13


 あの夜から既に1週間が経過しようとしていた。

 田嶋とはどうなったかといえば、あれから大した進展もなくただ淡々と毎日を消費している感じだ。それでも桂木を見つめるその眼差しは明らかな拒絶の表情を浮かべたままでとても話をして貰える状態ではない。

 田嶋のそんな顔を見るたびに桂木の胸はチクリと痛んだが、話し合いをするには実問題もう少し時間が必要だった。それに、今は田嶋と話しをする事よりも一刻も早く、桂木にはしなければならない事がある。田嶋を放りっぱなしにする気は毛頭ないが、とりあえずこれを済せない事には、そこから一歩も進めない。そう、出来るだけ早く、確実に。

 桂木の男としての誠意が試されているのだ。



 屋上で煙草を吸うにはちょっとばかりつらい季節になったようで、桂木は外回りへ行くでもなくコートを着込んで、命の洗濯をしに屋上に現われた。

 屋上には桂木以外にも物好きがいるようで、フェンスの方に顔を向けて煙草を吸っている先客がいた。尤も桂木には、それが誰だかあっさりと見当が付いている。そんな物好き、桂木の知ってる限りでは田嶋の他には一人ぐらいしかいない。

 その『誰か』に背後から声をかけると、予想通りの迷惑そうな顔がこちら振りかえった。

「…………桂木」

 全く嫌な人物に出くわしたものだ、と言わんばかりのこの表情は、実は桂木は嫌いじゃない。いや、むしろ大がつくほど好きな部類で、にやにやとした表情で横に立つと桂木は笑いを含んだ声で言った。

「よう、上島。久しぶり」
「…………」

 上島は沈黙を守った。関わるとろくな事がない。

 実際桂木が過去上島に何かしたわけではなかったが、上島からは何故かいつもそういう雰囲気が漂っていて、それが返って桂木の悪戯心をいっぱいにさせる。上島の迷惑そうなその顔がたまらなく桂木のツボなのだ。

 桂木は図々しく、当たり前のように上島の横に立つと、スーツの内ポケットからタバコを1本取り出して口に銜えた。スリムな銀のフリントライターで慣れた手つきで火をつける。その横で、しばらく桂木のツボである迷惑そうな顔のままの上島が、ふと思い出したように素に戻り、口を開いた。

「そうだ」
「あん?」

 いつもなら桂木がニ、三話題を振って、やっと会話が成立するぐらいの二人であったが、今回は珍しく上島の方から話しが切り出される。一体なんだ?

「お前さぁ、そろそろ本命に落ち着くんじゃねぇの?」
「!!」

 吸いこまれたばかりのタバコの煙が喉元で止まって、桂木はゲホゲホとむせ返った。思わずタバコも落としそうになる。咳がようやく治まるころ、桂木は滲んだ涙を右手の甲で拭った。

 唐突な話題の振り方と絶妙なタイミングの内容に、一瞬心臓が止まりそうになったのだ。思わずなんてどころじゃない。今、桂木が抱えている問題をズバリそのまま言い当てられたのだ。驚かないバカがいるか。

 田嶋といい、上島といい……。どうしてこのタイプの男達はこんな人の心の中を見透かすような事をあっさり言い当てるのか。

 桂木は舌を鳴らした。

(千里眼でも持ってるにちがいない……)

 桂木はそんな事を思いつつ、内心かなり動揺したがかろうじてポーカーフェイスを取り繕った。そして新しいタバコを1本取り出して再び自慢の銀のフリントライターで火を付けると、大きく一息吸い込む。フーッ、と吸いこんだ煙を吐き出すと、桂木は上島の方に視線を寄せて、低い声でこう言った。

「どうしてそう思うよ」
「お前の様子が最近おかしいから」
「…………」

 上島は目も合わさずに続けた。

「もう誤魔化すのは止めたのか?」
「誤魔化すって、何を……」
「とぼけるなよ。『好き』って気持ちさ」

 その時上島は初めて桂木と視線を合わせた。口から吐く煙がゆらゆらと上に上がっていく。

「お前はさ、たった一人を愛する喜びを知らない可哀想なヤツだよ。一人に決めるの、恐いんだろう?」
「だったらどうだってんだよ」

 桂木は出来るだけ感情を表に出さないように答えた。内心はかなり動揺していたが、だ。上島にそういう弱い部分を見せるのは嫌だったし、第一桂木は普段そういう事で慌てるキャラクターではない。

