「大した額じゃないですか。内心、焦ったでしょう」
「………分かった? ま、そりゃそうなんだよなあ」

 昼食に入った喫茶店で、ランチを挟んで向かい合った田嶋が問い掛けると、飄々と、まるで人事のような返事が桂木の口から返ってきた。実際少しは焦っているんだろうけど……、と田嶋は目を少し細めて更に続ける。

「高級ダンスがパカスカ売れた景気のいい時代ならともかく、デフレで物価の下がった今のご時世、かなりの数をさばかなきゃ埋まらないでしょうに」

 痛いところをついてくる。さっきは三好や西郷達の前で懐の大きいところを見せたけれども、内心ちょっと焦ったのがホントのところだ。うまく隠したつもりだったが、そんな些細な動揺を見逃さなかった田嶋の洞察力には感心する。

 桂木はこういった余裕のあるパフォーマンスで、妙な安心感を与える事が出来る極めて営業向きの人間だ。客だって余裕のなさそうな人間と、自信満々な人間が同じ物を売っていれば、まず後者の方で買い物をしたがるだろう。それは社内に与える影響力にも同じように作用する。後ろ立てがしっかりしていると部下達だって安心してやる気になれるものなのだ。だがしかし。

「ううん、せめてあと10日あればなぁ……って今月は無理か。どうしたもんかな」

 桂木は余裕のありそうな笑顔を見せたがちっともいい考えが浮かばない。右手前に置いてあった冷水の入ったコップを掴むと、グイッと一気に飲み干した。

 みるみる無くなっていく水を田嶋は無表情な顔立ちで見つめる。コトンと静かにコップを置くと、一息ついて桂木はこう言った。

「ま、ノルマ達成が出来なきゃ、その時はその時さ。いきなりクビは飛ばんだろうよ」
「………」

 田嶋は小さく息を吐くと、桂木を真正面に捕らえて目を細めた。

 それは確かにそうなんだけれど、そういう事だけではない。主任になったばかりの桂木の班がノルマ不達成なんて事になったらマズイのだ。そりゃあ、増えた業務の分だけ桂木の営業マンとしての動きが鈍くなるのは分かるけど、それはそれで指導者としての資質が問われる事になる。そんな初歩的な事桂木だって分かっているはずだし、それ以上に入社してからこっち、桂木は個人的なノルマは全部確実にこなしてきたのだ。初めてのノルマ不達成なんてそんな屈辱、受け入れられるのか? 

 桂木はいついかなる時にも余裕のある表情を崩さない。でもその奥底に一営業マンとしてのプライドの高さがあるのを田嶋は知っているのだ。契約が取れなかったのならともかく、こんなドタキャンされるような形での不達成なんて、桂木の自尊心が許さない。

 しかし後5日で、どうやって150万もの契約を交わせというのか。もともと売上の苦しい月なのだったから、桂木や田嶋がいくら奔走しても5日では50万、いくかいかないかだろう。新規で飛び入り営業をしてもいいけど、初めての営業先でそんな巨額の契約を交わしてもらえるとは到底思えない。

 桂木の顔を何か言いたげにじっと見つめていた田嶋が口を開いた。

「ま、俺ももうちょっと頑張ってはみますけどね」

 それだけ言うとテーブルに両手をかけて椅子から立ち上がった。


*    *    *    *    *


「……安田様のところは、今月はもう御注文ないですよねぇ」

 ポツリと呟いた田嶋に驚いた表情を浮かべたのは、『オフィス・デザイン』の女社長、安田佳苗だった。

『オフィス・デザイン』はその名のとおり仕事場のデザインを手がける会社で、客先が要望すれば建築からそこに搬入するオフィス家具まで段取りしたりもしている。そのオフィス家具の発注の一部を受けているのが花丸商事なのだ。一般的な家具と違ってオフィス家具は企業相手の商売なのだから、数が一気にさばけるこの会社は田嶋にとってはかなり大手なお得意様だった。

 女性に歳を聞くのは失礼なので聞いた事はないが、45歳前後だろう。かなり若くは見えるけど、インテリア事業のオーナー社長を務めるのに30代ではこの会社にはあまりに実績がありすぎる。

