気になる。


「そういえばこないだ大学でおもしろいヤツがいてさー」


 気になる。


「そんでこの男がさ、もうめちゃくちゃなの! ケイちゃん、どう思う?」


 気になる。


「ケイちゃん」


 気になる、さっき出会った田嶋の事が。

「……ちゃん、ケイちゃん! 聞いてる? ケイちゃんっ! 」

 金森の声にハッとした。

「えっ! あ、ああ……、何だっけ……」
「いいよ、もうっ! 」

 金森はテーブルに置いてあった水割りに不服そうに口を付けた。急に悪くなった桂木の反応に腹が立ったのだ。そりゃそうだろう。呼びつけた張本人の心ここにあらずでは、わざわざ電話一本で出向いた自分が馬鹿らしい。

 そんな金森の心情を知ってか知らずか、肝心の桂木はというと一杯引っ掛けにきた行きつけのバーの席に座ってからも、さっきの田嶋の事が気になって仕方がなかった。頭の中はさっきの光景でいっぱいだったのだ。

『ビジネスでセックスする趣味ないですよ』

 趣味はなくてもその気はあるのか。

(冗談じゃなかったのかよ……)

 しかもあの時、確かに目が合ったのに田嶋は桂木の送った『どういうつもりだ』というアイコンタクトを無視したのだ。桂木は面白くないというふうに、組んだ長い足を落ち着きなくテーブルの下で何度も揺すった。面白くない事がもう一つ。

 桂木は目を細めた。

(あいつ、笑っていやがった……)

 あんな顔、関係を持って3年にもなろうというのに桂木は一度だって見た事がない。それを、あんな女の前では惜しみなく見せたりするのか。

 考えれば考えるほどイライラしてきて、自分がかなり混乱している事に気がついた。一体何でこんなに田嶋の事が気になるのか……。本当はあの場ですぐにでも、どういうつもりなのかと問い詰めたかったのだ。いや、それは充分今でもなのだが。

 ふと思い出したように金森の方に視線を移すと相当、怒りの度合いを超えてしまったようで、無表情気味になっていた。明らかに、静かな沈黙で怒っている。これはマズイと思って慌てて言葉を発しようとすると、桂木は思わず小さな声をあげた。

「あ……」

 その時、桂木は思い出した。なんだ、そうか。そうだったんだ……。

 ガタンと席を立つと桂木は財布をスーツの内ポケットから取り出し、財布ごと金森に渡した。

「すまん、ちょっと急用!今度埋め合わせするから勘弁な!」

 と、両手を合わせて拝み倒すような手振りで一方的に言うだけ言うと、金森の返事を待たずに店を飛び出した。

「ちょ……っ、ケイちゃん!」

 相手の名を叫んだのもつかの間。桂木はすごい早さで店を出て行ってしまった。後に残された金森は、あまりの展開の早さに、一体何があったのかしばらく理解できなかった程だ。金森はしばらく呆然としていたが、ふと我に返って一言怒声を上げた。

「なんなんだよ、もう!」

 そう、桂木は分かってしまったのだ。金森と最初に会った時にピンときた本当の理由を。金森のその顔が、桂木の良く知っている誰かに似ていたからだという事を。

 桂木は歩みを速めた。

 似ていたのは、誰でもない。細くて綺麗な田嶋の顔、だったのだ。



*    *    *    *    *


 勢いよく店を飛び出して来たものの、どこをどう探せばいいのか桂木には皆目見当がつかなかった。当然と言えば当然だが、あの時間帯から考えても田嶋も桂木と同じようにどこかに飲みに行ったのには間違いないだろう。さてと一体どうしたものか。

 桂木は左の袖をめくって腕時計で時間を確認すると視線を上げた。10時を少し回ったところで、きっとまだここいらのバーなりパブなりにいるとは考えられる。かといってここいらの酒場を一軒一軒しらみつぶしに探すには流石に店の数が多すぎだ。

 桂木はなんの気なしに、スーツのポケットから携帯を取り出した。そうだ、携帯だ!

