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「そういうわけで宜しくすまんです」
そう言って桂木は深深と頭を下げた。花丸商事から程近い駅前の喫茶店の一角で、テーブルを挟んで目の前のその男は、半分信じられないといったような表情でその様子をマジマジと見つめる。
「まあ、いいけど……」
すまんです、とか言われても……と、困惑ともとれる声色で躊躇いがちに佐野薫は答えた。
そもそも目の前にいる桂木圭吾というこの男とは大学時代から付き合いで、身体の関係なんかもそれなりにあるけれど、恋人でもなんでもなく、いわゆるセックスフレンドというか、でも友人というかなんというか……。関係を説明するのに上手い言葉が見当たらない。
佐野は間を補うように、まだ完全に冷え切ってはいないぬるいコーヒーをゴクリと一口飲みこんだ。
とにもかくにも昨晩、滅多に会わないどころか、電話の1本もきた例のない桂木から呼び出しの電話があったのだ。だから一体何の用かと思ったら。
『大本命が出来たから、お前とはもう寝ない』
こんなの、わざわざ人を呼び出して言う事かあ?佐野は昨晩の事を思い出すように眉間にしわを寄せた。
甚だ疑問を覚えるが、しかし目の前のこの男の顔はどこから見ても真剣で、どういうつもりか突っ込もうにも困ってしまう。身体の関係があっても、恋慕の情にはほど遠い……それは桂木にとっても同じハズで、そんな話を佐野にされても困惑するのが当然だ。
気を取り直すように眉間のしわをスッと伸ばすと、佐野は祝いの言葉を口にした。
「とりあえず言っとく。そりゃあどうも、おめでとさん」
それから佐野はふっ、と息を吐いて更に続けた。
「で、それだけ?」
「それだけ」
「は……」
佐野はますます呆れた顔をして見せた。対する桂木ときたら、さっきまでの真剣な表情とはうって変わって満足そうにニヤニヤと笑ってこちらを見ている。なんだか酷くからかわれたような気がして佐野は口を尖らせながらこう言った。
「なあ、俺ら……そんな関係だったっけ?」
「そんな関係って?」
「いや、本命が出来たから別れるとか会わないとか…」
「違うけど?」
それがどうしたという感じで桂木は続ける。
「別に二度と会わないとか言ってねぇよ、友達だし。もうセックスしないって言ってるだけだろ」
「はあ……?」
クエスチョンマークが頭の上をピヨピヨ廻る。ますます訳がわからない。当惑した感じの佐野の態度に桂木は目を細めて口角を上げた。
「身辺整理」
「身辺……じゃあ何。俺、整理されんの? 」
桂木は佐野のその言葉に無言でこっくり頷いた。
「ここ半年以内に関係をもったやつとか、お前みたいに身元は知ってるけど、たま〜に関係持つやつとかを中心に整理してんだわ」
「はあ」
「お前は大学からの友達だから、報告も兼ねとく」
「桂木が、身辺整理……」
繰返し呟いて、佐野はその事の重要性に初めて気づいたように声を荒げた。
「おいおいホントかよ!」
「本当って、失礼なヤツだな。それにお前が最後だよ」
「失礼もなにもそのままじゃん! 何? 本当にその節操なさから足洗えんの? 」
そこまであけすけに言われて思わず桂木は口元に手をあてると、まるで照れたように視線を逸らした。
「……うん、自信ある」
「ええー? 」
佐野はいぶかしげな表情を隠さない。
「まあ、いろいろとあって……そうでもしないと、にっちもさっちもいかないような、許してもらえないような……」
聞いてもないのに細々続ける。付き合いだけはもう10年のもなろうというのに、桂木のこんな顔を見たのは佐野は初めてだった。というよりもコイツこんな顔できたのか。ある意味世界の終焉か。
「はー、何? そこまで惚れてんの?」
佐野が改めて感心したような素振りでそう言うと、対する桂木はニコッと、だけどクセのある笑顔でこう返した。
「骨抜き」
この桂木圭吾という男、そんな事で身辺整理なんてするようなタマではない。もともとが恋愛体質なのもあるが、飛びぬけたその容姿。寄ってくる連中がうじゃうじゃいるのだ。一人に決めるのはいささか難しい。それに、佐野も人の事は全くいえる立場ではなかったが、一人の人間にそんな長い期間溺れた例がないのだ。そんな男がたった一人の男の為に全部の関係を切って廻ってるという。これには驚きを通り越して、ちょっとした感動だ。
佐野は、目の前で最後の一口を呷る桂木の顔をマジマジと見つめた。
(この男にここまで言わせる男、見てみたい……)
見てみたいというよりは寝てみたい。桂木は結構なメンクイで、いかにもというような野暮ったい男を連れてるのを一度たりとも見た事がない。その桂木相手にそこまで言わせるのだ。顔と身体はお墨付き。興味が湧かないわけがない。
佐野はニヤッと笑うと、間髪入れずにこう言った。
「紹介して」
「するかアホ」
桂木は笑って言った。
「お前みたいのに紹介したら、ソッコー喰わちまうっての! ……と」
