はっきり言って意外だった。

そりゃあ田嶋だって健康な27歳の立派な男で、加えてあの端正な容姿なのだ。だから過去に一人や二人の経験は必然的にあるだろう。つか、桂木と酒の勢いで関係を持ったあの貞節の希薄さを考えると無いほうが絶対おかしい。

その日の夜は二人で外食したけれど何を食べたのか、何を喋ったのか桂木は一切合切覚えていない。よほどショックだったということか。

しかし一体何がショックだったのだろう?桂木にだって初体験の相手ぐらいいたし、両手両足の数で収まらないほどの相手とその行為を繰返してきたのだ。田嶋のことを言えた義理なんか少しもない。逆にこっちが慰謝料でも払わなくてはならないぐらいで、それなのに、この胸のモヤモヤしたものは一体全体何なんなのだ。

意外だったのは、田嶋の初めての性的経験があるとかないとか、男だとか女だとかそういうことでは決してなかった。それじゃあなんだ?

なんだって……なんで百戦錬磨の色男であるこの自分が、今更ながらに恋人の過去の相手の登場にこんなにも動揺してなんかいるのか、ということだったのである。

 

*    *    *    *    *

 

(おかしい……)

と、田嶋は営業一課の自分の机上にあるノートパソコンで、得意先である「オフィス・デザイン」の見積書を作成していたその手を止めた。視線を上げたその先は斜向かいに席を取る、節操なしのあの男。

よくよくおかしくなる男だ、と田嶋は思う。

田嶋は叩いていたパソコンのキーボード操作の手をやめて椅子の背もたれに姿勢を崩すと、同時に回りに聞こえないほどの小さなため息を思わず洩らした。背中の椅子がキシっと鳴って、手元に軽く散乱した書類を見ても無いのに視線を落とす。田嶋はいつも通りの無表情なその顔でゆっくりと目を細めた。

何がおかしいって、なんだか……怒ってるみたいなのだ。実は先週の週末も桂木のマンションに行くには行ったが、なんだかひどく素っ気ない。ついでにいうと情事もなかった。あの桂木が、である。それだけでも驚愕の事実であるというのに、始終仏頂面なんか浮かべて何がなんだか分からない。

何か気に入らないことでもあったんですか、と田嶋が直球的に訪ねてみても 別に、と素っ気無く言うだけだったのでそのまま終日放っておいた。ところが幾日経ってもどうも改善される気配もない。その田嶋のとった行動が、余計に今の状態を硬直させてしまったのかな、と多少思わんでもないが、それでも先々週まではいつもの桂木だったのだ。

一体いつからだっただろう。田嶋は桂木の様子がガラリと変わった辺りからの記憶を鮮明にたどってみたが、ちっともどころかさっぱり微塵も思い当たるフシがない。

田嶋はスラリと組んだ長い足を反対側に組み返すと、左手で頬杖をついた。書類を一枚右手で摘むと目線高さまで持ち上げてそのままパラリと机に落とす。

強いていえば先々週の木曜日に二人で納品に行ったあたりぐらいかな、と田嶋は何の気なしにそう思った。

(…………分からない)

ここから先が重要なのに、田嶋の思考はそこで簡単に止まってしまう。もっと肝心なことがあっただろうに、その辺のことには田嶋はちっとも気付いていない。尤も自分のことには完全無関心な田嶋だからこそ、気付かないのは当たり前かもしれなかったのだが、ここまで鈍いと桂木の方がお気の毒様、という感じである。ところがその桂木といったら。

 

どうもすっきりしないのだ、というあからさまに不機嫌な顔立ちで桂木は西郷から提出された見積書に黙々と目を通していた。時々起こす貧乏揺すりも周囲にイライラ度を伝える動作に過ぎない。我ながら大人げないなあ、と桂木は思う。

時々もの言いたげにジロリと田嶋に視線を送るが、当のご本人様といえばそんな桂木を無視することもしばしばで、それが返っていつもの自分を頑な気分にさせる。桂木は肘をついた右手のひらで首をかいた。

