「なぁ田嶋、今日の俺の予定どうなってる?」

 出勤早々、桂木は持っていたビジネスバッグを机の上に置くと、おはようの挨拶もせずにとっくに席についている田嶋に声をかけた。

「今日は昼イチで会議がありますね。新しい商品の検討と、後は……」

 こういう会話をしていても、別段田嶋は桂木の秘書ではない。入社3年目のれっきとした営業部員だ。それなのに何故か田嶋の頭の中にはいつも桂木の予定がきっちり入っていたりなんかして、聞くと自分で確認するよりも早い。だから気がつくといつの間にか出社してすぐに今日一日の予定を田嶋に聞くのが日課になっているのだった。

 田嶋の有能さはこれだけではない。3年も経てば仕事も一人前になるというけれど、田嶋はかなり仕事が出来る部類の人間で、桂木が欲しいと言えばどこをどうやってくるのか。必ずといっていいほど契約を取ってくる素晴らしい逸材だ。

 3年という短い期間で、ビジネスでは田嶋は桂木にとってなくてはならない右腕となっていた。他の人間は考えられない。

「あ」

 ちょっと待ってと、桂木は右手を上げた。内ポケットにしまってある携帯のバイブレーターが振動したのだ。

 携帯のサブ画面から送信者を確認して、桂木は口角を微《かす》かに上げた。ま、後で、といった感じで、そのままポケットに携帯を軽く突っ込む。

「いいんですか」
「いいんだ。プライベートだから」
「そうですか」、と田嶋は視線を机上に戻した。

 来るもの拒まず、去るもの追わず。節操なしのモットーに従って、週に何度かは知らないが、ちゃっかりよろしくやっている。が、ドライなクールビューティーは関心なさ気でいつも釣れなく素っ気ない。もうちょっと食いついてくれてもいいのになあ、と、桂木は右手に頬杖を付いて小さく口を尖らせた。しつこいのは嫌だけど、ほったらかしもつまらないなんて、我侭もいいとこだ。が、そんな事、当の本人はまったく気にも留めていない。

「まあ……ほどほどにしとかないと、いつか病気になりますよ」

 ボソッと田嶋が言ったので、桂木はニヤッと笑って返したのだった。

「病気が恐くてホモがやれるか」

 聞こえたのか聞こえてないのか。田嶋はしれっとした顔で何の反応も寄越してこない。まあこんなもんですか。

 そんなやり取りの数分後、田嶋はスッと席を立った。

「どこ行くの」
「屋上」
「あ、ほんじゃ俺も」

 桂木もそう言って、追うように腰を上げた。連れションならぬ、連れ煙《えん》だ。

 彼らの勤める花丸商事社内は、3年前から全社でフロアでの喫煙が終日禁止にされている。喫煙者たちは煙草を吸うときは部署から出て指定の場所で煙草を吸わなくてはならなくなったもんだから、1日1箱以上も吸うようなヘビースモーカーである桂木にとっては結構切実な問題だ。が、喫煙している当人よりも排出された煙を隣で吸い込む非喫煙者の方が害が大きい、と言われては、頷くしかあるまいて。尤もなご意見だ。

 喫煙室もあるにはあったが、この常に白い煙に包まれた狭い一室の中に入るのは少々勇気がいったりする。見るからに身体に悪そう……なのは分かりきっているけれど、こっちは営業担当で度々客先を訪問する立場にある。一瞬でスーツがタバコ臭くなってしまうような、こんなヤバイ空間には入るものではない。

 そんな桂木の穴場がここだった。

 会社の、屋上。

 いくら吸っても煙がその辺へ漂ってスーツに臭いを移す事もないし、なにより開放的で気分がいい。

 それならば他の喫煙者達もここへ流れてきそうなものだけど、意外な事にほとんどが利用してはいなかった。それは当然と言えば当然の事なのだ。屋上というのは一時のシーズンを除いて快適と呼べるシロモノではない。カンカン照りの直射日光で夏は暑く、木枯らし吹きさらす冬は寒い。だが、今のシーズンにはもってこいの場所なのである。

 桂木は口から吐いた白い煙が空に昇ってゆっくりと消えていく様子をぼんやり眺めていたのだけれど、ふと、横で同じような仕草でタバコを吸っている田嶋の顔に視線を移した。そういえば。

 関係を持って3年になろうというのに桂木は田嶋の泣き顔はおろか笑った顔すら未だもって見た事がない。それでも桂木好みの顔は相変わらず健在で、時々つい見入ってしまう。

「……なんですか、ジロジロ見て」

 田嶋は不愉快さを隠さず、ちょっと訝しんだ面持ちでぶっきらぼうにそう言った。フェンスに持たれかかった分、気持ち田嶋より身長が低くなった桂木が上目遣いに、田嶋の顔を見上げていたからだ。

