風呂から上がるとすっかりキレイになって、そこいら中ピカピカになった。もちろん、髭は剃ってある。テキトーに洗いざらしのシャツとジーンズをはいて、桂木はリビングのドアを開けた。

「スッキリしました? 」

 ソファに座った田嶋が顔をこっちに向けて声をかけた。

「すげーさっぱりした」
「でしょうね」

 ついでに何か悪い憑き物でも落ちた気分だ。まだ乾ききっていない髪から雫が垂れて、それが少々くすぐったい。桂木は田嶋の隣に腰をかけた。

「……」
「何? 」
「ボトボトで」

 田嶋が桂木の首にかかったバスタオルに手を伸ばしたかと思うと、頭の上に引き上げて、いきなりゴシゴシやり始めた。

「わっ……! 」

 突然の行動に桂木は思わず声を上げたけど、これがなかなか気持ち良い。されるままになって、桂木は顔を下に向けたまま目を閉じた。

(うお、気持ちいー……)

 しばらくゴシゴシされてたけれど、短髪ヘアは水分がすぐに切れるのだ。田嶋の手はあっさりと止まってしまった。もうちょっとしてほしー……と、まるで子供のような事を思ったけれども、顔を上げて驚いた。田嶋の顔が至近距離だ。

(……今ごろ気づいたけど)

 白いシャツにインディゴブルーのジーンズ。田嶋のスーツ以外の服装って実は初めて見る。仕事着以外はこんな感じなのか、と思って、開いた襟元から見える鎖骨の具合に桂木の心拍数が10ほど上がった。ついでに別のところもタちそうだ。桂木はゴクッと喉を鳴らした。

「いい匂いしてますね」
「え? 」
「石鹸ですかね」
「え、や、なんだろ……」

 更に顔を近づけてきた田嶋に、らしくもなく桂木は口ごもった。顔が近いのがすげー気になる。桂木は身体をよじらせて距離をとった。

「?なんです? 」
「……」

 どうも不自然に見えたらしい。田嶋は視線を逸らせたまま目を合わそうとしない桂木の様子にしばらくクエスチョンマークを浮かべていたけれど、数秒のちに答えを見つけた。

「ああ」
「な、何……」
「アンタ今、ヤりたいなって思ったでしょ」
「な……っ!」

 瞳を真っ直ぐ合わせて言うもんだから、ホントはそう思ったのだけど桂木は、思わず頓狂な声を上げた。

「ひっ、人をヤリチ○みたいに言うなっ!」
「あれ、違うんです? 」
「違……!」

 言いかけてハッとした。違わないか……。否定しきれないところが何とも辛い。久しぶりに精神的な余裕が出来たと思ったらすぐこれだ。

 桂木は再び視線を逸らして、少しばかり紅潮した顔を明後日の方向に向けた。

(みっともな……)

 心の中で呟くと、田嶋がまだこちらの方をじっと見ているのに驚いた。

「したいんです?」
「はあ?」

 したいって何を、と、カマトトぶるほどヤボじゃない。ただ、まっすぐ過ぎる直球に頓狂な声を上げてしまった。

「だから、したいんです?」
「……お前なあ……」

 桂木は大きなため息をついて、垂れた頭を真っ直ぐ起こした。目線が並んで、それでも田嶋は少しだって逸らさない。しかも素っ気ない無表情ないつもの顔で。これがまた桂木のツボに容易く入ったりするわけで、視線のやり場に困ってしまった。

「俺、ヤベービョーキかも知んないんだぜ。そんな気持ちになれっかよ」

 ぶっちゃけ100%ウソだけど、心配してもらって、ご飯食わせてもらって、元気づけてもらって、キスしてもらって、その上ヤらせろとは如何なものか。格好悪いにも程がある。桂木はバツの悪そうな顔をしてそっぽを向いた。

