桂木が男子トイレでブチ切れて、田嶋に子供っぽい仕打ちをしてから二日が経った。それでも桂木ときたらまだ相当に怒っているようで、困ったことに仕事のことでも返事をしない。それでも業務に支障が出ない辺りがさすがだな、と田嶋は思う。

田嶋は斜め向かいの席に座る恋人にあからさまな視線を送ったが、やはり当の桂木は知らん振りをしたままで少し田嶋を困らせる。案外ナイーブな男だな、と田嶋は思うがそれでも桂木の怒りを解く方法がどうしても分からない。

カチっと小さな音を立てて、窓際の壁に掛けられた時計が8時を指した。

今日は花の金曜日で、明日は月に2回の貴重な土曜日の休みの周りだからよっぽど急ぎの仕事でもない限り、社員のほとんどが7時前には帰ってしまう。周りを見渡すともう、パラパラと桂木と田嶋を覗く4人ぐらいの人数しか残っていなくて所内はそこはとなく淋しい雰囲気が漂い始めていた。

ラチが明かないな、と田嶋は半ばあきらめたような小さなため息を洩らしてガタッと席を立った。こまごまと書類が散乱した机の周りを片付け始める。業務の区切りがついたのと、桂木をこれ以上怒らせてしまう前に退散しようという寸法だ。

田嶋は机上に散らばる書類を手際良くかき集め、項目ごとに分けてあるフォルダにしまう。フォルダに貼られてあるラベルには一つ一つに丁寧な文字で項目が書いてあり、田嶋がいかに几帳面な性格かを印象付けていた。

ところが田嶋があらかた整理のついた机の下からブリーフケースをスラリと取り出すと、そのタイミングで、田嶋の机めがけてクリップで数枚留められた資料が斜め向かいの桂木の席からシュッと投げて寄越されたのだ。

視界にいきなり侵入してきたその書類を無言で数秒凝視して、田嶋はパッと桂木の方へ顔を上げる。そこには涼しい顔をして、それでもやっぱり少しも視線を合わさないままの桂木が何食わぬ顔をして平然とした様で座っていた。そして田嶋はもう一度、手元に吸いつくように寄越された数枚の書類に目線を戻すと、まるで困惑を隠すかのように口に当てた手のひらを数回動かす。

「……」

コレって家に来いってことなのか?

そこには真っ白なままのコピー用紙が数枚と、それらを纏めるために留められたクリップ、そしてそのクリップの一番上には会社の最寄駅から桂木のマンションの駅までの切符がご丁寧に留められていたのだった。

 

*    *    *    *    *

 

ゆっくりと上昇するエレベーターというの密室の中で、なんでこんな状況になってるんだろう、と田嶋は今自身が置かれている状態をまるで人事のように思う。

あの後、呆然と書類を見つめる田嶋を尻目にさっさと帰り支度を整えた桂木が、残される社員に「お先です」とにこやかな笑顔を残して席を立った。ドアに向かう桂木を、田嶋は挨拶もそこそこにサッと切符だけ抜き取って背もたれにかけられたコートを慌てて羽織り、他の社員が気付かないような微妙な表情で後を追う。

「主任……!」

営業部のドアを出たところで桂木が目も合わさずに、いきなり田嶋の右手を掴んだ。桂木はそのままこっちも向かないで、その手を強引に引っ張るように足取りを早める。

「ちょ、ちょっと、主任!!」

声をかける田嶋を無視してドンドン桂木は歩を進めた。当然こっちの都合などお構い無しで、田嶋は半ば諦めたように沈黙してついて行く。さすがにビルを出たところの歩道で桂木は手を離したが、これはもう間違いなかった。家に来いということなのだ。

田嶋は呆然と、それでも促されるまま桂木の後について行ったのだった。

そんなことを小学校の復習のように思い返しながら沈黙を重荷に感じることなく、たたぼんやりと桂木の背中を田嶋は見つめる。数秒もしない間に、チン、という音を立ててエレベーターがガクンと止まった。

当の桂木といえば、やっぱり言葉を交わすどころか、目すら一度も合わさないままで何を考えてるのかさっぱり全然分からない。さっさと部屋の内側に消えた桂木の後を田嶋はゆっくりとした速度でついて行き、そして、部屋の前で足を止めた。

「…………」

そこでちょっと俯いて少し田嶋は考えこんでしまったのだ。やっぱり相当怒ってるんじゃないのか?

