15

「ひどい顔だな」

 田嶋はハッとしたように上島と視線を合わせた。その時、田嶋は自分がどんな顔をしていたのかを初めて知ったのだ。もしかして、そういう事に疎そうな佐々木にも気付かれていたかも知れない、とも思った。でも、そんなのどうでもいい事だ。

 田嶋は視線の合った目をゆっくり逸らして、テーブルの中央を見つめた。

「桂木の事だろ」

 そう言っても田嶋は黙って俯いたままで、上島としても居心地がちと悪い。何があったか知らないけれど、それでも上島にはこのまま黙ってる事は出来なかったのだ。どうもこの田嶋という男を見ていると、自分を見ているような気がしてならない。

「図星って感じだな」

 口を開かない田嶋に上島はあっさりと言い放った。

「桂木とケンカでもしたか?」
「……ケンカになんて、なりません。主任は俺の事なんて……なんとも思ってないんですから」
「あん? 」

 なんじゃそりゃ……と、覗き込んだ田嶋の表情が今にも泣き出しそうだったのに、上島は慌てた。

「お、おいおい……」
「……なんとも、思ってないんです……」

(アイツ……)

 何にも言ってないのか、と上島は半分呆れ顔でそう思った。

 桂木は目の前の、この田嶋という男の事が相当に好きなのだ。それこそ今までの全部と引き替えにしても良いぐらいで、最近ずっと桂木が身辺整理に奔走しているのを上島は知っている。そしてこの田嶋も同じ程、いや、もしかしたらそれ以上、というのが上島の率直な見解だった。そしてそれは見事に当たっていて、傍から見ているものをやきもきさせる。全く、犬も食わないなんとやらというやつだ。

(アホらし……)

 他人の恋愛には口を出さない主義だし、ばかばかしいとは思ったが、道でぶつかった時の田嶋の思いつめた顔が上島の良心を促した。だから家に連れてきたのだ。あのまま放っておいたらその辺の男なり女なりにでもついて行きそうな雰囲気で、うっかりこのまま見過ごして、何かあったら寝覚めが悪い。

 上島はテーブルに置かれたタバコの箱に手を伸ばした。一本出して咥えると、俯いたままの田嶋を見つめて目を細める。

「なんでそう思うかねぇ」

 言いながらライターで火をつけて煙を吐き出す。広がった紫煙はユラユラと広がるように波打って、ゆっくりと景色に溶けていった。

「まっ、答えたくなければそれでもいいけど」

 黙ったままの田嶋に一本差し出すと無言でそれを受け取って、それでも口に入れようとはしない。手持ち無沙汰を紛らわすように親指と人差し指でくるくると弄んでいた手が止まって、それから、しばらくの沈黙の後に小さな声で田嶋はポツリと言ったのだった。

「俺はあの人の傍にいられれば、それで……ただそれだけで良かったんです。だけど……」

 握られていたタバコが、田嶋の手の中でその形を少し変えた。

「だけど、もうきっと傍には置いてもらえない……」

 桂木の心中を知ってる上島から見れば、どこをどうすればこんな結論が出るのか毛頭分からない。上島は眉をひそめた。

「何で?」
「言うつもりのない告白をして……結局、俺の気持ちにあの人……何も言ってくれなかった。まあ、最初から期待はしてませんでしたけどね」

 さっきの泣きそうな表情とは裏腹に、田嶋は自嘲気味に微笑を浮かべる。ここまできたらもう笑うしかない。

「お前、アイツともう何年の付き合いになる?」
「もうすぐ、4年……」
「俺は6年。だけどそんなに長く持った奴は一人だっていなかったぜ。本命もいいとこだと思うけど?」

 それを聞いた田嶋は目を細めて口を開いた。

「それは俺があの人の生活に干渉しなかったからで……別に俺の事を好きだっていう証明にはなりません。それどころか男はとっかえひっかえ、誰とでも寝る。多分干渉してたらこんなに長く傍にいられなかったでしょう」

 そこまで言いきった田嶋の告白に上島は呆れた。これでは完全に桂木の都合のいい愛人ではないか! お人好もいいとこだ。上島は軽く舌打ちすると、叱るような口調で田嶋に言った。