 ちょうど小さな橋の上で歩みを止めた桂木は、通行する人の邪魔にならないように橋の手すりの方へ寄ると、急いで田嶋の携帯番号を探した。毎日顔を合わしているもんだから、仕事以外でのメールのやり取りなんか滅多にしない。アドレス帳のどこだっけ……と、そこまで行動を起こしたところで、ダイヤルを押していた桂木の指の動きが突然止まった。

(何やってんだよ、俺……)

 パタッと携帯のフタを閉じると、右のズボンのポケットにどうでもいいような荒っぽさで携帯を突っ込んだ。勢いこんで上がっていた両肩が小さなため息とともに力なく下がる。

(アイツだって小さな子供じゃあるまいし、俺が詮索するような理由は何一つないじゃんか)

 そう、別に恋人でもなんでもないし、自分だって散々勝手にやっている。詮索の一つもされた事がないのだ。だから田嶋が他の誰かと寝たところで、どうこう言える立場には桂木はいない。それを子供みたいな独占欲でイヤだと思うのは自分勝手もいいとこだ。

 桂木はスーツの内ポケットから電車の定期入れを取り出すと、それをじっと見つめた。財布はさっき、気風よく金森の前に置いてきてしまったので手元にはこれしかない。最寄の地下鉄から帰れると言えば帰れる場所にいたのだけれども、このまま部屋に帰って眠る気には毛頭なれなかった。

「あー、本当にもう……」

 格好悪、と、橋の欄干《らんかん》の上でしばらく夜風に吹かれた桂木は、顔を上げると花丸商事で一、ニを争う営業マンらしく、颯爽と背筋を伸ばして歩き出した。


*    *    *    *    *


 ……気がつくと何でか会社の目の前に立っていた。まだ残業で残っている連中がいるのか、窓には2、3の電気の灯りがこうこうと点いていて、何だかひどく桂木を安心させる。ため息にもよく似た小さな呼吸を一息つくと、桂木は閉ざされた正面玄関とは反対側にある、裏口へと足を進めた。夜も9時をすぎると正面玄関には鍵がかけられてしまうのだ。だからこんな夜遅くまで残業なんかしている輩はその時間を過ぎると裏口から出入りするはめになる。

 裏口の玄関口には社で契約しているガードマンが常駐していて、もう顔馴染みになっている桂木は社員証をわざわざ提示しなくても顔パスなんかで入れるのだった。

 裏口から社内に入るとすっかり見慣れたロビーに出る。流石に夜も11時を過ぎると人の気配も全くなくて、薄暗い廊下には昼間とは正反対の独特の雰囲気が漂っていた。営業部のドアをくぐるとやっぱりね、というか当たり前だ。もう他に誰も残ってはいなかった。灯りの消えた部屋に、常備灯だけが煌々《こうこう》と灯もっている。それが余計に誰もいない事務所を寂しい雰囲気にさせていた。

「は……」

 小さなため息をつくと桂木は自分の座席にドカッと腰を下ろしてそのまま椅子の背もたれに身体を預けた。俯き加減に右手で額をゴシゴシ擦る。

(一体何やってんだ、俺は……)

 折角の恋人との逢瀬をおじゃんにして、田嶋を追いかけようとして、諦めて……本当に格好悪いったらありゃしない。しかも家にも帰らずこんな時間に会社にまで来て一体どうしようと言うのか。

 それでも桂木は、昼間した田嶋とのやり取りが頭を離れなかったのある。

『あの人、若く見えるし美人だし……悪かないですよ』

「ああ、くそ……」

 桂木は思わず言葉を洩らした。なんで自分が、全くつれない男の事なんかでこんなに頭を悩まさなければならないのか。

(俺、もしかしてアイツの事が好きなのか……)

 正直、良く分からなかった。

 おそらく桂木は花丸一恋多き男と言える男である。しかし日常になった恋のかけひきも、勢いだけで出来るその場限りのセックスもずいぶんしてきたが、自分にまるきり関心が無いようなそんな男、相手になんかした事ない。自分の方から一方的に誰かを想い続けるようなそんな経験、桂木にはないのだ。

