「なんだよケイちゃん、荒れてんなあ」

 よくある喫茶の店内で率直にそう言ったのは、ジーンズにTシャツというラフな格好の綺麗な顔立ちをした青年だった。スーツ姿の桂木と並ぶとえらくアンバランスな感じで、どこから見ても学生という雰囲気が漂っている。年の頃は19かハタチか。少し色の抜けた茶色い髪が今時の、といった風な印象を強くする。しかし28にもなる一端の社会人がどこを一体どうすれば大学生なんかと知り合えるのか。改めて桂木の行動範囲の広さというか守備範囲の広さというか……、が、垣間見れる。

「あっ、悪い悪い。ちょっと仕事の事が気になってさ」
「社会ジンは大変なんだねー」

 ニコッと白い歯を見せて青年は言った。

「お仕事も大変だろうけど、俺といる時ぐらいは忘れてよ? 」
「サービス、してくれる? 」

 桂木は好感度の高い笑顔を浮かべてそう言った。

 仕事が大変でいっぱい一杯だというのに、やる事はちゃっかり楽しくやっている。これこそが桂木の原動力でもあり処世術でもあるのだ。尤も今、桂木を荒らしている最大の原因は会社のノルマがどうこうというのではなく、昼間の屋上での田嶋の言動だったりするのだが、今思い出してもムッとする。なんでこんなに腹が立つのか。

「ああ、またそんな難しい顔して……」

 金森大樹はちょうど一月前、行き付けのパブで知り合った桂木の新しい恋人で、今桂木が一番にひいきしている相手だ。そうはいっても身体の関係を持ったのはごく最近で、結構手順を踏ませてくれた。この系の顔立ちにしてはとにかく固くて身持ちが良い。声を掛けたのは桂木の方で、普段ならこんな遊び慣れていない年の子なんかは相手にしない。

 しかし本人にもよく分からないのだがひどく懐かしい感じがして、心のどこかがピンときたのだ。本当はもっと遊び慣れている方がタイプなのだけれど、顔といい身体といい、どこをどう見ても桂木の好みである事には変わりない。

 目の前でコーヒーに口をつけつつ、鼻歌混じりにメニューを物色している金森を見て、ふと桂木は思った。

(うーん……、やっぱり誰かと似てるんだよなあ)

 初めて会ったときから変な親近感が沸いていた。なんだか懐かしい気がするこの感じ、一体誰だったか……。桂木は金森にピントを合わせたまま、ゆっくりと目を細めた。こういう事は思い出せないと気持ちが悪い。が、皆目ちっとも見当が付かない。

「ねえ、ケイちゃん。お腹すいちゃった。なんか頼んでもいい? 」
「ん? そんじゃ店代える? 喫茶店じゃあんまり腹に溜まるものないだろ」
「やったー! 」

 金森は甘え上手で良く笑う。桂木はこんな人懐っこい相手も嫌いではなかったし、どちらかというと大変に好きな部類だ。何を欲しているか解かりやすい分、付き合いやすいし、こういうタイプは大抵あとくされがない。

 そんな事を思いながらも桂木の頭の中ではもう既に、夕食後の計画が立てられてなんかいたりしていた。とりあえず腹ごなしをして、一杯引っ掛けてその後は……お楽しみだ。桂木はスタッフに注文する金森の顔を見ながら満足そうに微笑んだ。

 しかし、この店を出た直後に思いがけない事態に遭遇する事など、桂木はまだ知らなかったのだ。


*    *    *    *    *


「ごちそうさま、おいしかったわ」

 そう言った安田が上品に口元をナプキンで拭うと、その様子に田嶋は幾分ホッとしたように笑みを洩らした。

「それは、良かったです」
「それで今度はどこに連れて行ってくださるのかしら? 」
「お酒はお好きですか? 」
「ええ、もちろんよ」
「なら、バーにでも行きますか。良い店を知ってるんです」