(しかしなあ)

心にひどい衝撃を受けたあの日の感情の揺れの正体は、実はすぐ様見当がついた。尤もその感情自体はマンガや小説で読んだり、親しい友人から聞いたり、またはかつての恋人と呼んでいた彼らが桂木にぶつけたことがあったぐらいで、今までそんなものには無縁だと思っていた自分がいざ相対する身になると、いささかの戸惑いも隠せない。

自分にもこんな感情があったことを桂木は初めて知った。桂木の初めての経験の相手となったクラブの先輩に対しても恋というよりは寧ろ憧れの感情の方が強くて、そんな気持ち、到底持ったことなどありはしない。もっと有体に言ってしまえばそれから今まで一度もそんな気持ちを持ったことのない自分はそういう部分がスッポリ欠落しているのだとも実は正直思っていたのだ。

桂木は俯けた視線をちょっと上げて、四角く切り取られた窓を見た。空からはうっすらと曇った雲が太陽を隠して今の桂木の気持ちを代弁するかのように街全体が影っている。

(ああ、なんだか俺の心のよう……いや、もちっと違うな。今の俺の心境っつったら、もっと、こう……)

とそこまで思って桂木ははっとした。それは、斜め向かいの座席に座る田嶋と目があったからで、その顔で見られるとちょっと一瞬動けなくなる。しばしその場で硬直気味に田嶋の顔を凝視したままになっていると、なんだかこないだの女の顔がうすらぼんやり浮かんできて桂木は、思わず睨んでソッポを向いた。

何で今まで気付かなかったんだろう。

田嶋はやはり相当綺麗な顔をしていて、この容姿だ。周りが放っておくわけがない。どうして今まで考えつかなったのか不思議なぐらいだ。

桂木の男漁りや、エイズ疑惑にも愛想を尽かすことなく傍にいた田嶋。いや、ある意味では愛想すらも持ってなかったんだろうけど、あの告白の夜以来、田嶋はかなり自分に惚れているもんだと思っていたから思いつきさえしなかった。

あの女は氷山の一角で、掘り起こすと他に関係を持った人間がたくさんいるのではないだろうか、と。

 

*    *    *    *    *

 

営業部へと続く真っ直ぐ伸びた4階の廊下で、スラックスのポケットに軽く手を入れた田嶋は一人で歩いていた。徒歩のリズムと共に若干のため息も洩れる。

そのため息の原因はここまでの話でもうすでにお分かりだろう。花丸商事のやり手営業主任にして田嶋の最愛の恋人でもある桂木圭吾のことである。

視線を送ったところでソッポを向かれてしまっては話にならない。それについて田嶋は深く考えざるを得なかったが、漠然とも思いつかなかった。それに伴い自責の念にも襲われる。自分は桂木を怒らせるような何かを知らない間にしてしまったのではないか、と。

けれどもどれだけ考えたところで、ちょっとばかりかさっぱり思いもつかなし、田嶋はほとほと困ってしまった。桂木が何を怒っているのか分からないのだ。

田嶋は営業部より手前にある、小さな通路に進路を変えた。変えた、というよりは寄り道した、というべか……言わずと知れた男子トイレである。

表情こそは崩さなかったが、ギッとドアを開けて田嶋はひどく驚いた。そこには今まさにどれだけ考えても分からない当の桂木がいたからである。上着を少しめくってベルトを締め上げるその様を、田嶋は目を細めてじっと見つめた。さっきソポを向かれたのを思い出したのだ。

掛け終わったズボンのベルトを右手で左右に揺すりながら桂木はムッとした表情で田嶋を睨んだが、ムッとしたのはこっちである。穏やかだった2週間前の雰囲気はどこへやら、一転したこの険悪なムードは一体全体なんなのだ。