 尤も、本題はそこじゃない。欲求の赴くまま田嶋を抱いてしまうわけにはいかないと桂木は思っていたのだ。万が一、これで感染《うつ》したりなんかしたら絶対に立ち直れない。既に感染してたらば、正直もっと最悪だ。これ以上、わざわざ感染率を高めるような行為をする必要があるものか。

 プイっとそっぽを向いた桂木の横顔を田嶋はしばらく見ていたけれど、3分ほどして口を開いた。

「そうですか。そしたらそろそろ帰ります」

 一言言って、立ち上がった。

「え」
「元気になったみたいだし、やる事ないですから」
「おい、帰るってちょっと……! 」

 前をよぎった田嶋の左手を思わず桂木は引っ張った。思いがけない引力に田嶋の身体がバランスを崩してて、そしたら。

「わっ! 」
「うおっ! 」

 二人同時に声を上げて、田嶋は桂木の膝の上に横乗りに座ってしまった。

「……あんた、何なんですか」

 頭一つ分高い位置から恐い顔して田嶋がジロリと桂木を睨んだ。

「え、いやあ……」

 困惑した笑いを浮かべたまま桂木は目を泳がせた。何をしたいかだなんて考えてなかったのだけど、まだ一人では少しばかり心もとない。すぐネガティブになりそうだ。

 膝の上腰を下ろしたままの格好で田嶋はそんな桂木をじっと見ていたけれども、やがてゆっくり口を開いた。

「……一人になると不安とか」
「!」

 心の中を言い当てられて、いよいよバツが悪くなった。尤もこれ以上悪くなるところなんてない。

「まあ、そりゃ至極当然かもですよね。いいですよ、気持ち落ち着くまでここに居ます」

 言いながら田嶋は右腕を伸ばして桂木の頭をわしゃわしゃ撫でた。

(子供か……)

 でもイヤじゃない。田嶋はこういうところ上手いよなー、と思っていたら、頭に触れてた手のひらが前髪を掻き揚げて、温かな唇の感触が額に触れた。

「……俺、そんなに可哀想に見えんの? 」
「いえ、なんとなく雰囲気で」

 どんな雰囲気だ。妙な気分になるじゃないか。不満そうに曲げた口に更に軽いのをもう一つ。

「同情?」
「そんな上等なもの、持ってないですよ」

 言いながら田嶋は顔を近づけて、今度は触れるだけどころじゃない。総てを貪る、大人のキスだ。田嶋がこんな積極的なのも珍しい。桂木はゆっくりと目を閉じて、田嶋の舌を受け入れた。

 唇が離れると、桂木はもの言いたげな面持ちで目を細めてみたけれど、目の前に座った田嶋にはまるで効果がないらしい。

「お前……人がせっかく自制してるっていうのに、下の息子が妙な気分になったら困るじゃないか」
「困るんですか」
「困るだろっ!……したく、なるじゃんかよ」
「すればいいじゃないですか。アンタの事だから相当溜まってんでしょ? 相手、してあげますよ」
「はあ?」

 あっけらかんと返ってきた田嶋の言葉に桂木は頓狂な声を上げた。

「あっほかお前。今、俺らが置かれてる状況、分かってんのかよ」
「あんたがエイズかも知れないって事ぐらいは。ゴムつけりゃ問題ないでしょ。それとも何ですか。ビビって勃たないとか? 」
「な……! 」

 絶句。変わったヤツだとは前から薄々思ってたけど、ここまで変人だったとは……。

 思ってもみなかった。だが、正直に心の奥をぶちまけてしまうなら、ちょこっとどころか、もの凄く嬉しいのもホントの事実だ。この男は、この程度で俺を見捨てたりなんかしない。

 そこまで思って、桂木は小さく息を一つ吐いた。田嶋を上目遣いに見つめたら何事もなかったような表情で、涼しい顔してこちらを見ている。

「勃つよ」

 桂木は一言言った。

「勃つ勃つ。今にも押し倒したい勢いだ」

 それを聞いて口角を上げた田嶋はソファに腰掛けた桂木にそっと唇を重ねた。これは多分、ある種の駆け引きだったのだろうけど、桂木の完敗だ。尤も、こんな勝ち目のない駆け引き、した事ない。