 田嶋はそう言って席を立つと、まるでエスコートでもするかのように安田の前に手を差し出した。少し意外そうな顔をした安田はクスッと笑うと田嶋の手を取った。

「田嶋くん、本当にサラリーマン?」
「ええ、そうですよ」
「ホストでもないのにこんなエスコート出来る人、私知らないわ」
「恐れ入ります」

 田嶋は恐縮そうな顔して、軽く頭を下げた。

「セックス無しでも、こういう若い気分にさせてくれる接待は悪くないわねぇ」

 安田が横に立つと、田嶋は腕をどうぞ、と言うように肘を差し出した。いいわね、と言って安田が腕を絡める。時間は8時半とまだ早い。ゆっくりと人の間を縫いながら歩けば、バーに着く頃には程よい空き具合でいいだろう、と田嶋は思った。

「ねえ、田嶋くん。断られたのは別に良かったんだけれど」
「はい」
「自腹を切ってまで代わりに食事に誘ってくれるって、どういう風の吹き回し? そんな事しなくても別に今までと同じようにひいきにはさせてもらうわよ? 」

 さすがはこの若さで、会社を成功させただけの事はある。その懐の広さに田嶋は思わず笑ってしまった。

「存じております」
「じゃあどうして? 」
「それはですね、実は内心かなり心が動いたんですが……」
「あらあら、やっぱりこんなオバサンじゃダメだったかしら? 」
「いえ、安田さまは若くて充分魅力的ですよ。そんな事ではなくてですね」

 そこまで言うと田嶋は言葉を探すようにゆっくりと目を細めた。

「……好きな人がいるんです」

 その言葉に驚いたような顔をしたのは安田だった。まさかこんなストレートな直球が返ってくるとは思わなかったのだ。

 安田はしばらく田嶋に見入っていたが、曖昧な微笑を浮かべたその顔を見ていると、なんだという気分になってきた。

「なによ、恋人いるんじゃない」
「いませんよ」
「あら……、じゃあ片思い? 意外ねぇ」
「僕程度の男では、なかなか満足できないようで」

 田嶋は自嘲気味に目を伏せた。

「田嶋くんみたいな良い男を袖にするなんて、なかなか不届きな女もいたものね」

『女』という下りで、思わず田嶋は苦笑した。

「実は今日のこのお話、その人と天秤にかけました。今晩はそのお詫びです」
「天秤? 」
「大した事ではないんですがその人、ノルマが達成できるかできないかで微妙な立場にいたもので。本来ならすぐにお断りするところを気を持たせるような事をしてしまって本当に申し訳、ありませんでした」
「あら、あらあらあらあら……結局どうなっちゃったの? 」
「言ったら叱られまして、冗談だと言ったら、叩かれました」

 安田は田嶋のその言葉に瞬間目を丸くしたが、言ってる間もなくケタケタと笑い始めた。

「言っちゃダメよ、そういう事は! 」
「ダメですか? でもかなり迷ったんですよ」
「で、相談したの? そっちの方がよっぽどプライド傷つくでしょう。それとも、そう言って欲しくて試したのかしら? 」

 その言葉に田嶋の目が見開いた。俺は、あの人にそう言って欲しかったのか? 

 思わぬところで、打たれた左頬が酷く痛んだ気持ちになった。

「いえ……良く分かりません。自分を好きになってくれるとか思った事ないですし……どうなんでしょう?」
「変わった子ねぇ。好きにもなってくれない相手に片思いするなんて、不毛もいいとこだわ」
「もの好きなんです」
「好きな人から想われたいとは思わないの? 」
「特には……」
「ま、いいわ。セックスするよりおもしろい話も聞かせてもらった事だし……」

 安田はそう言うと、顔を下に向けた。

「いいわよ。契約の件、口利いてあげる。明日カタログ持ってウチへいらっしゃい」
「!本当ですか?安田さま……」
「私に二言はないわ。でもこの後も気を抜かないでよね、とことん付き合ってもらうから」
「一晩中でも」

 そう言って田嶋は控えめな笑顔を見せた。

「それじゃ、行きましょう」
「はい」

 田嶋は背筋を伸ばして返事をすると、改まった気持ちになって、再び安田と歩道を歩き始めた。


*    *    *    *    *


 軽く夕食を平らげて勘定を済ませると、桂木と金森は待ち合わせた店を出た。時間はちょうど8時半を過ぎたところで、ムードを出して一杯引っ掛けに行くにはタイムリーな時間だ。