しかしここでどうこうしていてもラチが明かない。田嶋は顔を真っ直ぐに上げると桂木の部屋の中へ誘われるまま足を踏み入れた。

ドアを開けると、もう、すぐそこに腕を組んだ桂木が壁に凭れて立っていてまるで田嶋を射るような視線でじっと見つめる。開かれたコートの裾が絶妙なシルエットを作っていて、頭上に灯された柔らかな明かりが桂木のその容姿を更に際立たせた。ひどくいい男だ、と田嶋は思う。

後ろ手でパタンとドアを閉めると田嶋は桂木の視線をもろに受けとめ、目も逸らさぬままゆっくりと目を細めた。カチッと鍵を下ろす音が静かな部屋に響き渡る。その途端バン!とすごい音を立てて、桂木の右手が田嶋の顔のすぐ横のドアを叩いた。田嶋は一瞬驚いた表情を浮かべたが、それはすぐに消えた。顔のすぐ傍に置かれた右手が極度の緊張感を醸し出す。気持ちだけ上になった目線からゆっくりと桂木は口を開いた。

「あれからいろいろ考えた」
「あれから?」
「そう、あれから」

そう言って桂木は右手のひらを肘にスライドさせて田嶋との距離をグッと縮めた。ひどく近くなった唇が今にも触れそうなくらいで、それでも二人は平静を装ったまま涼しい顔で会話を続ける。一触即発になった雰囲気が周りの空気をピリピリさせた。

「過去のことにはこだわらない」

スッ、と桂木は手馴れた動作で田嶋のネクタイの結び目に指を通して首元を緩めた。

「失くした指輪もチャラにしてやる。だから田嶋」

桂木は耳元で囁くように言葉を続ける。

「……もうここに誰も入れるな」

桂木は田嶋の鎖骨に人差し指をトン、と軽くつきたてると、シャツの上をツーっと滑らかにすべらせた。その指が田嶋の左胸でピタッと止まる。けれども瞳は真っ直ぐ田嶋を見たまま逸らさない。

田嶋の心臓がバクンと鳴った。

「俺以外の人間に心を動かすな」

桂木のその刺すような眼差しは田嶋を捕らえて離さない。田嶋は何かを言いかけて口を開いたが、そのまま言葉にするのをフッと止めた。

ああ、ああ。一体誰がこの男以外に心を動かせるというのか!

田嶋は静かな動作で右手を伸ばすと、その頬に滑らせてキスを誘った。桂木はツッと目を細めると左手でその手を捕らえてゆっくりと田嶋の唇に口付ける。舌も入れない触れるだけの繊細な口付けを離すと角度を変えて、今度は激しくその唇を乞うように求めた。欲しくて欲しくて仕方ない。

粘液質な音を立てて惜しむように唇を離すと、お互いの視線を外さないままゆっくりと田嶋は肩からコートを降ろした。

 

*    *    *    *    *

 

情事の後の煙草はめちゃくちゃ美味いと桂木は思う。10日ぶりにすっきりした身体と適度な運動、そして尤も愛するこの恋人の綺麗な寝顔だ。美味く吸えないはずがない。

桂木が満足げに口からフゥっと煙を吐くと、横でだるそうに目を開けた田嶋がこっちを見ていた。

「吸う?」
「はあ」

気のない返事をして田嶋はのそっと身体を起こす。ちょっと久々にやりすぎたかな、と桂木は思わず苦笑を浮かべた。

桂木が差し出した煙草を1本箱から抜くとフィルターに口をつけ、桂木の吸っている煙草の先から火を貰う。スゥっと一口肺の奥まで吸い込むと、田嶋はだるそうに首の後ろをカシカシ掻いて口を開いた。

「ねえ」
「あん?」
「さっぱり分からないんですけど……」
「なにが」

桂木こそ何のことだか分からない、とキョンとした表情を浮かべて田嶋を見つめた。一体全体何のことだ?

