくりと桂木の方を振り返る。
「だ、だって桂木さん、殺されちゃうよう……」
後半涙声で聞き取れなくなった真由美の双眸からボロボロと涙がこぼれて、もう、すぐ桂木の目の前で、田嶋の細い顔と重なった。
『大事なんです』
「田嶋……」
呟くように口からこぼれた。もし、このまま真由美になにかあったら合わせる顔なんて二度とない。田嶋の信頼を裏切るぐらいならこのまま死んだ方がマシだ、と桂木は思った。
「ふうん、気を取られた原因はコイツ、か……」
目の前にはだかった真由美の手を、タカシは乱暴に跳ね除けた。その衝動で真由美は数歩後ろによろけて倒れこむ。頭に血が昇ったこの目の前の男には、最初に声を掛けた女のことなど、もうどうでもいいらしい。「ヨシ」、とタカシが顎をしゃくると、さっき桂木に頭突きをくらわされた男が振りほどかれて投げ出された真由美の腕を、ギュッと掴んで引っ張り上げた。
「きゃっ!い、いた……!!」
「真由美!」
思わず桂木は声をあげた。
「やだ、ちょっともう……、離してよっ!」
「よせ……!」
桂木は自分を羽交い絞めにしている男の腕を引き剥がそうとしたけれど、びくともしない。そんな動きを察知して、タカシは桂木のどてっ腹にもう一発重いパンチを浴びせかけた。
「……っ!! ガハ……ッ」
胃の中身が逆流して吐きそうだ…。
こんなことなら部屋から一人で出したりするのではなかった。気持ちは焦るばかりで、それでももうどうしようもないのか。
「やだ…っ、桂木さん、桂木さん…っ!!」
遠くに真由美の呼ぶ声が聞こえる。桂木は悲壮な面持ちで、遠ざかりそうになる意識を繋ごうと必死になった。正直言ってっかなり協力な助っ人でも来なければケンカに勝つどころか病院送りも免れない。万事休す、だ。それでも、桂木はタカシを上目遣いに睨みつけると、懸命に掠れる声を搾り出した。
「…………やめろ」
「まだ、意識あんのかよ?しぶといな、あんた!」
そう言って、再び拳を振り上げたその瞬間、その腕を掴まれたと思ったら、振り向きざまにタカシの腹に右のパンチが思いっきり入った。
「がふ……っ!」
タカシは腹を押さえて転がったが、転がる男にパンチを入れたその男はすぐさま容赦なく、躊躇すらなく、非情にもう一発腹部に蹴りを入れる。
「がっ……!!」
小さな声を発して、男はその場でピクリとも動かなくなった。
「あれ?もう意識なくなっちゃったのか……案外つまんねーな」
歩道にごろっと転がった若い男を、更に足で転がしながら男は言った。即座に連れの一人が真由美を放し、慌てて倒れたタカシに駆け寄る。驚いたのは桂木だ。一体誰だ……?
視線を上げた桂木は、瞬時に瞠目する。そこには、よく見知った顔の男が立っていたのだ。
横の方で仲間の一人が、気絶した男の名前を叫んだ。
「た、孝史!」
「同じ目にあいたくなけりゃ、とっとと、連れて帰るんだな。あ、そいつ離してよ」
男は桂木の方へと顎をしゃくった。言われて、桂木を羽交い締めにしていた男は慌ててその腕を緩める。支えを失った桂木は、その場に崩れるように両手をついた。司令塔がなくなればこんなもんなのか。そして、おそらくそのままリーダーであろう『孝史』という男を引きずるようにして、慌てて去っていったのである。
後に残されたその男は、というと、肩の辺りを2、3度軽く叩いて桂木の方を振り帰ると、ニヤッと不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「こういう時は、リーダー格の男を最初の一撃で仕留めるのがセオリーだぜ。ビビって戦意が消失する。なあ、桂木?」
痛みで立ち上がれない桂木に視線を合わすように男はゆっくりとひざまづいた。さっきとは別の意味で最悪だ…。
桂木は眉を顰め、カッコ悪いところを見られた!と不愉快さを隠さない表情のまま、その男の名前を口にした。
「……上島」
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