 当たり前といえば当たり前の事ではあったが、そんな桂木の必死の努力なんか当然知るか、という感じで、上島は意外でも何でもない風にあっさりと答えた。

「結構!お前みたいなどうしようもない男に、そこまで好きなやつが出来るってのは良い事だと思うけど?」

 だんまりのままの桂木に上島は宥めるように続けた。

「営業部の田嶋だろ。せいぜい大事にしてやれよ」

 何で、そこまでバレているのだ……。

 動揺を通り越して、桂木は唖然とした。一体全体、どこをどうしたら、こんな情報通になれるのか全く不思議でたまらない。そんな桂木の心情なぞお構いなしに、上島は自前の携帯灰皿に煙草を押しつけると、桂木と目をあわさないまま背を向けて去って行こうとした。こんな仕草まで田嶋とそっくりだ。

 出口に向かう上島の背中を横目にバツの悪い顔をして、そのまま言い当てられただけというのも癪なので、桂木はおそらく上島が一番嫌がるだろう、魔法の言葉を口にした。

「そうだ、上島。今度遊びに行くから佐々木ちゃんによろしく伝えておいてくれ」

 背を向けて立ち去ろうとした上島の足がドアの前で止まって、あからさまに不快そうな顔が振り向きざまに桂木を睨んだ。

「……俺は、お前のそういうとこが嫌いなんだ」
「結構! 俺は上島のそういうカタイいとこ、大好きなんだけど?」

 言ってろ!とかなんとか言って、今度こそ上島は屋上を去った。

『佐々木ちゃん』は最近やっと両想いになった上島の恋人だ。しかも『佐々木ちゃん』はもともとその気はなく普通の青年だったのに、である。

 ノンケの男をこういう世界に引きずり込むのは並大抵の事ではない。それなりの勇気と自信と覚悟が必要なのだ。第一、桂木なんかは天然センサーでノンケは自動的に除外されるようになっているからそんな人種を好きになった事なんてこの28年間一度もないが、上島は人を好きになるのに条件で選ばなかったという事か。尤もそんなところが上島らしいといえば上島らしい。

 上島が去った後のドアを見ながら桂木は呟いた。

「まいったな……」

 お見通しだ。

 桂木は苦笑した。

 上島とは時々こうやって煙草を吸うときだとか、廊下でバッタリであるとか……とにかく営業部を去ってからというもの付き合いは薄い。かといって定時後、どこかに寄るでもなくまっすぐ家に帰っているはずなのに、一体どこで桂木の動向を見ているのか。

 ピュウ!っと冷たい風がどこからともなく吹いてきて、思わず桂木は首を竦めた。


*    *    *    *    *


 なんだか最近桂木の動向がおかしいのだ。

 尤もそれに気付いたのはほんの2、3日前の事で、田嶋は営業部の動静表を座席から、遠目に見ながらそう思った。

 『動静表』とは、フロアの人間が今日は出勤しているか、今どこにいるのかなどの情報が記載されているボードの事で、これを見れば大抵、個人の動向は分かるようになっている。桂木のところには、すでに退社のマスに赤いマグネットが早々と止められてあって、もう社内には居ない事が一目瞭然だった。

 気付いたのはここ2、3日前だから本当はもっと前からかもしれない。最近桂木は、勤務時間が終わるとさっさと帰ってしまうのだ。

「あー、桂木主任もう帰っちゃったのかよ!今日中に目を通してほしかったのになあ…」

 同期の西郷が見積書を片手に文句とも困惑ともつかない事を言ってる。自分たちのチームリーダーである主任が部下を置いてさっさと帰ってしまっていいものか。

(新しい恋人でも出来て、毎晩会ってでもいるのか)

 あの時、居酒屋で会った、若いキレイな子なのかもしれないな、と田嶋はなんの気なしにそう思った。目を細めて、適度に書類で散乱された机の上に視線を落とす。

『俺はあんたが好きなんです』

 田嶋はあの夜、心の内を明かしてしまった事をひどく後悔していた。

 あの夜、桂木は田嶋を抱かなかった。若い恋人の非礼を謝ってはくれたけど、桂木は田嶋の気持ちに対する答えを何一つとして返してはくれなかったのだ。震える田嶋を抱きしめて、何度も何度もキスをくれただけだった。本気になった男には、セックスもしたくはないと言う事か。

 田嶋は自嘲気味に口角を上げた。

 関係をもってもう3年だ。即答で返事が返ってこなかったという事は、つまり、桂木は自分を特別な相手としては受け入れる気はないという事なのだろう。本当にただの……ただの身体だけの関係だったのだ。うすうす気付いてはいたけれど、実際思い知らされるとかなり堪える。