「いや、田嶋は結構美人だなあって思って」
「はあ? 」

 田嶋は眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな声を発した。美人だなんて、男に使う褒め言葉ではない。それでも、田嶋はそれをさほど気に留める様子もなく、視線を真っ直ぐ前に戻すと、右手に持っていたタバコを一口吸った。桂木が突拍子もない事を言うのはいつもの事だ。

 1本目のタバコの終わりが近づくと、田嶋がなんの気なしにスーツの内ポケットから携帯灰皿を取り出して、桂木の方へ差し出した。喫煙指定外のところで煙草を吸っているのだ。当然灰皿は無く、だからといって吸殻をそのまま捨てていくのは気がひける。いつしか田嶋は携帯灰皿をスーツの内ポケットに常備するようになっていた。ささいな気配り。躾がいいのだと桂木は思う。

 無言のまま桂木は灰皿に煙草を押し付けて火を消すと、さらにもう1本タバコを取り出して口に咥えた。

「お前ももう一本吸う? 」
「いただきます」

 桂木が差し出したラッキーストライクの箱に、田嶋の細くて形のいい、それでいて神経質そうな指先がゆっくりと伸ばされた。

 関係はどうであれ、田嶋といると気を使わない。何を話すでもなく、沈黙を重荷に感じるでもなく、ただ時間だけがゆっくり流れる感じで桂木は田嶋と過ごすこんな時間がとても好きだ。

 会社の人間とは関係を持たないはずの桂木が、もう3年も田嶋との関係を続けているのは単にそれだけではなかった。田嶋は結構…いやかなり桂木の好みだったし、なにより身体の相性がすこぶる良いのだ。自分から切ってしまうのは勿体無い。

 空に飛行機が飛んでいくのを見ながら桂木は田嶋の携帯灰皿に2本目の煙草を押し付けた。


*    *    *    *    *


 主に家具を取り扱う花丸商事の営業部第1課に所属している桂木は、今春主任に昇格したばかりの28歳だ。大体約10年程度で主任格となるのがこの会社の平均なのだから、入社6年目にして主任クラスとなった桂木はかなりの出世株だといえる。

 主任となった事で、一つのグループを任される事になった桂木の配下には、田嶋のほかに3名が部下として席をおいていた。まず田嶋の同期である西郷と、そしてその1年下の三好。この2人はかなり仲が良くて、実はデキてるんじゃないかと思わず邪推したりもしてしまう。後は今年の春に入ってきたばかりの新人の犬養で、実習期間中として今は三好に付いて外回りをしたりしている。

 任されたといっても先月までこのグループを統括していた上司が別の所属になって、その長に桂木が就いただけの話だ。別段何かが変わったわけでもない。まあ、今までと違うのは一存で出来る権限が増えた事と、グループ全体のマネージメントぐらいだろう。面倒くさいとは多少思わないでもないが、もともと性に合っている。桂木はこの営業という仕事が大好きで、我ながら天職じゃないかと思っているぐらいだから、そんな事は苦にもならない。

 そんな環境下でいつも気分良く仕事をしている桂木であったが、ある日掛かってきた1本の電話が重大な事態を告げた。

「えっ……! いや、本当に? 」

 それを聞いた部下達が思わず次々と顔を上げる。

「……ああ、そりゃ……仕方がない事ですねぇ」

 真剣な面持ちで受話器に向かって話しをする上司を、部下達は怪訝な眼差しで見つめた。こんな空気の時って大抵良くない話が多いのだ。

「なんやろ、いやーな予感がするわ」

 正直な口調でボソッと三好が呟いた。更に軽快な様子で軽口を叩く。

「まっさか、大口の契約キャンセルとか言うんやないやろなあ」
「実はそのまさかだ」

 受話器を置くと同時に桂木が言った。慌てたのは言った三好だ。

「え、ええ!ほんまに?どこ……」
「川井商事さん」
「川井……」
「まあ、俺のお得意さんだよな。どうも景気が悪いみたいでオフィス家具の更新が立ち消えたらしい」
「は……どれぐらいですか? 」

 横から西郷が訊いた。今月はもう5日ほどしかなく、桂木班に課せられたノルマとしてはカツカツの月だったからだ。それはそれでしかたがない。大体オフィスに合わせた家具なんて4月に合わせた2月3月によく出てしまうので春先の今はほとんど契約がとれないのは毎年の事なのだ。

「まあ、150万ってとこかな」

 と、涼しい顔でそこまで言って、桂木は一つ手をパンッと叩いた。

「大した額じゃないんだからあんま心配するな」

 そう言って桂木は営業先でよくやるような爽やかな表情でニコッと笑った。





top




SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO