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 桂木のエイズ疑惑から3ヶ月。世間ではすっかり秋の気配が色を消し、冬の寒さが訪れ始めていた。

 結局、桂木の検査結果は2ヶ月経った後も陰性で、それはそれで大変結構な話ではあったのだけれども、その表面下で当の桂木ご本人には予想だにしていなかった出来事が起こっていたのである。




「!」

 後ろから掴まれた手の感触に、田嶋はゆっくりと振り向いた。

「今日は、どう?」
「ダメっつかイヤですよ。もう遅いですし」

 なるほど、と桂木はホームにぶら下がってる時計を見上げた。21時。

「今日はそんなしたい日でもありませんしね」
「あ、そ」

 素っ気無く、顔には出さなかったけど相当残念な感は否めない。

「ほんじゃ……」

 いい、と言いかけて手を離した桂木に、田嶋の声が被さった。

「明日」
「うん?」
「明日ならいいですよ」
「……明日ならする気になんの?」
「する気にしときます」

 それじゃ、と、あっさりと掴んだ手を振り払ってホームに消える田嶋の後ろ姿を見送りながら、桂木は小さく息を一つ吐いた。しつこく、追いかけない。駆け引きの基本の一つだ。

 最近はいつもこうやって桂木が別れ間際の駅のホームで田嶋を誘うのが恒例になっていた。あの日まで多くて週イチ程度の関係だったけど、今は断られるかどうかは置いといて2日に1度は声をかける。始めの1ヶ月はよっぽど懲りたんだ程度に思われていたようだけど、こと2ヶ月目に入ったところで、そろそろどうしたの、という顔をした田嶋が言った。

「今日もなんです?」
「ダメ?」
「いえ、別にかまいませんが……俺一人で飽きませんか」
「お前は俺の身体に飽きたのか」
「まさか。いろいろされて他の男じゃダメになりそうです」

 シレっと目も合わさないで言うもんだから、世辞というより心のこもってない冗談だっていうのはすぐに分かった。この男、本当にあらゆる意味でいい性格をしている。

「俺もまだ飽きてない」

 こっちはホント。それからひと月経つけれど、同じペースに係わらずその日以降田嶋はそういう事を言わなくなった。

 桂木はそんなひと月前の出来事を思い出しながら、ゆっくりと帰路へと運んでくれる、空いた電車の中に足を踏み入れ、ドア近くの座席に腰を下ろした。

(本当に)

 予想外。なにがって……この自分がここ3ヶ月、田嶋という一人の男で満足してしまっている事について。

 正直なところを告白すると、また2、3週間も経てばキレーさっぱり忘れたごとくに元の節操のない生活に戻って行くんだろうなあ、と漠然と思ったりしていたのだった。もちろん、セーファーセックスは完璧に施す勢いで。当たり前だろう。万が一感染でもしていたら生きるか死ぬかの大騒動になるところだったのだ。これで凝りなきゃ、バカである。それが何。この最近の自分ときたら!どうした事か、3ヶ月経った今でもちっとも他所のところへ行きたいとは思わない。

 それはまさに、『恋多き男』のハズの桂木にとっては予想外の出来事で、自覚が芽生えた時には当の本人も少し困惑したものだ。

 大体桂木は、一人の男だけで長い事続いた例がない。根っからの浮気性なのだ、と今の今まで自分でも思っていたのだけれど、よくよく田嶋との事を考えたところ、どうもそうではなかったようだ。それに今まで週に1回あるかないかの関係だったから、ちっとも気がつかなかった。ある夜は貞淑な人妻のように、時には百戦錬磨の娼婦のように、田嶋は夜毎にいろんな顔を見せる。毎日寝たくて、しょうがない。

 結果、この期間は田嶋と1対1の関係を作る事になり、2人にとっては初めての蜜月というわけだったのだが……それが引き金になったかどうかは今となっては大した問題ではない。

 そうは言っても、二人はきっちりとステディな関係を約束したわけではなかった。だって、田嶋ときたら相変わらず淡々とした様子で、する事はしてるのに自分の事を一体全体、どう思っているのかやっぱりイマイチ掴めない。身体の関係は特定でも、心は全然別物だ。

 元々田嶋にはそういうフシがある。田嶋は桂木に限らず、そういった意味での特別な相手というものを作らないのだ。内部に入って、精神的なものを共有する事が鬱陶しいと思うような性格なんだろうな、と桂木はなんとなく思った。田嶋の孤独なテリトリーに桂木は入れてもらえない。人の事をとやかく言える立場ではなかったが、こんなの到底、恋愛などと呼べるシロモノではない。

 それが言い訳になるわけではないが、実は先日ふらふらと2回ほど……御淫行に及んでしまったのだった。庇いだてをするわけではないが、桂木がわざわざバーやらハッテン場やら、ナンパをしに行ったわけではない。駅でバッタリ会ったのだ。

 もちろんゴム付きではあったのだけれども、桂木にとってそれはもう、以前ほど感じる行為では無くなっていた。その事で更に自覚した事がもう一つ。最近は田嶋とするセックスが気持ち良くてたまらない。前もそれなりに良かった事は良かったのだれど、前のモノとは全然まったく、比べ様がないほどなのだ。

『俺一人で飽きませんか』

 他の誰でもない。田嶋が、良い。

 停止していたモーターが突然稼動を始めて、硬い振動が電車全体を震わせた。車掌の低いアナウンスが流れて、もう15分もすればマンションの最寄駅に着く。

(それにしてもアイツ……)

 する気にしときますって、そんなのコントロールできるのか。

 思い出したらなんだか愉快になってきた。思わずニヤっと緩んでしまった口元に手を当てて、周りに隠すように顔を俯ける。
ご丁寧に肩まで震えて、これじゃあただの怪しい男だ。

 明日は早く仕事を終わらせよう、と動き出した電車の中で桂木は思ったのだった。


*    *    *    *    *


 有言実行、というか。翌日田嶋は定時にきちっと仕事を終わらせて、1時間後には桂木のマンションに着いていた。

「なんか飲む?」

 ダブルベッドのあるマンションの寝室で、ネクタイを外しながら桂木が聞いた。

「いえ」
「ほんじゃ腹は」
「情事の前には何も食べない主義なんです」

 田嶋の方も上着を脱いで、クローゼットのドアにそれをかける。

「腹減ってる時の方が集中できなくねぇ?」
「多少空いてる方が、神経尖った感じがするでしょ。それと反対に満腹になったら鈍くなる気がするじゃないですか」
「なるほど」

 変なところで納得してしまった。これも一つの考え方か。

「腹減ってんのが気になるんだったら、何か口に入れたらどうですか」
「いや、別に俺も……」

 空いてない、というよりは目の前の田嶋の事でいっぱいで、腹が減ってるかどうかも分からない。

「えーと、ほんじゃ風呂……」

 と、言いかけた桂木の口の動きが止まった。もうすぐ近くに田嶋の顔があったからだ。

「風呂、イヤじゃないなら後でいいです。やる事しましょうよ」

 バクッと桂木の心臓が一つ鳴った。

 共有してる時間は確実に増えているのに、自分達はセックスしかしていない。これじゃあフツーの付き合い以下じゃねえ?それでも、目の前の欲望には逆らえない。

 桂木は右手のひらを田嶋の頬に当てて擦ると、その親指の腹で耳のくぼみを形通りになぞった。そのまま外側の輪郭に滑らせて、最後に耳たぶを軽く引っ張る。指先に触れる耳は指よりも冷たくて、今、田嶋に触れてる自分の皮膚は、どんな風に感じられてるんだろうとそんな事を考えた。

 右手をずらして首の後ろに滑らせると同時に、左手で田嶋の腰を引き寄せて、そのまま軽く口付ける。始めは触れるだけのような軽いキスを。それを2、3度繰返すと、4度目はいきなり深く口内に舌を割り込ませた。だんだんと深く、貪欲に田嶋の口内を激しく掻きまわす桂木のキスは激しすぎて、うまく呼吸が出来ないほどだ。もつれるように触れ合う舌が、淫らな音をたてて、田嶋の口から声にならない喘ぎがもれた。

「…んん……っ、は……」

 声を洩らした田嶋の顔を薄目を開けて見つめると。

(こいつ……)

 なんつーエロい顔してるんだ……。

 見てるこっちが恥ずかしくなってきた。さっきまで涼しい顔してたのに、キスの一つでこんなになるかな。気がつかなかった。

(ああ、くそ……。キスだけでイっちまいそうだ)

 肩に回された指に力が入ったのを感じて、桂木は田嶋を後ろのベッドに押し倒した。感じやすい首筋を音を立てて激しく吸うと、田嶋の口から甘い喘ぎが洩れる。シャツの下から乱暴に突っ込まれた手が乳首をつまむと、敏感な田嶋の身体がビクリと震えた。その感触に、行為に夢中になりながらも、田嶋の指が桂木のシャツのボタンを外し始める。田嶋の白い手が視界に入り、形の整ったそのきれいな指には細い銀の指輪が似合うな、と桂木はなんとなく思った。


「あれ、もう帰んの 」
「はあ、もう終電でますし」

 言いながら田嶋は少しばかりシワになったシャツに左腕を通した。一足先にシャワーを浴びた田嶋の髪はまだ少し濡れていて、なんだかしっとりした感じがする。

「泊まってけばいいのに」

 風呂上りの頭をタオルでゴシゴシ擦りながら桂木が言うと、

「明日、都合悪いんです」

 だから今日か。二連休前の美味しい約束が金曜の夜なんておかしいと思った。残念ながら、真っ昼間からデートを楽しむような間柄じゃない。

「ほんじゃ駅まで送ってく」
「え……、別にいいですよ。男《ヤロー》ですし、なんもないでしょ」
「駅前にタバコ買いに行くんだよ」
「……じゃあ、どうぞ」

 田嶋がこっちを横目で見ながらモノ言いたげな間を取ったから、口実が欲しいとうのはバレバレなのかもしれない。どっちかというと指摘して欲しいくらいなのだけど、そういうわけにもいかないか。

 濡れた髪もそこそこに、ざっと着替えて10分後に家を出た。10月の夜は残暑も去って、空気が冷たい。蛍光灯がポツポツ灯った住宅街を二人、肩を並べて歩いて変な気分でもないけれど、ムラムラと……いや、もっとこう、触れたいだけっていう純粋な気持ちだ。

 桂木はチラッと横目で田嶋を見ると、思いきって右手を伸ばした。

「!」

 掴んだ途端に分かりやすい表情になる。

「……なんです?」

 ジロッと睨まんばかりの勢いだ。桂木は目を合わさないように、明後日の方向に目を泳がせた。

「や、なんとなく……。いいだろ、減るもんじゃなし」
「暗いとこ、恐いんです?それならわざわざ……」
「んなわけあるか。いつも一人で帰ってるだろ」
「まあ……暗い夜道で誰も見てないでしょうからいいですけど」

 昼なら思い切り拒絶されるのか。桂木は苦笑した。と、言っても手を握っているのは自分だけ。田嶋は手を繋がれてはいるけれど、握り返してはこないのだ。

(さすがにちょっと凹むよなあ……)

 この落胆の正体は実はとっくに気づいてる。掴んだ右手に少しばかり力を入れると、桂木はゆっくりと顔を俯けて目を閉じた。


 俺は、この男が好きなのだ。


 駅まで10分そこそこで、出勤時は長く感じるこの道も二人だとめっぽう短い。手を握ったのは3分だったか5分だったか。兎にも角にも短かった。

 販売機で切符を買うと田嶋はどうもと浅く会釈して、そのまま一度も振り返らずに改札機の向こうに消えていった。想像以上に素っ気ない。

(ホントにアイツ……)

 気持ちがまったく量れない。こんな経験、初めてだ。

 後ろ姿を見送ったその後も、桂木はそこからしばらく動けなかった。


*    *    *    *    *

 

 田嶋たちが勤める花丸商事は、中企業としてはそこそこ雇用の多い会社である。だが、部署もフロアも違うとはいえ同じビルで仕事をこなす上島とは面識ぐらいはあった。営業部と総務部は出張旅費や経費など仕事上、密接な関係にあるからだったが、それ以前に上島という男はその容姿から態度から、至ってよく目立つのだ。

 上島洋介。現在は総務部に所属している桂木の同期であり、友人でもあるこの男。4年前まで田嶋達のいる営業1課に所属していが、今でも名前をところどころで聞くあたり、かなり敏腕な営業センスの持ち主だった事は容易に想像出来る。尤も上島は、田嶋の入社と入れ違いに総務部へ移ったらしいので詳しい事をあまり知らない。

