12

 シティホテルの一室で二人は一言も発せないまま、沈黙で流れた重い空気をやり過ごした。部屋にに着いてからも田嶋は顔を俯けたままで、桂木と視線を合わそうともしない。それが余計に痛々しさに拍車をかけた。

 冷たい11月の雨にうたれて、ずぶ濡れになったまま帰るにはどちらの部屋も遠すぎた。タクシーを使おうにも、まるでバケツの水をかぶったかのような出で立ちでは、タクシーにだって乗車拒否を受ける。結局、最寄の駅前にあるシティホテルに部屋を取り、衣服のクリーニングを頼んだのだった。

 部屋を取る際に、ずぶ濡れの若いサラリーマン二人がいかにも訳ありそうな顔をしてホテルの部屋を申し込む。ホテルの授業員や、ロビーにいた数人が、あからさまに好奇に満ちた視線を投げて寄越していたが、そんな事はどうでもよかった。第三者の目よりも何よりも、今は田嶋の事が気がかりでしょうがない。

 部屋に入ると、二人はクローゼットに用意されている白いパイル地のバスローブに袖を通した。このままでは風邪をひく。先にシャワーを浴びてこいよ、と桂木は田嶋を促した。いつもの田嶋なら「あんたが先に」とでも言ったのだろうが、今はそんな余裕もないらしい。何も言葉を発しないまま、言われるままに浴室に入っていった田嶋の背中を見送ると、桂木は大きなため息をついてシングルベッドに腰をかけた。落ちつかない。ギッと桂木は爪を噛んだ。

 そりゃあ、誘えばセックスにも応じるくらいなのだから、嫌われてはいないとは思っていた。けれども、肝心の田嶋の心まではちっとも分からなかったのだ。好きとか、嫌いとか……そんなの言われた事一度だってない。だから、田嶋にとっての自分の存在とは、特別愛情を注ぐ対象でもなんでもなく、ただ退屈しのぎの、ただ快楽に身体を求め合うだけの……ただそれだけの相手なんだと、そう……思っていたのである。そんな風に想われていたなんて、ちっとも気づいてやれなかった。

 だから、桂木はあの言葉に心底驚いたのだ。


『俺はあんたが好きなんです』


 桂木は目を細めた。

『好きなんです……』

 桂木はゆっくりと目を閉じて右手の平で、雨で濡れた前髪をかきあげた。

 肩を濡らした田嶋の涙も、震えていた田嶋の身体も、何度も繰り返した謝罪の言葉も、初めて呼んだ田嶋の名前も、まるで全てが―――――。

 気配に気づいて、桂木は顔を上げた。

 目の前に、相変わらず俯いたまま視線を合わせない田嶋が立っていて、桂木はその表情をじっと見つめた。一言も発しない。

「……田嶋……」

 桂木はそう言うと、田嶋の右手を取った。瞬間、田嶋の身体がビクッと震えて、固くなる。田嶋は本当はこんな表情をする男だという事を、この時初めて知ったのだった。

「田嶋……」
 頼むこっちを向いてくれ……!桂木は必死の祈りを込めて願ったが、頑なな瞳はそれを切ない顔で拒絶する。桂木はいたたまれなくなって、掴んだ右腕を引っ張ると、田嶋を反対方向のベッドに押し倒した。一瞬目があって、田嶋がひどく驚いた表情を見せる。

「田嶋……」

 もう一度名前を呼ぶと田嶋は顔を逸らして、そのまま目を閉じた。今にも泣き出しそうな顔をして、桂木の胸をキリキリと締めつける。

 桂木はその頬に優しく口付けを落とした。子供のように怯えるその身体の震えを、なんとか止めてやりたい。頬に触れた左手で田嶋の髪をかきあげると、まるで確認でもするかのように何度も何度も口付ける。

「………っ」

 小さな声を上げて、それでも田嶋の身体の震えは止まらなかったのだ。


*    *    *    *    *


 桂木が目を覚ましたのは深夜の3時過ぎで、その原因は昂ぶりすぎた神経と、部屋内の衣の擦れる音だった。

「田嶋?」

 桂木が慌ててベッドから身体を起こすと、ネクタイを締めて、袖口のボタンを止める田嶋の背中が視界に入った。

「起こしましたか?すいません……」

 田嶋はそれだけ言ってこちらも振り向かない。

「たじま……」
「スーツ」
「え?」

 田嶋は上着を羽織ると、淡々とした口調で言った。

「フロントに確認したらクリーニング、終わっていたので持ってきてもらいました」

 それは見れば分かるけど、電車も出てないこんな時間に何処へ行くというのか。

「タクシーでいったん家に帰ります。それとクリーンニングとここのホテル代……テーブルに置いときましたから」
「いらねぇよ」

 桂木はそう言ったが田嶋は聞こえないふりをして、椅子に置いてあった鞄を取るとドアに向かった。その後を桂木が追うようにベッドから立ち上がる。

「おい、たじ……!」
「夕べのあれ……」

 言いかけた桂木の言葉を遮るように、田嶋は後姿のままポツリと言った。

「……冗談です。忘れて下さい」

 そんな冗談があるか! 

 肩を震わせて、泣き顔まで見せておいて、あの告白のどこが嘘だと言えるのだ。田嶋の涙、何度も繰り返した謝罪の言葉、初めて呼んだ田嶋の名前、そして田嶋の言った事。

『俺はあんたが好きなんです』

 あのまま自分も好きだと言って田嶋を抱いてしまうのは簡単だった。もしかすると、そのままカップル誕生なんて可能性もありえたかも知れない。けれども今の自分には躊躇なく、そう言える資格が到底あるとは思えなかったのだ。田嶋をたくさん、傷つけた。

 翌日、ホテルを出てそのまま出勤した事務所で、田嶋は昨晩とはすっかり違った出で立ちで、まるで夕べの事などなかったかのように澄ました顔で桂木に応対した。そんな田嶋の様子を見ていると、あの夜は本当にあった事なのだろうかと疑ってもみたくなる。しかし、あれは確かに現実だった。桂木の肩を濡らした涙、抱きしめたときに震えていた田嶋の体、あの時の雨の匂いも……五感全てが覚えているのだ。夢ではない。

 桂木は机から顔を上げて窓際を眺めた。視線の先にあるのは小さなミーティング用のテーブルで、田嶋と西郷が商談の検討をしている。ふいに顔を上げた田嶋が、気づいたように視線を桂木に向けた。桂木を見つめた田嶋の眼差しは、侮蔑にも似た冷たい表情を浮かべて桂木の胸を痛くする。しかし目が合ったのはほんの一瞬の事で、田嶋はすぐに視線を逸らした。本当に一瞬の事なのに、まるで、まるで……拒絶されたような気がしたのだ。これは好きとかキライとか、もうそういう問題ではない。

 桂木はスーツの内ポケットから銀色の携帯を取り出すと、真っ直ぐ見つめて目を細めた。

 迷う必要なんかあるものか。欲しいのは一つだけだ。

 昨日、云いそびれた言葉が桂木の脳裏を掠めた。

『なあ、田嶋。もし……』

 もし、俺が。


 好きだって言ったら、俺の事好きになってくれる? 


 なりふりなんか構ってなんていられない。桂木は席から立ち上がると、真っ直ぐとドアへと向かった。

 


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