 ついばむような軽いキスを2、3度交わすと、やがてゆっくりとした動作で田嶋の舌が進入してきた。至近距離で口付ける田嶋の表情が勿体無くて、目も閉じれやしない。繋がっていた唇が惜しむように離れると、田嶋は閉じていた瞳を開いて、桂木を真っ直ぐに見つめた。

 10秒したかしないかのキスだったのに、2週間ご無沙汰だった下半身の息子はもうやる気満々で、所有者であるこっちの方が思わず赤面する。そんな桂木を目の前に、田嶋にしては珍しく挑戦的な笑みを浮かべて勝気な口調でこう言った。

「久しぶりですから、うんと気持ち良くしてあげますよ」

 その色気の凄さというのか、なんというのか……さすがの桂木もゴクッと喉をならした。

 ジーンズに田嶋の手が滑るように入ってくると、心の隅にわずかに残っていた桂木の理性は完全に吹っとんだ。田嶋の形の良い清潔そうな親指が桂木の先端に触れる。先走りの粘液が程よい刺激となって桂木は思わず小さな声を洩らした。

「………っ」

 田嶋の指が桂木のソレを包むように触れると、ゆっくりと上下させる。下から見上げる角度から、表情を観察するような田嶋の冷めた目つきが更に桂木の欲望に火をつけた。なんて顔で人を見るのだ。

 右手で慰めながら、田嶋はズボンのポケットに反対側の手を突っ込んだ。田嶋が取り出してきたそれは、なんだか見たり見なかったり。

(ああ、そういや口でも生でやると感染率、ゼロじゃないって書いてたっけ……)

 コンドーム。

(用意周到っていうか……)

 桂木は苦い笑いを思わず浮かべた。慣れた手つきで器用にソレを装着すると、田嶋の舌が柔らかな感触で桂木の根元から滑るように先に触れる。つい、と口が離れて田嶋が口を湿らすように唇を舐めた。背中がゾクゾクする。

 それは田嶋がしてる行為に対してだけではなく、視界に入る田嶋の顔にもそうだった。その快感といったらゴムを付けても、十二分に釣りがくる。いつもすました田嶋の顔と、やってる事のギャップがたまらなく桂木を誘うのだ。

 滑らかになった田嶋の口が桂木を貪欲に飲みこむと、今度はいきなりその中で音を立てるような勢いで吸い始めた。

「っ、おい……っ」

 桂木の問いかけにもお構いなしに田嶋は行為を続ける。桂木はあまりの快楽に思わず顔をしかめた。

「そんなに吸ったら……早く、出ちゃうだろ……っ」
「出せば、いいじゃないですか」

 口を離すと田嶋はあっさりした口調でそう言った。

「一回出せば、今度はもっと長くもちますよ。2週間もご無沙汰だったんだから、あと2回ぐらいはいけるでしょう? 」

 そう言って、田嶋は桂木をもう一度口に入れる。ゆっくりと口を上下に揺すると、その気持ちの良さに桂木は田嶋を見下ろす形で目を細めた。たまらない。

 口内で弾くように動く田嶋の舌が淫らな音を立てて、その音が更なる興奮を誘う。ゴムを通して感じる、包むように密接した舌が絶妙に良い締めつけ具合で、桂木は思わず小さな声を上げた。

「……んっ……」

 桂木は両手を伸ばして田嶋の頭を掻き乱す。乱れた髪と田嶋の顔が絶妙な艶をかもし出して、桂木の視覚を刺激した。

「……ぁ、あっ、」

 途切れ途切れに桂木の声が洩れる。こんなテクニック、一体どこで覚えてくるのか。

 田嶋は桂木の弱いツボを充分に心得ていて、ある意味自分でマスターベーションするよりも、ずっと気持ちの良いところに手が届く……かと思っていたら、柔らかだった田嶋の愛撫が桂木のモノに歯を立てた。なんだ?いきなりの衝撃に桂木は思わず顔をしかめた。