桂木は左手の袖を上げて、手首に巻いてる腕時計に視線を落とした。時刻は21時を回ったところで、ここを出て行くには丁度いい時間だったのだ。
ガタッと席を立つと、桂木は佐野に向かってこう言った。
「俺、そろそろ行くわ」
「え、何、もう?」
「うん。これから野暮用」
「あれっ、最後にしねぇの?」
佐野は座ったままニヤニヤとした笑い顔を浮かべている。それを聞いて立ち上がった上からの目線で桂木は勝気な笑みでこれを返した。
「手ぇ切んのに、イチイチするか!」
そう言って桂木は机の上の伝票を拾うと右手を上げて ごゆっくり、と背を向けた。
会計を済ませて喫茶店のドアをくぐると、もうまばらになった人ごみが時刻の遅さを告げている。桂木は改めて左手の時計に視線を落とすと小さく息を吐いた。
「さて、と……」
いよいよだ。桂木は真っ直ぐ顔を上げた。
10日間と意外に時間のかかった身辺整理だったが、やってる本人は結構大変だったのだ。後腐れのないような人間ばかりを選んだつもりが、ごねたのが二人、茶店で水をぶっかけたのが一人、平手を食らわせたのが二人……まあ、終わった事だからどうでもいい。
桂木は歩道に足を踏み入れた。駅に向かう方向へ歩を進める。
本当なら田嶋にちゃんと言う事を言ってからこういう事をやればいいのかもしれなかったが、田嶋ときたら話かけようにも無視をかますし携帯は繋がらないし……何よりも、自身がこの有様ではあまりに不実過ぎる気がした。尤も手を切ってきたからといって、安易に受け入れては貰えないだろうけど、それでもいいと桂木は思う。それは、桂木の田嶋に対する精一杯の礼儀と誠意だったのだ。
* * * * *
マンションのドアの前に着くと上島は玄関の鍵を開けてただいま、と言った。
ただいま?
田嶋は訝しげに眉をひそめた。上島の背後から、首を傾けてドアの向こうを覗き見る。その瞬間あっと思った。田嶋の記憶に間違いがなければ、声を聞いて奥のリビングから出てきたのは上島と同じ総務部の佐々木智弘《ささきともひろ》という青年だったのだ。
「え、……あれ……えぇぇ!」
頓狂な声を上げた後、営業の……田嶋…さん? と、声を小さく呟いた。いいんですか? というような視線で佐々木が視線を上にあげると、上島は会社ではちょっと見られないような鮮やかな笑顔でこう言ったのだ。
「ちょっとそこで会ったんだ」
「すみません、おじゃま……します」
田嶋は小さく佐々木に会釈をするとコートを脱いだ。
上島が総務部の誰かと付き合いをしている事は桂木に聞いて知ってはいたが、まさか昨年入ったばかりの、佐々木のような男だとは夢にも思っていなかった。だって、佐々木というこの男は可愛らしい顔立ちをしているが、どちらかというと「女の子が好き」という感じがして、いかにも、な、そういうタイプには到底見えない。
上島の背後から、田嶋はひそめるような小さい声でこう言った。
「……一緒に、暮らしてるんですか?」
「まあそういう事になるかな。本当は俺の部屋あっちなんだけど」
上島はそう言って、壁越しに隣の部屋を指差した。
「俺が入り浸ってんだ」
ニコッと笑顔を浮かべると、上島はまあ上がれよ、と奥の部屋へ顎をしゃくった。リビングへ向かう上島の背中を追って中へ入る。
上島は桂木なんかと違ってきちんとした相手がいるのに、可哀想な顔をしているからと安々と男を拾うような人物ではない。冷静な頭で考えればいつもの田嶋なら分かりそうなものなのに、一体自分は上島に何を求めようとしたのか……。
田嶋は俯いた。
佐々木も上島と同様で仕事上、面識がある程度の知り合いでしかなく、少し驚いたりはしたものの、今の田嶋にはあまり関心をひくものでは到底なかった。今は、ただ……さっきの桂木の事が気になって気になって、仕方がなかったのだ。
喫茶店で話し込んでる桂木、知らない男……嬉しそうな、桂木の顔。考えただけで頭がガンガンしそうだった。
(わかってたじゃないか。主任は、俺なんかどうでもいいって事は。わかって……)
わかっていながら、今の今まで傍にいたのだ。それなのに、桂木が他の男といる。ただそれだけの事が……。
重症だな、と田嶋は思った。
あの3ヶ月という月日の間にこんなにも欲が出てしまって、こんなんじゃ、とても前のようにクールに関係を続けてなんかいけやしない。どのみち……―――潮時だったのだ。
「タバコ、買ってきてくれないか」
上島のその言葉に田嶋はハッと顔を上げた。視界の向こうで上島が佐々木に頼んでいる。それを聞いた佐々木は嫌な素振りをするでもなく、あっさりとニコッと笑って「いいですよ」、と気持ちの良い返事を返していた。
「ええと、2箱でいいんですよね」
数の確認をした後で佐々木は「それじゃいってきます」、と寒空の下ドアを開けて出て行く。ドアが閉まると、上島は田嶋の方を振り向いてこう言った。
「まあ座れよ」
上島はそう言って淹れたてのコーヒーカップをテーブルの上に置くと、椅子をすすめて、その向かい側に自分もゆっくり腰をかけた。
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