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 昼休みが後5分で終わる頃、まるで時間を計ったようなタイミングで田嶋は営業部のドアを開けた。視界に上司の姿を確認すると、自分の机には行かずに、真っ直ぐに桂木のところに業務の報告をしにやってくる。田嶋はそういう真面目で几帳面な性格だ。

 桂木の前まで来ると田嶋にしては珍しく、控えめであるけれど上機嫌な口調でこう言った。

「桂木主任、東洋オフィスなんですが契約、続行してもらえるようになりましたよ」
「! 本当か?!」

 田嶋の言葉に、桂木は思わず座っていた椅子から立ち上がった。東洋オフィスといえばもう7割方ダメかな、と思っていた大口の会社だったのだ。契約が続行されれば、上半期は営業部のノルマとしてだいぶ楽になる事になる。

「おいおい、マジすげぇよ。一体どうやってあの難攻不落の部長さんを説得したんだ? 」

 驚く桂木を尻目に、田嶋は何も言わずに淡い微笑を浮かべた。どこまでも控えめな男だ。

 こういう田嶋の営業センスはすごい、と桂木は思う。そして、こんなの大した事ないと言わんばかりの涼しい顔をして、それでもかなりの頭を下げて契約の続行をお願いしてくれたんだろうな、とも思った。

「…………」

 桂木は田嶋の顔をじっと見つめた。これがビジネスである事は百も承知だけれども、最近の事といい、今日の朗報といい、桂木は何だか無性に田嶋にお礼をしたい気分になったのだ。

「……今夜、どう?」
「は?」

 直球コースな誘いの言葉に、滅多に表情を出さない田嶋の顔がみるみるうちに氷のように冷たくなった。こんな真っ昼間の会社の真ん中で何を言ってんのか、と。

「え、いや、そういう意味じゃなくて。一杯どうかな〜、と」
「ああ」

 そっちか、と田嶋の表情から冷気が消えた。

「おごりなんです?」
「当然」
「それじゃ、行きます」

 あっさりと田嶋は即答した。現金。まあ、そんな事はどうでもいい。

「ほんじゃ7時」

 桂木はニコッと笑うと、田嶋の肩を叩いてその場を離れた。

 営業部のドアを開けると、上機嫌な素振りでズボンのポケットに両手を突っ込む。屋上へ続く廊下の足取りも軽く感じた。こんな日は全てが上手く行くような、そんな気分になる。夕方から雨だと言われた天気予報も、この日ばかりは外れる気がした。

 桂木は約束を取りつけた……が、これが後に表面上は穏やかに進んでいた二人の関係を一転させる事になろうとは、当の本人も想像だにしてはいなかったのである。


*    *    *    *    *


 田嶋と飲みに行くのはなんだか久しぶりだった。と、いうのも最近はセックスばかりに耽っていて、どこかの店に行くなんて事がなかったせいなのだ。

 だが、今回の目的はデートというわけではない。あくまで会社の労《ねぎら》いだ。そこそこ話せて、怪しいとこじゃなくて、場所選びは慎重にしないと……、と、結局桂木は、無難に会社でよく利用する居酒屋にいく事にしたのだった。無難にし過ぎて、我ながら芸がない。

 居酒屋は忘年会シーズンにはまだ少し早いというのにわりと込んでいた。尤もこっちは2名だったのでカウンターではあるけれども、すんなり座る事が出来たのはラッキーには違いない。よくよく今日はついてる日だと桂木は思った。奥の座席には大学生の合コンかなにかだろうか。盛んに景気のいい声が聞こえてくる。

 席に座るととりあえずはビール、と注文した。

「ご苦労さん! いやー、嬉しかった! どんどん飲んでくれ!」
「大げさですね」

 桂木は上機嫌で田嶋を労い、コップにビールをなみなみと注いだ。こういう時のビールは限りなくうまい。田嶋が素っ気ないのは今に始まった事ではないが、その口調からまんざらでもなさそうな空気が見てとれた。

(あ……)

 微笑《わら》った。

 田嶋は注意して見てないと、うっかり見落とすような微かな表情をよくする。実際それが元々そういう表情の出し方をする男で、桂木がそれを見逃してたのか、最近本人にも無意識に出るようになったのかは分からない。ただ、田嶋との距離が以前よりも近くなったと感じるのは、一方通行の勘違いではないと信じたい。

「しっかしよく取れたなぁ。もう見切りつけようかどうしようか迷ってたんだ」
「あんたが欲しいって言ったんでしょう」

 田嶋はさらりと言い放ったが、その言葉を聞いて桂木は口をつけたばかりのビールをゴクリと飲みこんだ。心底、桂木が欲していた契約だったのである。田嶋は、それを知っていたのだ。何? 俺のためか?