 田嶋の呟いた一言に、興味津々と言わんばかりに安田が身をのりだして聞いてきた。

「あらあら、珍しいわね。いつも注文を聞いていくだけの田嶋くんが一体どうしたのよ」

 と、言っても別に田嶋は毎回御用聞きだけして帰っていくわけではない。別にうるさくプッシュするだけが営業ではないのだ。特にこんなインアテリアを扱うような仕事には女性が多いし、なにより個人の小規模経営が目立つ。大きな組織に属さない女性は保守的な事業を営むし、そんな女性相手の営業は恋愛前のかけひきと同じで、カツカツしていない程度の方が安心して相手が懐を緩めたりするのだ。尤もそれだけではいけない。田嶋はどうしてどうして、安田が新しい仕事を引き受けたと聞くと、その規模や就業人数から、客先のニーズにあったリーズナブルな価格の見積り書を提案してきて実に鮮やかに契約を成立させているのだ。

 だからいつもそういう営業をしていない田嶋が珍しく、しかも納品の際にこういう事を言ってきたのに驚いたのである。やり手の事業家だけあって安田の洞察力はなかなかのものだ。これにはさすがの田嶋もちょっとドキリとした。

「ノルマでも上がらないの?」
「まあ……そんなところです」

 田嶋はニコッと営業用のスマイルを浮かべるとそつなく答えた。その笑顔からは困ってしょうがないんだというような素振りは微塵も感じられない。田嶋だって、プロの営業マンなのだ。

「でも、契約欲しいんでしょう?」
「そりゃあ、欲しいに決まってます」
「あら。それはきっぱり言いきったわね」
「結構切実なもんで」

 ふうん、とした様子で安田は田嶋の顔から足の先まで、まるで品定めでもするかのようにチラッと視線を走らせた。

「ねぇ、田嶋くん。恋人とかいるの?」
「恋人?いませんよ」

 そう、と安田はそれだけ言うと、田嶋の方へ身体を近づけた。

「……安田様?」
「1回限りでいいわ。私と寝てくれたら、契約先を紹介してあげる……200万、どう?」
「!」

 値段を聞いて田嶋の目は見開いた。200万……、それだけあればノルマは充分、達成できる。田嶋の喉がゴクリと鳴った。


*    *    *    *    *


 屋上からの景色をぼんやりと眺めながら、田嶋はフロンティアの箱をスーツの内ポケットから取り出した。

「200万、か」

 小さなため息をついて田嶋はフィルターを口に咥えた。さすがに即答こそはしなかったが、かなり心が動いた金額なのは確かだ。残された期限はよっぽど少なくて、受けるつもりなら今日の昼過ぎには返事をしないといけない。田嶋は目を細めて舌を鳴らした。

 こんな契約の取り方、田嶋の本心ではない。第一、ノルマを達成出来ない月は今回限りでこの先ないとは言い切れないのだ。たかが桂木のプライドの為にそこまでしてやる義理は田嶋にはない。

「どうしたもんか……」
「何がどうしたって? 」

 背後からいきなり声を掛けられて、驚いた表情で視線を後ろに向けたのは田嶋だ。

「……主任」

 呆然と呟いた。遠慮もなく隣に並ぶと桂木も1本タバコを取り出して、自慢のスリムな銀色のフリントライターで火を点ける。

「なんだよ」

 視線に気づいて桂木は田嶋の顔を見る。その表情はいつもと同じで無表情さが漂っていたが、なんだか物言いたげに見えて桂木は身体を田嶋の正面に向けて立った。

「ノルマ、達成できそうですか」
「無理そう」

 あっさり言って笑ったが、実はかなりダメそうな雰囲気が見てとれた。昨日だって、昼からその辺を駆けまわってみたが、とんと手応えがない。尤も同じ業界なのだから、ダメなときは大抵どこも同じだろう。それはしかたのない話だ。