「最初の方でガツンと一発やってりゃ、今頃恋人同士だったていうのに」
「なってませんよ」

 上島の言葉に田嶋はあっさりと即答した。

「あの人の一番になると3ヶ月……長くて数ヶ月で関係が終わるんです」
「…………」
「別に特別な関係になりたいわけじゃなかったし、俺はただ傍に居たかっただけですから……」

 その言葉を聞いたとき、上島の頭に、ある疑問の答えが瞬時に浮かんだ。

(……はっはーん、これか)

 上島の最高にして最大の疑問。

『何故、桂木が田嶋のような若くて美人で、しかも頭も良い極上の男を一度でも本命にしなかったのか? 』

 答えは田嶋が持っていた。桂木はしなかったんじゃなくて、‘出来なかった’のだ。上島はひどく納得した気分で頷いた。

(田嶋の方が桂木に対して、その対象から除外されるような距離をとってたんだ)

 そう、田嶋のスタンスといえば、常に桂木の行動すべてに関心がないような、そんな感じで。

 もっと有体《ありてい》にいえば、田嶋は桂木の本命になんてなりたくなんかなかったのだ。この定義からいえば、桂木の本命になった男は半年と持たない。だから田嶋は気のないフリをし続けた。自分の興味と性欲を満たすだけの相手は、桂木の前にはゴマンといたのだ。田嶋は桂木のそこを十二分に理解していた。自分に脈のない男をわざわざ追い掛け回すようなヒマと労力が桂木にあるものか!

 上島は半分まで吸い終わったタバコの先を、ギュッと灰皿に押し付けた。

「杞憂だろ」
「え……?」
「アイツ、来るもの拒まずだからお前が愛想さえ尽かなきゃいいんだよ。あんな節操なしがお前みたいないい男、自分から捨てるわけないじゃないか」

 上島は苦笑を浮かべて言ったけれど、田嶋は見たのだ。楽しそうに談笑する桂木と、見知らぬもう一人の男。自分の気持ちを知っていながら桂木は他の男ともう関係を持っている。それは、きっともう……そういう事なんだろう。

「何があるのかは知らんけど、お前はもっと堂々としてりゃいいんだよ」
「…………」
「桂木は、そういうのが好きなんだ」

 上島はそう言ってニヤッと笑う。一歩引いた目で見られる上島は、自分以上に桂木の事を知っているのかもしれないと田嶋は思った。

 ―――そしてずっとずっと、自分なんかよりも桂木に近いところにいるのかもしれない……とも思った。

 ちょうどその時玄関でドアの開く音がして、佐々木が上島に頼まれたタバコ2箱と、どこまで行ってきたのか、左手には大きめのピザケースをぶら下げて、リビングにひょっこりと顔を出した。

「た、ただいま帰りました……あの…入っていいですか?」

 深刻そうな雰囲気でも漂っていたのか、佐々木は申し訳なさそうにこう言った。それを見た上島はサッと椅子から立ち上がると、すぐさま佐々木のもとへと歩み寄る。

「ありがとう。……寒いのに、すまなかったな」

 上島が微笑を浮かべながらすまなさそうにそう言うと、佐々木は いえ! 、とニコッと笑った。その時の二人の様子を見て、田嶋は初めてああ、なるほどなと思ったのだ。

 上島が佐々木を好きな理由。佐々木は疑うという事を一切しないタイプなのだ。しかもそれが自然体ときていて、そういう人物は物事を柔軟にあるがままに受け止められる性質がある。

 ……自分が、そのまま受け入れてもらえるのだ。


*    *    *    *    *


 時刻午前0時を過ぎる頃、田嶋は上島と佐々木のマンションを出た。帰ろうとした田嶋を上島と佐々木がピザでも食って行けと半ば強引に押しとどめた上に、妙に居心地が良かったので悪いと思いながらもついつい長居してしまったのだ。それでも終電にはギリギリの時刻で間に合った。