なんだかもう堪えられそうになかった田嶋はしびれを切らしたように桂木に言った。せめて自分に責任があるのかないのかだけでも聞かせて欲しい。

「ねぇ」
「なに」

ぶっきらぼうに桂木が答えた。それでもそんなのどうでもいい。田嶋は続けた。

「俺、なんかしましたか」
「何ってなんかしたのかよ」
「いえ何も…」

なんじゃそりゃ、と田嶋は思った。こんな風につっけんどんに返されたらちっとも話が進まないではないか。

「いや、そんなことではなくってですねえ……」

そこで話を打ち消すように右手を上げた田嶋に桂木はひどく驚いたような顔をして、いきなりその手を掴み上げた。いきなり右手を捕まれて驚いたのはこっちの方だ。

「うわっ!あんた手ぇ洗ったんですか!!」

いきなり右手を掴まれて、こんな時にでるとっさの一言がこういうのもどうかと思うが、そんなこと桂木は聞いてもいない。食いつくように田嶋の手を見て憮然としたままポツリと言った。

「……指輪」
「え?」

桂木は厳しい顔つきで、田嶋の手から顔へと視線を移した。

「指輪は?」
「指輪って……」
「右手に嵌めてたアレだよ!……どうしたんだ?」

桂木がクリスマスの前に真心を込めて贈った指輪が、田嶋のどこの指にも嵌まっていない。

「ああ、あれ……」

そんなこと言われても、あんないかにも恋人がくれたようなデザインの指輪、右手なりともこんな会社で嵌めるわけにはいかないではないか……。だが桂木の怒りも尤もで、プライベートでも滅多につけてはいなかったからいつかは追求されるかもとは思っていたのだ。思ってはいたのだけれど、よりにもよってそれが今か。

田嶋はツッと唇を尖らせると一呼吸置いて、淡々とした口調で目を細めてこう言った。

「失くしました」
「何!?」
「すいません」

淡々と事務的にも聞こえる田嶋の言葉。

失くしたって失くしたって失くしたって…一体幾らしたと思ってるんだ―――――――!!

と、実はそういう問題では全くない。

あの指輪には桂木の溢れんばかりの想いが十二分に込められていて、その価値は当の指輪よりもはるかに高くなっているのだ。それを失くされとあっては、桂木としては立つ瀬がない。本当に空回りしているのは自分だけではないのか。

「いえ。朝こう、石鹸で手を洗ってたらですねえ……」
「もういい」

広げた右手の薬指から反対側の人差し指をツーっとスライドさせて説明する田嶋の言葉を最後まで言わせないまま桂木は会話を切った。こんな気持ちになるのは自分だけか?

桂木は田嶋をジロッと睨むと厳しい口調でこう言った。

「お前、本当は俺のことなんか好きじゃないんだろう」

は?という顔をした田嶋に桂木はさっさと背を向けて、ドアの向こうへ消えていく。後には呆然とした田嶋がポツンと残されて、5秒してから我に返った。落ち着かず、手持ち無沙汰にポケットに手を突っ込む。

「今のは完全に怒らせたかな・・・」

本当に愛想、尽かされるかもしれない、と田嶋がポツリと言うと、まるでタイミングを計ったようにいきなりすごい勢いでドアが再び開かれた。驚きざまに田嶋が顔を上げる。

「主任・・・・・」

名前を呟かれたのにも関わらず、それをあからさまに無視して桂木は手洗い場の蛇口をひねった。手を洗うのをすっかり忘れていたらしい。栓を止めて顔を上げると、桂木はその濡れた指を田嶋の目の前でピシッと弾いた。水滴が顔にかかって田嶋は思わず顔を背ける。

「冷た・・・・・・!」

そっと片目を開けると桂木は明らかに怒った表情をしていて、今の行動が田嶋の失言へのささやかな報復であることを明白に告げていた。

「バーカ!」

そう言って桂木は踵を返すと今度こそドアの向こうに消えていった。

しかし怒るのは分かるけど、そのささやかな報復の手口といい、最後の言葉といい・・・・・・子供か。

自分のことを棚にあげ、思わず田嶋は苦笑を漏らしたのだった。


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