「て……っ!」

 視線を田嶋に向けると、銜えたまま挑発するような目つきでこっちを見ていて、その表情に桂木の心臓が大きな音を一つ立てた。

(……くそ、やられた……)

 桂木は思わず苦笑した。言葉のかけひきよりもずっと面白くて刺激的だ。田嶋の口の動きがスピードを早めると桂木はもう何も考えたくなくなった。このまま達してしまいたい。

「……あっ、………でる……」

 ソファに腰掛けた桂木の身体がビクビク震えて、快楽にしかめた顔を下に向けた。総て出切ったのを確認して、ゆっくりと桂木を離す。

「良かったです?」
「はぁ……めちゃくちゃ……」

 良かった。

 田嶋は周囲をぐるっと見回して、フローリングに無造作に置かれたティッシュボックスを引き寄せた。

「良かったならいいです」

 言いながらティッシュを放り投げると、吸い込まれるようにゴミ箱に入る。田嶋がこっちに視線を戻すと、タイミングよくバチッと視線がぶつかった。

「あ……」

桂木の口が思わず声を洩らした。真正面に捕らえた田嶋の顔は、口元をいやらしく濡らした唾液が口角からこぼれて、なんだかずいぶんとエロティックだ。桂木はペロっと上唇を舐めると、田嶋の顎に手をかけて引き寄せて唾液をぬぐい取るように口付けた。

 そっと唇を離して一瞬田嶋と視線を合わせる。桂木はそのまま乱暴に床に押し倒すと、音を立てて田嶋の唇を激しく吸った。角度を変えて、深い口付けを何度も求める。田嶋は求められるままに口を開いて、回された両の腕で桂木の頭を掻き乱した。

 部屋の中では二人の荒い息遣いだけが響き渡って、まるでこの世には自分達だけしかいない錯覚にも捕らわれる。口の中で何度もぶつかり合う歯の音が頭の骨をじんじん響かせて、脳の髄までとろけそうだと田嶋は思った。

 どれぐらいそうしていたか。唇を離すと唾液の糸が引いていてお互いの気持ちを更に昂ぶらせた。肩の下では田嶋が小さく呼吸を上がらせて、潤んだ瞳が真っ直ぐな視線でじっとこちらを見ている。その顔に、桂木は完全にノックアウトを食らった。

「したい」
「ええ」
「田嶋と、したい……」

 今さっき射精したばかりだというのに、下半身のこの勢いの良さは何なんだ? しかしそんな冷静な事、どうだっていい。今はただ、目の前のこの男が欲しくて欲しくてたまらなかった。

 そんな桂木の心の内を、まるで見透かすようなタイミングで田嶋の手が伸ばされる。ゆっくりと伸びた手が桂木の頬に撫でるように触れると、息が乱れた途切れ途切れの口調で田嶋は言った。

「主任、今度は、俺も……良くして下さい」
「……うんと良くしてやる」

 そう言って桂木はもう一度、今度は味わうように優しく口付けた。


*    *    *    *    *


 いつもはそんなに意識したりしないけど、情事を終えたばかりの部屋は独特の雰囲気がある。余韻に浸る、とかそんな空気ではないけれど、けだるい顔をしてソファにうつ伏せになった田嶋に桂木はチラッと視線を送ってみた。

(キツそー……)

 見られてる事にも気づかない。

 腕とか、首筋とか。第3ボタンまで外されたシャツの隙間から覗く色気は、行為の前よりも後の方がずっと露骨で濃厚だ。

(久しぶりなところへ3回だもんな)