 最寄の駅に着く頃には桂木の事にも少し余裕が戻ってきていて、頭も心もかなり……冷静になった。そして、同時に田嶋はすべての覚悟を決めたのだ。

 誰も見ないで欲しいとか、自分だけのものにしたいとか……盟約を結んだ間柄でもないくせに、自分はそんな事要求できる立場の人間ではないという事を忘れそうになっていた。自分が望んだスタンスなのだ。

 青色の信号が点滅する横断歩道に、躊躇なく田嶋は足を踏み出した。

 自分は桂木が好きなんだ。その気持ちだけで他には何にも要らない。桂木を初めて好きだと感じたとき、一番最初にこれを誓った。想っていられるだけでいい。


 それ以上は何も望まない―――――。


 ただ傍にいる事が許されなくなっても、構わない。少し辛いけど、それで……それで充分なんだ。


*    *    *    *    *


 自宅には、上島宅から帰るのに軽く40分以上はかかる。だから田嶋がアパートに着いたのは午前1時を過ぎた頃だったのだ。

 今年は暖冬とはいえ冬は冬で、朝晩はもとより深夜は相当に冷え込む。田嶋の口から白い息が洩れた。

「寒……」

 ここ数日の出来事で正直ちょっと疲れてしまった。今は何も考えずに眠りたい。それでも、まだ少しばかり神経は尖がっている。寝れるかな、と思ってアパートの駐車場まで来て足が止まった。植え込みの所にどこかで見たような後ろ姿が立っているのが見えるのだ。

(…………主任? )

 いや、まさか。田嶋は小さく首を振った。こんな時間のこんな場所に、あんな男がいるわけない。田嶋は立ち止まった足を再び進めた。

 ところが、である。距離があと20mと近づいたところで、それはやはり田嶋の気のせいなんかではない事が判明した。幻影でも白昼夢でもなんでもない。当の桂木本人だ。

(アポなんか取って貰ってないけどな)

 内心思った素っ気ない言葉とはウラハラに、田嶋の心音は少しばかり大きくなった。一体何しに? 

 気配に気づいた桂木が、ゆっくりこちらを振り返った。田嶋の姿を捉えると、桂木は目を細めて不機嫌そうに口を結んでなんかいる。

「アンタ、こんなところでこんな時間に一体なにやってんですか。はっきりいって不審人物ですよ」
「誰のせいだ、誰の。……遅せぇじゃんかよ」

 愛想のなさに、桂木の口調も荒くなる。そんな桂木の態度なんかおかまいなしに、田嶋は目を伏せて、俯き加減に吐き捨てた。

「知りませんよ、勝手に待ってたんでしょ」
「可愛くねぇなあ……。ホラ、手ェ出せよ」

 そう言って桂木は田嶋の目の前に右手の握りこぶしを突き出した。思わず手のひらを差し出したものの、は? という表情を浮かべる間もなく、桂木の手から田嶋の手のひらに落ちてきたそれは、少し大きめの、そしてどこからどうみてもカギだった。それも二つ。

「やる」
「やるって……なんで。っていうかどこの」
「俺ンち。で、ホラ。こっちがマンションの入り口の鍵」

 言いながら、田嶋の手の上に乗った鍵のギザが大きい方を指す。

 桂木のマンションの部屋のカギ? こんな時間にわざわざこんなもの渡しに来たのか? 

 それでも、田嶋には桂木が一体どういうつもりでこういうものを渡してくるのかがさっぱり分からなかったのだ。眉をひそめて考えあぐねる田嶋に、桂木は大きなため息をついた。

「あのなあ……お前どんだけ」

 鈍いんだ。

 言いかけて言葉を切った。田嶋の面持ちがあまりにも真剣で真っ直ぐこっちを見ていたからだ。桂木はちょっと照れた顔して目を逸らした。

「身辺整理してきた」

 言いながら、も一度視線を元に戻す。

「責任、とれよ」

 到底許してもらえないだろうと思うけど、怒られたらとりあえず謝り倒そう……と、桂木が思っていたらば

「? 何の?」

 ホントウに、なんの事だか分からない。あからさまにそんな顔をした田嶋の様子に桂木は更に丁寧に付け加える。

「全部、手ぇ切ってきた。もうお前しかいないんだ」

 ドッ! と田嶋の心臓が大きな音を立てた。いよいよ……切られるのか。

(思ったよりずいぶんと早かったな)