 田嶋は俯きかげんに両手で顔を覆った。

 今まであんな節操無しと――不自然だが――うまく付き合ってこれたのは自分が干渉しなかったからだ。それは重々承知している。しかしあの時、突然何かの糸が切れたかのように、とうとう自分の気持ちをコントロールする事が出来なくなってしまった。どうしてもっと抑えられなかったのか。桂木が離れて行ってしまうのは分かっていた事なのに。

 田嶋はただ桂木の傍にいれれば良かったのだ。しかし、それと同時にそういう関係が耐え切れなくなってきていたのもまた事実だった。

(もう3年だ。あの人の相手としては充分に長かったんだろうな。だけど……)

 だけど、桂木との関係が終わる。どうしてもそれだけが思い切れなかったのだ。今はただ、桂木と話をするのが怖いだけだった。こうなった以上桂木は……自分を切るだろう。

 田嶋はそう思ったのだった。


*    *    *    *    *


 田嶋が仕事を終えて帰路についたのは夜の9時をまわった頃だった。やり手の営業部員として、9時という時間は決して遅い方でもない。正面玄関の閉まったビルの裏口を抜けて、田嶋は会社を後にした。

 ここ数年、毎年のように暖冬とは言うけれど、暖かいのは日中だけで日が暮れてしまえば冬の季節だ。吐く息だって白くなる。表通りに出ると、田嶋は規則正しい早い足取りでまばらにある人波を縫って駅を目指した。

 会社から最寄の駅まで10分弱。駅前の商店街も閉められたところが多く、いたるところに「CLOSE」の看板が掲げられている。その中で灯りの洩れる店内に目がいく事は、別段不自然な事ではない。ウィンドウショッピングであるとか、そういうシャレたもんではちっともないが、暗い夜道に煌々《こうこう》と洩れるオレンジ色の光は、孤独な田嶋の心に頼りないけど小さな明かりを灯してくれるような気がするのだった。

 通りすぎる店の明かりに視線を移す。ふいに、規則的に動くその足の動きがピタリと止まって、同時に田嶋の目が大きく開いた。何気なく覗いた喫茶店で田嶋は見てはいけないものを見てしまったのだ。

 桂木が……居た。

 テーブルを挟んだ向こうには、こないだ居酒屋であったのとはまた別の男。対する桂木は照れたような面持ちで、なにやら嬉しそうな顔で話なんかをしている。

 桂木の新しい……恋人か? 

 田嶋は軽い目眩がしたような気がして誤魔化すように首を2、3度振ると、足早にその場を立ち去った。もう何がなんだか分からない。

 さっきより、幾分速い足取りでまばらな人波を突っ切る。頭の中の映像は、さっきの桂木と、その前に座っていた男のツーショットで、明かに田嶋は動揺していた。

(あれが、答えか……)

 どのぐらい通りを歩いただろう。裕にふた駅ぐらいは歩いたかもしれない。道には通行人がいたけれど、俯いて歩いている田嶋にはそれすらも分からなかった。右、左、右、左。動きが途切れてしまわないように、何も考えなくてもいいように一生懸命足を出す。右、左、右、左……。

 そうこうしているうちに田嶋は、一人の男と勢い良くぶつかった。勢いに押されて、よろけた田嶋が思わず鞄を取り落とす。

「すみませ……!」
 男の顔を見た瞬間、田嶋は思わずはっとした。田嶋がぶつかった目の前のその男は、総務部の上島洋介だった。

 どうしてこんなところに、と思ったがよくよく周りを見てみると会社の方に逆戻りしてしまっていたようで、回りを見まわすと、会社近くのひどく見慣れた風景が広がっていた。ぶつかった上島のそのいでたちを見ると、自分とよく似た格好で、コートに鞄……どうやら駅に向かって帰る途中だったらしい。だとすると自分が思っている以上には進んでなかったというわけか。

 上島はその場にしゃがみこむと、田嶋が落とした鞄を丁寧に拾って、つっけんどんに差し出した。

「あ……すいません……」

 田嶋は鞄を受け取ると、覇気のない顔をして俯く。上島はしばらく田嶋の顔を見ていたが、やがて静かに口を開いた。

「偶然だな。家、こっから近いんだ。茶でも飲んでくか? 」
「…………」

 少しの沈黙の後、田嶋は無言で頷いた。上島の家が近いと言っても電車で5駅はある。なのに、どうしてわざわざついていったのか田嶋には分かっていた。


 ……一人に、なりたくなかったのだ。

 


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