 桂木は苦く笑って、ちょっとは悪いと思ってるけど、と、立ち上がった。その動作に田嶋が顔を持ち上げる。背後にあるテーブルからタバコとライター、そして灰皿を手に取ると、桂木は再びソファの前に腰を下ろした。

 無言のまま出してきた手に1本渡すと田嶋はうつ伏せのまま上半身を少し持ち上げ、すぐさまフィルタを口に銜えた。

「ん」

 一言言って、銀のフリントライターで火を点ける。続けて自分のタバコも火を点けた。何だかものすごく久しぶりにタバコを吸ったって気がする。

 肺まで吸い込んだ煙を吐き出して、桂木はようやく穏やかな1日の終わりを感じたのだった。

「ねえ、あんた」

 田嶋の声に振り返る。

「来週、検査受けに行くんですよね?」
「そのつもりだけど」
「管轄の保健所と検査日、調べときなさいよね。大体予約制になってると思うから」
「うわ。お前、お袋みたいに口うるせー」

 桂木は苦笑しながらこう言った。

「って、お前なんか詳しくね?」
「前、受けた事ありますもん」
「……ぇえ?」

 思わず間の抜けた声が桂木から洩れた。何だって?

「2年ほど前ですかね。さすがにあんた見てたら心配になって。灰皿」
「はあ……、そりゃ、どうも……」

 すみません。終わりの言葉は小さくて聞き取る事が困難だ。桂木は言われるまま灰皿を田嶋の前に差し出して、白くなった灰を皿の上に受け取った。

「まあ、その後は性病とか感染《うつ》された事もないですし、意外と信用してたんですけどね」

 言いながら田嶋は上半身を完全に起こしてソファの上に座りなおした。何気に恐ろしい事を人事みたいに淡々と言いながら、タバコを吸ってるそのさまは、ある種悟りに達した仏様に見えなくもない。そこにふわんと疑問が一つ。

「……他からは? 」
「他? 」

 桂木の質問の意味が分からず、田嶋は んん? と、眉間にしわを寄せた。

「他って何ですか? 」
「や、他の誰かから貰ってくる確率とかないのかなー、とか……」

 ゴニョゴニョ言いながら桂木は、ほとんど吸ってないまま白くなったタバコの先を灰皿に押し当てた。

「ああ、他の相手ね。ないですよ。アンタと以外してませんもん」
「は? 」
「だから俺の感染源ってアンタしかないんですよ」
「……何で」

 呆然と呟いた。

「何でって、必要ないからですよ。俺、週に1回抜けば事足りるぐらいなんで、その1回の質が高けりゃ他は要らんでしょう」
「……質がっ」

 田嶋って身持ちの固い方だとは思ってはいたけれど、まさか0《ゼロ》だとは思わなかった。

(うっわ〜……)

 思わぬところでキュンときた。

「? 何ですか?」

 あからさまに眉を顰め、気持ち悪いと言わんばかりの目つきで田嶋は桂木を見てなんかいる。その冷たい視線に我に返った。よくよく考えてみたら別に好きだと言われたわけじゃない。一人で事足りるから、だ。それは特別、自分でなくてもいい。