 こんな時間にわざわざ出向いて……そんなに早く終わらせたいのか。

 俯き加減に自嘲気味な微笑みを浮かべると、田嶋はしゃん、と頭を上げ、まっすぐ桂木を見つめると出来る限りの冷静な物言いでこう答えた。

「それはそれは大変だったでしょう。で、最後は俺ですか?」
「あのなあ……」

 そう言うと桂木は強引に田嶋の手を引っ張って抱き寄せた。あまりの急な展開にかなり驚いたが、田嶋は次の桂木の言葉にはもっと、心底驚いたのだ。

 耳元で桂木の小さな深呼吸が聞こえた。

「お前の事が一番……好きなんだ」

 影が重なるほど近い距離にいたため、お互いがどういう表情をしているのかはまるで分からなかったが、1分にも満たない抱擁の後、桂木は田嶋の両腕に手をかけると、ゆっくりと体を離した。二人はしばらくそのまま見つめあって特に田嶋は微動だにしない。それでも、桂木の顔が次第に近づいてきて田嶋はそっと目を閉じた。

 軽く触れた唇を少し離すと、桂木と視線があった。月の光が桂木の表情を隠す事なく照らして、ひどく整った顔立ちはそれだけで田嶋の心を掻き乱す。

 ゆっくりと桂木の顔がまた近づいて、合わせるように田嶋も再び目を閉じた。

「………んっ………」

 桂木の舌が、田嶋の口内を深く犯す。さっきの触れるだけのキスとは違い、今度交わした接吻はいわゆる恋人同士がするようなキスで、今までずいぶんと桂木とこういうキスをしてきたが、今までのうちで一番感じるキスだと田嶋は思った。

 掴んでいたビジネスバッグが力なく手から落ちて、田嶋の指が、桂木のスーツにしわを作る。それでも行為に夢中になった二人の耳にはカバンの落ちた音など聞こえない。貪欲に唇を欲しがる桂木の右手が田嶋の首に回されて、その瞬間田嶋は思わず首を竦めた。

「冷たっ!」
「あ、悪い!」

 桂木は慌てて手を離した。同時に密接していた身体も離れる。田嶋は桂木の手が触れたその場所を、右手で覆うと、ハッとした。その時、田嶋は初めて気がついたのだ。

「…………」

 田嶋は桂木をじっと見つめた。

 ―――待っていたのだ、桂木は。田嶋が帰ってくるのをここでずっと。口から吐かれる息は白い。一体どれくらい待っていたのか…。

「……どれくらい、ここにいたんですか」
「あん?大した時間じゃねえよ」

(ウソばっかり……)

 田嶋は胸のあたりが痛くなって、俯いた。

 熱を失った桂木の大きな右手が田嶋の頬に触れて、その手はひどく冷たい。この冷たさは、桂木から贈られた自分へのプレゼントだ。

(……この手を掴むと……)

 田嶋は目を細めた。

(……数ヶ月でお払い箱だ。この手が離れる時……俺は、冷静でいられるのかな。……本当に短い時間で―――)

 田嶋は顔を上げて、真っ直ぐに桂木と視線を合わせた。

 ――――― 一度きりだ。それでも、いい。

 田嶋の左手の親指が桂木の唇に触れて、その後を追うように唇を重ねる。今まで一度だってした事のないような苦くて切ない、そんなキスだった。そして、後にも先にもこんな気持ちになるような相手は桂木以外いないだろうと田嶋は思った。

 ゆっくり唇を離して目を開けると、桂木もこっちを見ていて、ますます田嶋を切なくさせる。それでも、いつもの無表情な顔立ちで田嶋はこう言った。

「あんた、すごい人ですね。骨抜きです」
「ご愛嬌」

 そう言って桂木は笑った。

 二人の新しい関係が、ここから始まるのだ。
 


end

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