 桂木の胸が熱くなったように感じたのはアルコールのせいだけではなかった。もしそこに99%ダメな契約があっても桂木がそれを望めば、田嶋は残りの1%で契約を取ってくるような気さえしたからだ。なのに恩着せがましい事はなに一つ言わない。田嶋は、そういう男だ……。

 今みたいな関係でなくもっと、田嶋の内面に踏み込みたい。ノックをすれば受け入れてもらえるのか?

 桂木はゴクッと唾を飲み込んだ。

「……なあ、田嶋。もし……」

 夕方から降るといわれた雨もやっぱりまだ降ってはこない。言うなら今日だと桂木は思った。しかしその時。

「ケイちゃん、ケイちゃんじゃん! ひゃー、偶然!」

 どこかで聞き覚えのある声に驚いて桂木が振りかえると、そこには金森大樹が勝気な笑みを浮かべて立っていた。金森とは3週間ほどぶりだったか……。そう、この3ヶ月の蜜月の間に2回ほど御淫行に及んでしまったうちの一人だったのだ。

 金森とは3週間ほど前、バッタリと駅前で再会した。デートを途中ですっぽかしたあの夜以来だったが、金森は若干拗ねてはいたものの、案外怒ってはいなかった。それどころか誘ってきたのだ。

 節操なしだと思われるかもしれないが、金森は似ている。髪の色こそ違うけど、ふとした仕草であるとか表情であるとかが田嶋に。金森を見ているとハタチぐらいの田嶋ってこんなんだったんだろうか、と思えて、その顔でお願いされると断り切れなかったのだ。尤もこんなの、言い訳にもなりはしない。

「こないだは誘ってくれてありがとね。すっげー楽しかった。最後に行ったトコも…ほら、なんて言うホテルだっけ?」
「金森!」

 桂木は慌てて止めに入った。ルール違反もいいとこだ!

 伺うように田嶋を見ると、田嶋はいつも通りの平静な顔で、何事もなかったようにビールの入ったコップを置いた。一体どう思っているのか……。

 金森は田嶋の方に視線を向けると、今初めてその存在に気付いたかのような口ぶりでこう言った。

「あ、会社の人?ゴメンゴメン」

 金森は悪気なくそう言うと今度は田嶋に向かって話しかけた。

「俺、カナモリって言います。今そこで合コンやってんですけど御一緒しませんか?あなた、顔立ちがキレイだから、女のコ達が喜ぶと思うなあ」
「結構です。俺はもう帰るから。……アンタは行ったらどうですか」

 桂木にそう言い放った田嶋の目はとても冷たいもので、視線も合わさない。

「えー、残念だなー。じゃあケイちゃんは?」

 金森の目が悪戯っぽく桂木の方を見た事を桂木は見逃さなかった。

(……わざとか)

 桂木は軽く舌打ちすると、少し睨みを効かせた。

「もういいだろう?行けよ」

 それが効いた様子は全然なかったが、金森は、『あ、そう』とだけ言うと、あっさり奥の座敷に戻って行く。その後姿がふすまの向こうに消えるのを待たずに桂木は田嶋に視線を戻した。

 田嶋は何事もなかったかのような平静な顔をしてビールなんかを飲んでいる。しかし桂木はそんな田嶋に、どう言って弁解すればよいのか全然分からなかった。尤も今まで弁解なんぞした事などはなかった桂木だが、最近はちょっと勝手が違うのだ。

 バツの悪そうな顔をして、桂木は目を泳がせたまま、唇を舐めた。

 本当の事だし弁解するのも帰って男らしくないか…とも思ったがこのままにしておくわけにはいかない。案外怒ってないのか……とも思ったが次にとった田嶋の行動でやっぱり相当怒っている事が判明した。一言も、口を利かないし目も合わさない。二人の間を気まずい雰囲気が流れる。かと思えば突然、沈黙を破るかのように田嶋は無言で立ち上がった。

「田嶋……」

 田嶋はスーツの内ポケットから財布を取り出して、数枚の札を少々乱暴にカウンターの上に置いた。

「帰ります」

 田嶋はそれだけ言うと席を立ってさっさとドアの方まで向かった。慌ててその後を桂木が追って行って、瞬く間に2人はドアの外へ消えて行く。ピシャンとドアの閉まる音が遠くで聞こえて、その様子の一部始終を座敷の奥から金森が見ていた。