 田嶋がその上島と話をする事になったのは、ほんの偶然だったのだ。

 営業の外回りから帰る途中で昼食を取る事にした田嶋は、会社に近い喫茶店へ足を踏み入れた。が、時間帯が悪かったのか。店は大変に混雑していて相席をするハメになったのである。しかし、それは単なる偶然か、それとも何かの必然か……その相席の相手というのが上島洋介、その人だったのだ。

「……どうも」

 上島の正面の椅子に、軽い会釈をしながらゆっくり腰を掛けると、抑揚のない声で田嶋は言った。

 何で、こんなところで会うんだろう……。そうは言っても会社の近くのコーヒーレストランなのだ。別段不思議な事でもない。しかし面識程度しかない上島について、田嶋には一つ桂木に対する疑念があったのだ。いつだったか、ずいぶん前だが桂木は寝言で言った事がある。『上島……』と。

 桂木から上島の名前を聞いたのは何も寝言だけではない。仕事中でも、プライベートでも何度も何度も聞かされたのだ。一番信頼をおいている友達なんだという事だったが、単なる友人が話の途中でこんなに幾度も出てくるか。桂木の大本命は案外この上島ではないのかと、内心思っていたのだ。

 尤もその田嶋の懸念は案外的はずれでもない。実は桂木は入社したてのころこの上島に言い寄った事がある。しかし上島にはその時かなりの意中の相手がいたため、ケンモホロロに相手にもされなかったという話だ。

 そんな念が顔にでも出ていたのか、開口一番、上島からでた言葉がこれだった。

「……桂木は、元気?」

 頬杖をついて上島は、まるで天気の話しでもするかのようにサラリと言った。すこぶる整った顔立ちをした上島の、少し余裕のある薄い微笑みは時に周りを圧倒する。

 田嶋とて例外ではなかった。少しドキリとしたのである。

 その心臓の高鳴りは前の質問に対してなのか、それともその少しクセのある微笑に対してなのか。―――――見透かされそうなのだ、心が。

「……元気ですが」

『表情が乏しい』、だとか『無表情気味』だとか散々な事を言われる田嶋ではあったが、実際今、自分がどんな顔をしているのかとんと見当がつかなかった。緊張しているのが自分でも、分かる。

 田嶋の返事に上島はそう、とだけ答えてなにやらスーツの内ポケットの辺りをゴソゴソし始めた。そのそっけない返事……田嶋は変な違和感を覚えた。なんだろう、この感じ。

「煙草、吸ってもいいか?」
「…………」
「…………いいか?」
「あっ、はい……どうぞ」

 自分がする事はあっても、される事はあまりない気配り。そっけない返事。

(…………そうか)

 さっきから感じている違和感。―――なんだか、自分と同じ匂いがするのだ。この上島という男から。

 馴れた手つきでライターで火をつけると、上島は真っ直ぐ顔を上げた。恐ろしく整った顔立ちのせいなのか、万人がよくするありがちな仕草なのに、ずいぶんと格好良く見える。

「営業、どう?」
「……まあ、ぼちぼちです」
「愛想なさそうだけど、ソツがなさそうだよな。田嶋は」

 そう言って上島は笑った。

 さっきとはうって変わったその人懐っこい笑みに、田嶋はひどく困惑した自分に気づく。なるほど。この人物相手なら恋愛感情はどうであれ、桂木が夢中になってしまうのも解る気がした。自分だって桂木がいなければちょっとぐらい心が動いたかもしれない。

 それから昼食を食べ終わるまでのしばらくの間、たわいもない世間話をしたりもしたが、桂木の名前はそれ以降、上島の口から会話には上がる事はなかった。上島には毛頭そんな気はないらしい。尤も、上島には同じ総務課に恋人がいるらしいから、ある意味、そういった心配は無用である。

 支払いを済ませて、店を出ると、上島は会社と反対方向の道を指差して言った。

「郵便局に寄っていくんだ」

 そして、時間を確認するかの様に左の手首に落とした視線を田嶋に向けると、ニヤッと笑ってこう言ったのである。

「アイツ、どうしようもないヤツだけど、よろしく頼むわ。病気にだけ気をつけるように言っといてくれ」

 あんなのよろしく頼まれたって。田嶋は呆然としたまま、上島の後ろ姿を見送ったのだった。

 『食えない人物』。

 田嶋の上島に対する第一印象はこれだった。
 

 


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