ナイーブ
10

花丸ビルの四階に位置づく営業部のフロアは、昼も3時を過ぎるまで実に閑散としている。足が資本ともいえる営業の仕事は、売り込み・納品と大概外の出回りが多いから、いつもの、それでいてなんの変哲もない光景ではあるけれど、いつもと少しばかり様子の違う人物がいたもので随分と珍しい。

田嶋だった。

役職机を入れて35席はあるだろう室内に、今はその数名しかいない閑散としたフロアの一席に、田嶋は一人ポツンと座っている。ポツンというかなんというか……明日取引先に提出する予定の納品書や、午前中承った受注書なんかを作成しなくてはならないのに、仕事がちっとも手につかない。

仕事中でも几帳面に整理されてる卓上には、書類を作成するためのパソコンと数冊のカタログと、空気の隙間を入れて1センチ程度の書類が積まれているけれど、視線を向けたその先には意識がなかなか届かずに、ただぐるぐると昨晩の桂木が脳裏に浮かぶだけなのだ。

田嶋はいつもの感情の読めない表情のまま、ゆっくりと目を細めた。

――――― 何年でも、桂木が待つと言った。

田嶋は顔を俯けて目を伏せた。

ただそれだけのことが。

もちろん田嶋だって27の大人の男でそんなに沢山でもないけれど、少しばかりの恋愛の経験だって持っている。如何に人の気持ちが移ろい易く、また、刹那的で持続力のないものだということを十二分にに理解して、特に桂木という男には期待せず覚悟して尚且つ警戒してもお釣りが出る のも知っている。なのにどうして。

「……じま……たじま……田嶋っ!」

遠いところから瞬たく間に近くに来たような同僚の声にはっとして、田嶋は瞬間我に返った。

「あ……、ああ、三好」
「三好やないで!何回呼んだと思ってんの」
「ごめん…、ちょっと考え事してて」
「あ、ごめん!仕事の邪魔した?」

田嶋は苦笑を浮かべて小刻みに首を振った。いつも活気溢れる、当たりとテンポの良い三好の関西弁は嫌味ない。

「何かな」
「ああ、そや。四葉社のカタログ持ってってへん?数冊あるのになんか見当たらんから」
「あ、ここにあるかも」

田嶋は卓上に数冊積まれた取り扱いメーカーのカタログに手を伸ばした。

「主任の引き出しにあるんとちゃうかな、と思ってさっき開けようとしたんやけど……わ!」

三好の声と同時にバサバサと数冊の本と書類が、白木の床に散乱されて、田嶋は無表情のまま小さな声をあげる。

「あ……」
「うわー、派手にバラ撒きよった〜」

椅子に座った田嶋より早く、三好はしゃがんで書籍を拾った。

「主任、今日は休みなんやね」
「……」

追うようにしゃがんで1メートル四方に散った書類を拾う。代休か、なんかプラマイゼロなんやけど羨ましいわ、と言った三好の言葉は既に田嶋には聞こえてはいなかった。顔には微塵も出なかったけれど、その反応は明らかに桂木の名が出たことによってだったのは否めない。

今回はたまたま田嶋の都合でこんなことになったけど、遅かれ早かれ、いつかは終わる予定の関係だったのだ。それなのに―――――。

『何年でも待つよ』

ただそれだけのことが。

田嶋は最後の一枚をゆっくりと拾いあげて目を閉じた。

何故消えない。

それでも、その一瞬だけでも田嶋には十分過ぎる程の気持ちだったのだ。

 

*    *    *    *    *

 

リビングに置かれた置き時計がちょうど6時を差した。

同じリビングにある自慢の3人掛けのソファにどっかり座った桂木が膝にひじを当て、頬杖をついてその時計を凝視している。真由美が帰ってくる気配はまったくゼロ!まああんな出て行き方をして、そんな短時間に戻ってくるとは到底思えなかったけど、それにしたって。

「ちょっと、遅過ぎやしねーか?」

顔をしかめてポツリと口に出してみた。

散歩に行って来る、と家を出たのが確か2時過ぎ。会話が会話の後だから、もしやと思った。僅かに、真由美の気持ちが動いたのかもしれない。

それでもこんな遅い時間になっては流石の桂木も心配だった。冬と違って日没はかなり長くはなったが、暗くなると女の一人歩きは物騒だ。まだまだこんな時間であるけれど、最近は昔と違って何があるのか分らない。

膝に着いていた肘をあげ、桂木はドサっと両手を首に回してソファの背もたれに背中を預けた。

なにせ真由美は田嶋によく似て結構な美人だし、今時の、手足がスラッと伸びてスタイルもそれなりに良い。自分がヘテロだったら十分過ぎるほどにストライクゾーンに入っていただろう。何より真由美は田嶋の最愛の妹なのだ。万が一にも何かあったら田嶋に合わせる顔がない。

「さてと」

桂木は眉間にしわを寄せながら、唸るように数秒目を閉じ、それからゆっくりと視界を開らいた。

「……そろそろ迎えに行きますか」

桂木はベージュのジャケットを羽織ると、急いで玄関を飛び出した。

 

*    *    *    *    *

 