 仮に田嶋の事を好きだとしても、だからどうしたというのか。どうにかなるわけあるはずない。自身が今までしてきた恋愛がそうであるように、自分を想ってもくれないだろう相手を好きでい続けるなんて到底できない芸当だ。そんな不毛な恋愛に首を突っ込むつもりには毛頭なれない。桂木と付き合いたい連中は、そのての場所にいけば山ほどいるのだ。わざわざそんな苦労の多そうな恋を選ぶメリットがどこにあるのか。更に言えば田嶋との関係は今のままで充分ではないけれど、そこそこに満足している。

 それじゃあ俺は一体何がしたかった? 

 人の気配がして、ドアがキッと開く音に桂木はゆっくりと視線を上げた。

「……主任?」

 開いたドアの前に驚いた表情を覗かせたのは田嶋だ。なんで桂木がこんな時間にこんなところに? 

 だが、田嶋がそういう顔をしたのはほんの一瞬で、常備灯しか点いていない薄暗い部屋の中ではいかな桂木といえどもその表情に気づく事は出来なかった。

 壁にかけられた時計はもう深夜の0時を過ぎていて、ちょっとその辺で一杯付き合って、なんていえるような時間ではない。契約を目の前に、誘った女と誘われた男がいるのだ。何もなかったはずがなかった。

「電気ぐらい点けなさいよ。びっくりするじゃないですか」

 そういう田嶋も、入り口にある照明スイッチを押さずに部屋に入る。ほとんど光源のない薄暗い部屋のまま、田嶋がいつもの無表情な顔立ちで目の前に立つと、桂木はゆっくりと目を細めた。

「…………寝たのか? 」
「は? 」
「寝たのかって聞いてる」

 低い声でそう言って桂木が椅子から立ち上がると、一気に目線が同じ高さになって真正面に向かい合った。

「そんなのどうでもいいじゃないですか。明日、朝イチで直接安田さんの所へ行って商談してきます。だからカタログを取りに……」

 田嶋の言葉が最後まで言い終わらないうちに桂木は田嶋の両肩を掴むと、噛みつくようにキスを求めた。勢いで田嶋の背中が後ろに設置された本棚に勢いよくぶつかって、派手な音を立てる。

「……っ!」

 背中に少し痛みが走ったが、そんな事桂木はおかまいなしだ。遠慮なく口内を貪る、目を閉じた桂木のその表情を、行為とは裏腹に田嶋は冷静な眼差しで見つめた。身体の関係しかないのは分かっている。こんなの愛の行為でも何でもない。それでも、目の前で自分の好きな男が情熱的に口付けを求めてくるのだ。心にこれほどの快楽があるだろうか。

 田嶋はゆっくり目を閉じると愛しい男が求めるままに口を開いた。背中に廻された田嶋の指が桂木のスーツにいくつもの皺を作る。

 どれぐらいそうしていただろう。口の端から唾液が溢れるほど激しいキスをしたけれども、時間的にはほんの30秒程度だったかもしれない。

 やがて互いの唇がゆっくりと離れると、かなりの至近距離で桂木が田嶋の顔をひどく怒ったような顔で睨んでいた。

「なんで寝た」

 対する田嶋の眼差しもかなり冷たいもので、その視線を逸らそうともしない。二人の間には、さっきまであんなに情熱的なキスを交わしたとは思えない空気がそこに広がっていた。