「…ばーか、振られちまえ」

 数ヶ月前、バーで一人に置き去りにされた時のみじめさったらない。怒らない馬鹿がいるか。一体どうしてくれようか、と思ったが待てど暮らせど電話の1本も寄越さない。そのときからうすうすは感づいていたのだ。3週間前バッタリ出会ったときのあの態度、心ここにあらずの失礼なセックス。そして、カウンターに座っているあの男を見て一目でピンときた。

 桂木の本命はあの男であって自分ではないという事。

 このイヤガラセは金森のささやかな抵抗であったのだ。このぐらいで済めば上等だろう。だって桂木は、金森の最初の男だったんだから……。


*    *    *    *    *


 田嶋は歩くのが早い。足早に歩く田嶋を追いかけるのは本当に一苦労だ。慌てて追いかけたというのに、混雑する人込みの中で、差はなかなか縮まらない。

「田嶋っ!」

 ようやく田嶋の手を掴んだときは、店からだいぶ離れた人通りの少ない通りだった。背を向けた田嶋は俯いたたまま動かない。表情が、よく見えなかった。

「田嶋……、ごめん」
「…………」

 田嶋は何も答えなかった。桂木も何を言ってよいか分からずに少しの間、沈黙が2人の間を流れた。

 しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは田嶋だった。その声は消え入りそうなぐらい小さいなものであったが、周りの静寂が田嶋の声を響かせて、聞き取るには充分な大きさだったのだ。

「……自分が、恋人でないとか、そういう詮索の出来る立場じゃないって事はわかってます」

 田嶋は、下を向いていた顔を、更に俯けた。

「分かって……ますけど……」

 桂木は言葉を待った。

「今回のは、ないんじゃないですか?」
「…………」
「今日はあんたが誘ったんですよ? ……でも、あんな事聞かせられて……今、サイコーに惨めです……」
「たじま………」
「……俺は……!」

 そう言って、弾かれたように振りかえった田嶋は顔を上げた。思いつめたような表情がみるまに泣きそうな顔になって、それが田嶋の複雑な心情をどんな言葉よりも雄弁に物語る。

 田嶋は桂木と合った視線を逸らすかのように、ゆっくり瞼を閉じると再び俯むいた。二人の間に居心地の悪い、そして緊迫した雰囲気が流れる。緊迫した時間は一分を一時間のようにも錯覚させた。

 やがて田嶋がポツリと。本当に、本当に小さな声で言ったのだ。

「……俺は、あんたが好きなんです……」

 その言葉を聞いた瞬間、桂木はまるで雷にでも打たれたかのような、電気に感電でもしたかのような衝撃を感じた。身体中を電気が駆け抜けるその感覚に思わず震える。

 今、田嶋はなんと言った?

「……好きなんです……」
「たじ…………!」

 言いかけて桂木はハッとした。俯いていた田嶋が顔を上げて、痛いぐらい真っ直ぐな視線で桂木を見つめている。頭上のどこかに蛍光灯でもあるのだろう。表情を読み取るには充分な明るさで、頬の当たりに雫が光った。

 ………泣いていたのだ。田嶋は。

 濡れた瞳から次々と涙がこぼれていく。

 いつもの田嶋なら『なんとも思っていない』というふりも出来ただろう。このまま家に帰って、一人で夜を過ごす事も出来ただろう。だが、今回に限ってそれは出来なかったのだ。

 2人で過ごした3ヶ月間というあの時間は、田嶋が今まで通り平静を装っていくには長すぎたのである。

 桂木は胸が締め付けられるのを感じた。切ないというのはこういう事をいうのだろうか。

 桂木は田嶋の身体を力任せに引き寄せると、その腕にかき抱いて謝罪の言葉を浴びせかけた。

「ごめん、ごめん…………」

 桂木は呟くように、何度も何度も繰返し謝った。それが田嶋には少しも伝わらないであろう事を桂木は知っていたが、とても言わずにはいられなかった。

「ごめん……」

 ポツリ、と顔に冷たいものが当たる。予報通りか、それを皮切りにバラバラと音を立てて、雨の雫が二人を濡らした。

 一歩も、この場を動けない。全身が雨でずぶ濡れになっても、桂木は謝る事を辞めなかった。それでも、田嶋の瞳からはまだ涙が流れ続けていて、声も出さずに泣いているのが更に桂木の胸を痛くする。

「ごめん、ごめん…………」

 何度目かの呟きのとき桂木はその時初めて田嶋の名前を呼んだ。

「……ごめん、一臣……。ごめん……」



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