その時真由美がどこにいたのか、というと、実は桂木のマンション最寄の駅前の花壇に一人ポツンと座っていた。

桂木のマンションから徒歩15分。桂木の住んでいるマンションは閑静な住宅街だけれども、すぐ横に国道があるせいか、駅周辺は結構賑やかな場所でもある。

左腕に嵌められた細い銀の腕時計を見て真由美は深いため息をついた。2時過ぎに家を出て、本屋やコンビニ、喫茶店で時間を潰し、今さっき、ようやくここに辿りついたのだ。会社は定時で5時半だけれど営業部の夜は遅い。 8時を過ぎるまで、田嶋は帰って来ないのだ。

真由美は冷えてきた両手を口に当て、小さな息をそっと吐いた。

「寒……」

日は沈み、辺りもすっかり薄暗く、かなり寒くもなってきた。4月上旬の気候は、昼は暖かだけれども、夜はまだまだ冷え込みが厳し くて、夜は上着がないと結構寒い。

家を出たのはいいけれど、なんだか桂木と顔を合わせずらくて帰れなかった。擁護してもらうつもりもないけれど、せめて兄が居てくれれば、と、真由美は家に着くまで確実に会えるこの駅で待つことにしたのだ。時間を置くことで熱くなった頭も冷えたりする。

ふと、思い出すことがあって真由美は左の頬に手を当てた。昨晩、田嶋にぶたれたところだ。思い出すとなんだか酷く情けなく、それが自分の子供じみた行動を取ったせいなのか、それと大好きな兄に初めてぶたれたことなのか、今となっては本当に良く分からない。ただ、ひどく自分が嫌いになりそうな 気分だった。

真由美はぶたれた左頬を小刻みに2回さすると、ゆっくりと顔を地面に俯けた。

(お兄ちゃんが、初めてぶった。しかもあんな他人をかばって……そんなに、好きなのに?)

そんなに好きなのに。

元々兄である田嶋には家族は別にして、全く人に執着しないところがある。10も離れた真由美には兄の交流関係はほとんどといっていいほど知らなかったが、そういう空気のようなものを肌で感じるのだ。その兄が、初めて家族以外の人間に 関心を示した。それは、赤の他人と同居をするという形で顕れて、その相手の存在と言うものは真由美にとって脅威にも等しい存在だったのだ。

兄を取られるかもしれない―――――。

実際蓋を開けたらば、初めての兄の同居人はひどく人懐っこく、見目も良く、ユーモアセンスも抜群でソツがない。性格もそれに順ずる、桂木はある意味真由美が頭に描く、理想の兄の友人だった。

真由美は顔を俯けたまま、ゆっくりとその目を細めた。

本当に、理想の友人だった。その関係の実際が恋人だったということ以外は。

それでは最初真由美が危惧していたそれと全く変わらない。自分にだけ向けられていた眼差しが、全部桂木に向けられる。自分にだけ注がれていた愛情が、総て桂木に注がれる。自分以外の 愛しい誰かに。

真由美にはもう分かっていた。桂木に向けたドロドロとした汚い感情が、男だから、ということではなく単純に兄に対する自分勝手なつまらない焼きもちだったということが。

『結局家族は特別なんだ』

家を出る前、桂木が言った言葉は真由美の心のドアを叩いた。兄は誰を好きになろうが、どれほど愛していようが、決して妹である自分の存在を忘れたりしない。 決して忘れたりしないのだ。

ぐにゃっと視界が滲んで真由美は両手の甲でゴシゴシと両目を擦った。情けなさに涙も出てくる。数回拭いて、顔を上げたその時だった。 向こうの方で、真由美を見てニヤニヤと笑っている3人の男達がいたのだ。年の頃は19、20ほどか。青年というよりはまだ幼さを残した顔立ちで、背丈は皆それなりで細く、3人のうち、2人は髪を金髪にまで染めてい た。 その目つきも不健康であまり良い感じはしない。

真由美はあからさまに顔をしかめた。

(いやだ、なにかしら……)

田嶋に良く似て実にキレイな顔をした真由美が、 こんな暗いところで一人でいれば、そういう不埒な輩がいてもちっとも不思議ではないのだ。が、もっとまずいことに、その内一人と目が合った。真由美の心臓がバクンと大きな音を立てて、さっきより遥かに早い動悸が体 の中を駆け抜ける。

どうしよう!

気付いた一人が、こちらへと距離を取って寄って来た。それに気づいた二人も続く。男達は真由美の前まで来ると、目があった最初の一人が口を開いた。

「一人?これから俺たちとどっかに遊びに行かない?」
「……人を待っているので結構です」

真由美は無視をするように、プイっと横を向いた。

「えー、だってかれこれ1時間ぐらいこうしてるじゃん。そんなやつ、放っといてさぁ」

若者達は口々に真由美に言ってきた。 不愉快感を隠さずに眉間にしわを寄せているのに、この若者達にはちっとも伝わってないらしい。 そのうち調子に乗って、一人が真由美の腕を掴んだ。

「いいじゃん、行こうよ」
「……イヤッ…!」

真由美が小さな悲鳴を上げたその時だった。真由美の右腕を掴んだ男の腕を、更に掴んだ男がいたのだ。

「その手、離せよ。俺の連れなんだ」

真由美は一瞬目を疑った。腕を掴んだ男は桂木だったのだ。

 


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