「アンタに、関係ないでしょう」
「関係あるだろ! そんな営業の仕方、教えた覚えねぇよっ! 」

 入社して間の無いころの田嶋に営業のノウハウを教えたのは桂木だ。プライベートはともかく、ビジネスでそんな仕事の取り方をした事なんて一度も無い。

「一体どういうつもりだ? 」
「アンタこそどういうつもりなんですか。こんなところでこんな事して」

 田嶋は素っ気無くそう言うと、掴まれていた桂木の腕を払った。田嶋のその態度がますます桂木の神経を逆なでする。と、同時に桂木の中の何かがプッツリと切れた。

「石鹸の匂いさせた男に言われたかねぇっつの! 」

 安田の社長とヨロシクやってきたんだろっ、と桂木。勢いよく捲くし立てた桂木のセリフに、田嶋の顔が一瞬呆れて、見る間に不愉快そうな表情を隠さなくなった。

「……なんで俺からそんな匂いがするんですか」
「は……?」

 冷め切った田嶋の言葉に、一気に上がったテンションも下降する。

「そんなもん、してるわけないじゃないですか」

 田嶋は吐き捨てるようにそういうと、桂木を一瞥した。

「してないですもん」
「え……」
「だから何にもしてないんですってば」
「しかしよ、だってお前、こんな時間に……」
「相手は女性でお得意さんですよ。安田さんがそういう人ではないのは知ってますけど、ムゲに断ってこの先の取引きに溝を作るわけにもいかないでしょう」
「……そりゃ、そうだ」

 気の抜けた返事が返った。

「今の今まで、バーのハシゴですよ。自腹でね」
「…………」
「でも甲斐あって契約、取れそうです」

 淡々と言う田嶋を桂木はただただ黙って唖然と見つめた。そこへきて田嶋ときたらいつもの素っ気ない素振りのまま視線も合わさない。かと思うといきなり桂木の方へチラリと視線を寄越してこう言った。

「アンタこそ、どっかのホテルでさっきの子とよろしくやってきたんでしょう? この大変な時に……呆れてものが言えませんよ」
「……やってねぇ」
「え?」
「だから、やってねぇ」
「あれ、どうして……」

 問い掛けた田嶋の言葉を桂木は遮るように声を荒げた。

「あーっ、くそっ! 心配して損したっ!」
「は?」
「あれから気になって気になってだなあ、セックスなんてする気になんてなれるかよ! ああ、本当バカらしいよ! 」

 桂木は非難がましい目つきで田嶋を睨んだ。こんなつれない男、無視していれば今ごろ金森と楽しい事の真っ最中だったのに……!それなのに、対する田嶋ときたら「知りませんよ」と、いつもの冷めた冷静な口調で涼しい顔なんかしてやがる。本当にもう、ムシャクシャするったらありゃしない!

「責任、取れよ……! 」

 言いかけた桂木の言葉が急に勢いを失って、そのまま田嶋の表情に釘付けになった。何故って……満面といかないまでも、柔らかな微笑をたたえた田嶋が桂木を見ていたからだ。桂木は田嶋のその表情に思わず見とれた。

 田嶋のこんな顔、初めて見る。それは明らかに桂木に向けられた初めての笑顔だったのだ。

 だがそれはほんの一瞬の事で、視線に気づいた田嶋からスッとその表情はいとも簡単に消されてしまった。ああ、勿体無い……!

 突然の意外な出来事で唖然としたままこちらを見ている桂木に田嶋はいつもの淡々とした口調で素っ気無く言った。

「なに人の顔、ジロジロ見てるんですか」
「いや、その……」

 ちょっとした感動だ。この喜びを、一体なんと言って現せば良いのか分からない。それでも桂木はどうにかしてこの気持ちを伝えたいと思った。

「!」

 桂木は田嶋の手を掴むと、真っ直ぐに田嶋のその瞳を見つめた。多少の困惑を示した田嶋の瞳が一瞬揺れる。

「……あの」
「黙れ」

 言われるまま田嶋は無言でその視線を受け取って、桂木はそのままゆっくりと口付けた。それは、さっきした荒々しい接吻とは全く違う、柔らかで、それでいて繊細な口付けだったのだ。

 惜しむように唇を離すとやっぱり田嶋がいつもの無表情な顔立ちでこっちを見ていて、非難めいた瞳が桂木を刺した。

「……責任って、今日これから代わりとかまっぴらですよ」
「いや、代わりってんじゃなくって……」

 桂木は苦笑した。田嶋は田嶋だ。

 桂木は田嶋の肩をポンと叩くと、机の上のカタログをその手に取って差し出した。

「ありがたく、面子を保たせてもらうとしましょうか。……取ってこいよ」

そう言って桂木はいつもの勝気な笑みを浮かべたのだった。



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