待ち合わせの喫茶店からバーへ行く歩道でバッタリ出会った田嶋を追いかけて、金森とのデートをスッポかしたのはもう2ヶ月以上も前の話になる。その時慌てて全部預けた財布は、その週のうちに現金書留で桂木のマンションに送り返されてきた。スッポかした腹いせだろう。福沢さんが何枚か抜き取られていたけれど、こんなもんで済めば良い方だ。カードに手を着けられていなかっただけでもありがたい。

 結局、先月のノルマは田嶋の鮮やかな営業手腕のおかげでなんとか達成する事ができた。しかし、ノルマとかギリギリとか、そういうのとは別のところであんな思いはもう二度とごめんだ、というのが正直な桂木の感想だ。

 幸いにも桂木自身もなんとか上司としてのペースの程が分かってきて、客先にも以前とさほど変わらない程度に足を運べるようになった。絶対安泰とは言わないけれど、これでノルマがどうのこうのと揉めるリスクはずいぶん低くなったハズだ。

 実はあれから金森とは会っていない。別にもともと改まって付き合おうとか、真剣にそういう始まりをしたわけでもないし、なにより桂木は気づいてしまった。金森をどうしてあんなに気に入っていたのかその理由《わけ》を。

 それを考えると、なんだか田嶋の代わりに抱いてるような気がして、そっちの方が余計に金森には失礼な気がしたのだ。桂木だってそこまで悪人ではない。まあ、あんなに綺麗な顔立ちをした子だ。なにも自分みたいな、どうしようもない男に引っ付いてなくても、望めばもっと真剣に好きになってくれるヤツがいくらでも手に入るだろう。

 そしてあの事件からこっち、桂木の中では田嶋への位置付けが微妙に変わりつつあった。うまくは言えないけれども、それでは一体なんと言えばいいのだろう? 

 尤も当人である桂木本人には、まだなんの自覚の欠片さえもなかったのだけれども。


*    *    *    *    *


「なあ、ゴムつけて」

 いよいよこれから!という時に、肩の下から冷静なものいいをしたのは、長年の付き合いだけはある友人の佐野薫だった。

 佐野は大学の時からの友人で、桂木と同じように恋と男とセックスが大好きな28歳の同級生だ。お互いが就職してからは連絡なんかした例《ためし》がなかったが、贔屓のバーなんかでたまに会う。互いに連れがなければ挨拶がわりに寝てしまう、いわゆるセックスフレンドと言うやつで、兼、気の置けない友人の一人でもあった。もちろんフレンドと言うだけあって、そこに友情の存在は確かにあるが、身体はともかく、精神的な恋慕の気持ちには程遠い。

「は?」

 頭からクエスチョンが沢山出たような、そんな間の抜けた声を桂木は思わず上げた。そんな桂木に下から佐野はあからさまに気分を害したような顔をして自分の意見を要求する。

「は? じゃねぇよ。つけろよ、ゴム」
「え、だって今まで一度も……」
「男のたしなみだろ」

 そう言って佐野は枕の下から手馴れた手つきで一枚のコンドームを取り出すと、無言のまま桂木の目の前に突きつけた。用意、周到だ。

「あー……はいはい、そうね」

 気のない返事を返した割には別段嫌そうな顔をするでもなく、桂木は曖昧な表情でソレを受け取ると、さも使い慣れた鮮やかな手つきですばやく取りつけた。

 佐野とは年に一回でもすれば良い方だが、相手もかなりの遊び人である。出会ったその日にベッドインはお手のもの。それでもそこは心得たもので、佐野は身元の良く分からない男に対するセーファー・セックスには余念がない。しかし長年の付き合いである桂木にはよほどの信用でも置いているのか、今の今まで一回も使用した事がなかったのである。

『病気が恐くてホモがやれるか』、は桂木の座右の銘だが、本当のところ桂木だって病気は恐い。実は大学の時一度クラジミアだったか何だったか……ずいぶんと昔の事なのでよく覚えていないが、うっかりと感染させられてしまった事がある。自業自得といえばそれまでだが、あの時の情けない気持ちは医者に通った者でないとちょっと分からない。

 あれからしばらくは一回一回コンドームの使用を心掛けてはいたが、何年か前から使ったり使わなかったり……正確に言えば、酔った勢いで前後の意識が不覚の時は付けたかどうかは定かでないという話。それと特定者である田嶋であるとか、身持ちの固そうな男だとかはあまり使わないクチだ。だから桂木のコンドーム使用率は平均7割8分と高いのか低いのかよく分からない中途半端な数字が示されていた。

 それでも、日ごろの行いが到底良いとは思えないけれど、運がいいのか悪いのか。それっきり性病に感染した事が一度もないというのは、確率的には奇跡と言える。もしかすると、かなり高度で精密な性病センサーが桂木には装備されているのかもしれない。