「飲みに行こうか」

 尤もここはまだ人が沢山通る公道なのだから、むやみやたらにベタつくようなマネはしない。声高に少数派の人権が上げられて久しいが、この国は桂木達のようなゲイに対する理解も認識もまだまだ低すぎるのだ。

 そんな彼らが堂々とその辺の恋人達のように、腕を組んで歩けるようになるには優に後《あと》半世紀ぐらいは軽くかかるんじゃないかと思う。尤も桂木の隣はいつも不特定だから、『その辺の恋人達』というのは多少、勝手が違うかもしれないが。

 適度な距離を保ちながら隣を歩く金森が言った。

「ねぇ、ケイちゃん。今日は何処へ連れってってくれるのさ」
「そうだなぁ。どんなところがいい? リクエストがあればそういう店に連れて行くけど? 」
「うーんとね……」

 そこまで聞いて、桂木の視点がある人物を捕らえてそのままその場で歩みを止めた。

「……田嶋……」
「え? 」

 小さく呟かれたその言葉に金森が思わず十数センチ程度、上にある桂木の顔を見上げる。

「何? ケイちゃん。良く聞こえなかったんだけど……」

 何にも返事が返ってこないので、金森は桂木が釘付けになったところの歩道の先を目で追った。何だ、知り合い? 

 そこには、桂木よりも若干若そうに見えるハンサムな黒髪の男と、ちょっと年増だけど、結構美人な女が腕を組んでこっちに歩いて来る姿があったのだ。金森はもう一度桂木に視線を移した。突き刺さるような険しい目つきでまだ見ている。

「ケイちゃん、知り合い? 会社の人かなんか? 俺、離れてようか? 」
「あっ、いや、いい……」

 そうは言っても桂木の目はまだ前の少し年の離れたカップルを正面に捕らえたままで、正直何がなんだか分からない。こちらの視線に気づいたのか、ふと、男の顔がこっちを向いた。何だよ、良い男じゃないか。金森の頭に桂木と知り合ったパブのマスターの話が脳裏を掠めた。

『悪いけどケイちゃんはやめた方がいいって! 遊びで付き合うつもりならいいけど本気だったら後が辛いよ?』

 桂木はちょっと興味の引くような男を見つけたらすぐ寝ちゃうような男だから、束縛するような生真面目な子ではやっていけないよ、と言われたのだった。そして、それを悪い事だとも思っていない、根っからの遊び人だ。自分以外の男と寝る事があるのも知っている。それでも、いつか本気にさせてみせる、と、若い金森には自分自身に対して結構な自信があったのだ。しかし桂木のこの様子……。

「ケイちゃん!」

 金森は桂木の名を呼ぶと同時にハッとした。その男がもう、すぐそこまで来ていたのだ。

 至近距離まで近づくと、女と何やらにこやかに話していた男の顔は急に無表情になって、桂木の目の前で歩みを止めた。

「あら、桂木くんじゃない、久しぶり!」

 先に口を開いたのは安田だった。その隣で田嶋がどうも、と浅く会釈する。

 ところが、だ。いざ言葉を掛けられると躊躇するどころか、桂木はニコッと余裕の笑顔を装って、こう返したのだった。

「こんばんわ、安田さま。ご無沙汰しております。ウチの若いもんとデートですか」
「ええ、ちょっと借りてるわよ。ね」
「はい」

 仕える秘書のように田嶋が言った。

「桂木くんこそ可愛い子を連れてるじゃないの。友達?」
「親戚の子なんです。近くまで来たので一緒に食事を……」

 言って桂木がこっちを見たので、どうも、と、金森は慌てて頭を下げた。

「主任、それじゃ失礼しますよ。行きましょうか」

 デートなんです、と田嶋は軽く挨拶すると、安田に合わせたゆっくりとした速度で来た道の向こうへ足を進めた。その後ろ姿を見送って、桂木は金森の方を振り返る。

「ごめん、ちょっと会社のヤツとそのお得意さんだったから、ちょっと焦った」
「あ、なんだ。そうだったの」

 金森は内心ホッと安堵のため息を洩らした。


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