 田嶋は桂木に視線を流すと、素っ気ない物言いでこう言った。

「ねぇ、アンタ。どっかの店のオーナーから契約するから変わりに寝てくれ、って言われたらどうします? 」

 いきなり飛びぬけた質問に、桂木は思わず吸っていたタバコの煙をうんと吸いこんでしまった。喉に煙が流れ込んで、むせ返る。

「ゲホ……っ、何だよ、それ」
「例え話です」

 しゃあしゃあとそう言いながら、田嶋はスーツのポケットからハンカチを取り出して桂木の目の前に差し出した。それを無言で受け取ると、桂木は他人のだというのに遠慮もなく口元を拭う。
「例え、ね。まあ、タイプの男だったら寝てもいいかな。一石二鳥でオイシイだろ」

「でしょうね」

 田嶋はいつもの無表情な顔立ちのままそう言うと、屋上から広がる風景に視線を移した。

「なんだよ、お前誘われたのか?」
「そんなとこです。規模20人前後の新規事務所のオフィス家具一式、200万……どうですか」

 目も合わさないまま淡々と語る田嶋の横顔を、桂木は唖然とした眼差しで見つめた。

「誰だよ」
「『オフィス・デザイン』の安田さんですよ」
「オフィス……」

 桂木の脳裏に勝気な安田の顔が浮かんだ。もともと『オフィス・デザイン』は桂木が初期に担当していた会社で、自分の担当先が手一杯になった際に田嶋に任せた会社なのだ。あのやり手の女事業家なら、そんな事言い出してもちっともおかしくない。

「で、何。OKすんのか?まさかだろ」

 桂木は思わず田嶋の腕を掴んだ。

 まったく、なんて事を相談するのか……。身体の関係しかないとはいえ、こっちは3年越しのれっきとした愛人だ。ちょっとはデリカシーなんてものがないのか!

 尤もデリカシーなんてそんな言葉、桂木なんかに言われたくはない。実際桂木が言ったわけではないけれど、田嶋を見つめる眼差しは確かにそう言っているようにも見えて、真っ直ぐに突き刺さるように見つめる視線がなんとも痛いぐらいだった。

「そこまで会社にする義理ないだろ。身体を売るようなマネ、辞めとけよ」
「一石、二鳥」
「おいおい、15も年上じゃないのか」
「あの人、若く見えるし美人だし悪かないですよ。それに」
「それに?」
「黙っておけば、アンタの面子も保たれます」

 その言葉を聞いて、桂木の表情が急に険しくなった。掴まれた腕から桂木の怒りがビシビシと伝わって来る。しかし、そんな桂木にも臆する事なく、田嶋は真っ直ぐな視線を向けたたまま、いつもの無表情な顔立ちで桂木を見つめていて、それが余計に桂木の神経を逆なでした。

「ふざけてんじゃねぇよ。そんなプライドもねぇ面子なら、犬にでもくれてやる!」

 そこまで聞いて、田嶋は桂木を見つめていた目をゆっくり細めた。

「……本気にしました?」
「え?」

 そう言って田嶋は掴まれていた左手の腕を素っ気無く払う。どういう事だかわからない、と唖然と固まったままの桂木に一瞥くれると、田嶋は両手で襟元を正しながら皮肉めいた口調でこう言った。

「冗談ですよ、冗談。男娼じゃあるまいし、ビジネスでセックスする趣味ないですよ」
「……は……」

 呆気にとられた表情を浮かべた桂木の顔が、みるみるムッとした顔に変わって思わず田嶋の頬に平手を浴びせた。

「冗談なら冗談らしく、愛想笑いの一つでも浮かべてから言いやがれ!」

 こんなの普段寡黙な人間が言う冗談ではない。勢いよく捲くし立てると不愉快さを隠さない表情で、肩を怒らせたまま出口に向かった。けたたましい音を立てて閉まったドアの具合から、桂木の苛立ちが垣間見える。

「怒ったのか……」

 はたかれた左の頬に手を当てながら、意外そうな顔でドアの閉まった方向をしばらく見ていた田嶋だったが、やがてズボンのポケットから携帯を取り出した。田嶋は手早くダイヤルして受話口を耳に当てると、相手に繋がったのを確認して丁寧な口調で言った。

「安田様ですか?花丸商事の田嶋です。昼間の件なんですけれど……」



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