 行為後の美味いビールを飲みほすと、横目でチラリと佐野を見て、桂木は何の気なしにこう言った。

「なあ、さっきのアレ、俺もとうとう危険地帯に入れられたって事? 」
「アレ?」
「ほら、ゴム着けろって……」
「ああ、アレ」

 そう言って佐野は手元のビール缶をグッと呷ると桂木の方へ一瞥くれてこう言った。

「こないださあ、古久保が……」
「古久保?」

 見知った名前が上がったので桂木は眉をひそめた。

 古久保は佐野同様大学時代からの友人で、そこそこ整った顔立ちをした男だ。悪くはないが、別段桂木のタイプというわけではなかったし、第一お堅いのは頂けない。佐野のようにこういう関係になった事はなかったけれど、実は半年ほど前2、3回関係を持った記憶がある。なんでかというと、行き付けのバーで偶然出会ったその日、古久保は失恋したてでむちゃくちゃ泣いていたのだった。その顔を見ていたらなんだか慰めてやろうという気持ちに下半身がなったらしい。

「古久保がどうかしたの」
「エイズ……」
「え?」

 ポツリと言った佐野の言葉を聞き間違えかとも思ったが、あまりの突拍子のなさにこれだけしか返言葉が出なかった。

「こないだバーでバッタリあってさ、顔色が妙に悪くてかなり痩せた感じがしたので気になってたんだよ。心配だから聞いてみたらさ、前付き合ってたヤツが、どうもエイズ検査で陽性が出たらしいんだよなぁ。連絡してきたんだとよ。しかも本人は怖くてまだ検査も受けてないっていうからさ、俺もちょっと神経質になってるわけ」
「……へぇー」

 そりゃ神経質にもなるだろう。身内からそんな恐い話が舞い出ては、桂木だって困惑する。が、話がそこまでならまだ、桂木だって余裕でやり過ごせただろう。しかしその先に続く佐野の一言が桂木を一転、暗闇に突き落とす結果となったのだ。

「付き合ってた男ってさ、ちょうど半年ぐらい前の話だってさ」


*    *    *    *    *


あの後、佐野とどういう会話をしたのかは定かでない。と、いうか帰りの道もどこをどう辿ったのかも覚えていない。流石の桂木だって、かなり動揺していたのだ。

 古久保はどちらかというと、桂木や佐野と違って恋愛には堅実で、無謀な事はあまりしない。その辺で男を引っ掛けて簡単に寝るような男でもなかったし、清潔なイメージがあったから2、3回ではあったけれども桂木はコンドームを付けずにセックスしたのだ。

 エイズといえば桂木にだって乏しいなりの知識はある。出始めはホモセクシャルの病気だと言われてた事だとか、今や1日に何人感染だとか……そらもう調べだしたらキリがないだろうけど、とりあえず感染したら相当ヤバイという事ぐらいは分かってる。今は身体に合えば、発症を遅らせる薬だって開発されているらしいけど、確実だという保障はどこにもない。確実な特効薬が世に出廻らないうちは、不治の病に違いないのだ。

 しかし、このまま何事もなかったように閉じ込めてしまうには、桂木には心当たりがありすぎた。もし古久保が感染していなかったとしても、もしかしたら自分の関わってきた人物がウィルスを持っていたかもしれないのだ。酒の勢いで関係をもって、朝、見知らぬ他人がベッドにいた事も1度や2度ではない。具体的な人物が線上に上がったとたんこんな病気が人事でなくなるとは……。

 桂木だって人の子だ。病気は怖いし、よりにもよって今現在特効薬のない死に至る病であれば尚更だ。それならば男漁りもスッパリ止めればよいものを、それが出来ない、だらしがなくて情けない、というのがまた桂木という男なのである。

 マンションの一番奥に位置する20畳のリビングにあるソファに腰を下ろして、帰ったなり着替えもしないまま、桂木は随分な時間を費やした。大丈夫だろうか、いや、まさか……、そういやアイツどうしてたっけ、等と諸々。もちろん、こんなところで考えたって答えなんか出るはずない。

(……田嶋)

 ふと田嶋の顔が脳裏に浮かんだ。

『アンタ、いつか病気になりますよ』

 田嶋が以前から言っている言葉だ。いつもの桂木なら耳も貸さない言葉だけれども、今の桂木になら充分効果の上がった言葉かもしれない。田嶋の言ってる事は大体の確率で正論だからだ。ぼやっと、いつもどおりのすました顔した田嶋が脳内でそのイメージを確立させかけた時、

「そうだ、田嶋だ!」

 桂木は弾かれたように顔を上げた。

 もし、万が一自分が感染していたとしたら、月何回か関係を持っている田嶋も感染している可能性は極めて高い。慌てて田嶋に連絡をしようと携帯に手を掛けた。が、気が逸っているのだろう。ボタンが、うまく押せない。

 ふいに携帯を取り落として、その音に桂木は思わずハッと我に返った。

(言えるか、バカ……)

 まさか言えない、こんな事。

 桂木は大きく息を吐いて、ソファの上に腰を下ろした。

 まだ陽性かどうか、決まったわけでもない。言うのは検査をしてからでも遅くはないだろう、と、桂木はそう思った。感染していなかったら田嶋に余計な心配をかける事になるし、それに何を言われるかわかったものではない。

 桂木は尤もらしい事並べてみたが、それは単に田嶋に知られるのが怖いだけだという事なのは容易に気づいていた。だってどういう反応が返ってくるかが一番、恐い。なじられるか、軽蔑されるか、それとも……。

 とりあえずは検査を受けてからだ、と桂木はそう思った。



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