 さっき感じたときめきは何処へやら、瞬時に遠くへ行ってしまった。気ぃ、引き締めろ。

「あの、さ」
「はい? 」
「もし、陽性だったらさ……」
「散々やるだけやっといて、えらいネガティブシンキングですね」

 呆れた顔で言いながら、田嶋は吸い終わったタバコの先を灰皿に押し付けた。

「まあ、その……」

 居心地が悪そうに目を泳がせた。田嶋はそんな桂木をしばらく見ていたけれど、やがて一言。

「別にどうもしませんよ。気が向けば寝ますし、死んだら骨ぐらいは拾ってあげます」
「お、お前……」

 そんな事サラリと言うな。桂木は小さな息を一つ吐いた。

「一応サンキュー……っていうんか、お前も陽性だったらさ……」
「ん――――――……」

 そうですね、と田嶋。数秒思いを巡らせて、ニコッと笑ってこう言った。

「その時は会社なんか辞めて、二人でどこか遠くへ行きますか?」

 2回目に見た田嶋の笑顔も感動モノだったけど、もっともっと、それ以上に。

「……わ! ちょっと、アンタ! そんなところで泣かないで下さいよ! 」
「泣いてねーよ……」
 うっかり零れ落ちそうになった涙は今ので一気に引っ込んだ。尤も田嶋の言葉で目頭が熱くなったのは気恥ずかしくて言えない事実だ。そして、改めて済まないという気持ちで胸の中がいっぱいになった。言わないけれど。

 ゆっくりと伸ばした桂木の右手が真横で同じ方向を向いている田嶋の左手をぎゅっと掴んだ。

「迷惑かけて悪かったな……」
「いえ」

 田嶋は大した事してません、といった感じでサラリと返した。本当に敵わない。

 触れてる右手から暖かな温もりが感じられて、桂木はその手に力をグッと入れた。田嶋はされるまま、握り返してはこなかったけれど、拒絶されないだけまだマシだ。それでも、いい。

 桂木はその手をずっと握っていた。


 ずっとずっと握っていた。


*    *    *    *    *


その日は晴天だった。


 従来通り会社の屋上でフェンスに持たれかかって煙草を吸う二人の姿がそこにはあった。

「少しは懲りましたか。今後多少の自粛はして下さいよね、迷惑ですから」

 煙を吐きつつ、田嶋の冷たい言葉と冷たい口調が桂木の耳を直撃する。桂木は大変にバツの悪い顔をしながらも聞こえないフリをした。全くもって耳がイタイ。

 田嶋ときたらそんな桂木の事など眼中にもないようで、澄ました顔で2本目のタバコを取り出した。そんな何の気ない動作にも目を奪われる。桂木は自慢の銀色でスリムなフリントライターに火を点けると田嶋の目の前にそれを無言で差し出した。

「どうも」

 タバコを吸う田嶋のキレイな横顔を見ながら桂木は、しばらく頭が上がらないな、と密かに思った。


――――――検査の結果は陰性だった。


 そうは言ってもまだ、完全100%安心だというレベルでもない。と、いうのも事エイズ検査に関しては、性交渉した日から3ヶ月経たないと正確な結果が出ないのだ。潔白が証明されたのは、3ヶ月前までの桂木に対してのみで、2ヶ月前までの関係に確証はない。

 尤も疑わしい古久保との関係は半年も前の事なのだ。それは完全シロが証明されたのだから、肩の荷も少しは軽くなるというもの。だが、ここまで付き合ってくれた田嶋には身の潔白を充分に証明したい。2ヶ月経てばもう一度、念のための検査を受ける事を桂木は心に決めていた。この3ヶ月間は特に目新しい人間との交遊はなかったから今回ほど緊張のする検査にはならないと思うけど、とんでもない話になったものだと桂木は思う。

 田嶋はそんな桂木の横顔を目だけで捕らえて見つめていたが、しばらくして自嘲気味に苦く笑った。

(本当に、こんな節操なしのどこがいいのやら……)

 結果的にそれはそれで良かったのだけれども、田嶋の方はというと少し、ほんの少しだけ残念に思っていたのだった。もし、桂木が本当に陽性だったとしたら誰も知らない遠くの町で2人っきりで生活するのも悪くないな、と思ったりもしていたのだ。先のない幸せを追求するのも悪くない、と、さすがに口に出したりはしないけど、こういう発想をする田嶋はどこかアブナイ。

 田嶋は桂木から視線を外して真っ直ぐ前を見ると、俯き加減にタバコの煙を吐き出した。

 この時、田嶋はまだ気づいてはいなかったのだ。二人の関係に緩やかな変化が訪れ始めていたという事に。
 

 


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後日談

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