「指輪を失くしたのは叱られて当然としてもねえ……あんた、その前はなんで怒ってたんですか?」

そこまで聞いて桂木は えっ? と言う顔をした。その反応を目の当たりにしていた田嶋だが、桂木のそれが一体何を意味する表情なのかが分からない。桂木はええと、と言いながらチラリと横目で田嶋の顔を伺った。

「……知りたいか?」
「当然です」
「……笑わない?」
「多分」

「笑わない」、と即答するより状況によって左右する、そんな答えが田嶋らしい。

それでも桂木はバツの悪そうな顔をして、目を田嶋のいない明後日の方向に泳がせながら新しい煙草を1本取り出すと口にくわえて火を点ける。一息吸って煙を吐くと、桂木は数秒の間を取ってようやく言葉を口にした。

「こないだ……」
「こないだ?」
「先々週の納品先で……」

よっぽど言うのが嫌なのか、歯切れが悪くいつもの桂木らしくない。ところが横であんまり真剣な表情で田嶋がこっちを覗くので、桂木は煙草を持たない左手で俯いた額を擦りながらこう言った。

「『シオリ』って女の登場だ」
「……なんでそこに彼女がでてくるんです?」

田嶋のその一言に今度は桂木が呆気にとられる番だった。ここまで言ってもわからないのか!

「……ほんとに分からないのか?」
「ええ。それで俺、何かしました?」

さっぱり要領を得ないと言った様子でまゆをひそめる田嶋に対して桂木はガクッと肩を落としてこう思った。

(……天然)

まったく田嶋ときたら人のことには目ざといくせに、自分のこととなるとテンで無頓着この上ない。自分が今の桂木にとって一体どんな存在なのかすら、ちっとも分かってなんかいないのだ。知ったらどんな顔をするだろう?今度親切に教えてやろうか。

ところがである。桂木が顔を上げると、田嶋の困惑したその顔が何故だかひどく可哀想に見えてしまって、なんだかとても悪いことを言った気分にもなった。これはもっと突っ込んだところまで説明しないとダメなのか。

横目でチラリと田嶋を盗み見た桂木が再び視線をあっちへ逸らした。こんなこと、恥ずかしすぎてまともに顔を見ながら言えやしない。

「お前は何にもしてねーよ。ただ俺がちょっと……拗ねただけだ」
「は……?」

それでも田嶋は良く分からない風で眉をひそめる。

「あの女がショタイケンだとか、男は俺が初めてじゃなかったとか、実はすんごい数を知ってるんじゃないかとか気になって気になってだなあ……!」
「え、そんなのどうして……」

さすがの桂木もその鈍感な様子にブチ切れて声を荒げた。

「ああ、もう察しの悪い男だな!こんなの何回も言わせるな!!恥ずかしいんだよっ!」

あまりの剣幕に桂木の右手から吸い忘れていた煙草の灰がボロボロと崩れて白いシーツの上に落ちてこぼれる。そのタイミングでひどく驚いた表情をしていた田嶋が口を開いた。

「あの……それってもしかして……」
「………」
「嫉妬……とか。いや、まさかですよね」

田嶋は一緒に訂正の言葉を口にしたが、今のそれこそ正にビンゴ、その文字どうりの適切な表現だったのだ。桂木は田嶋のその言葉を聞くやいなや、不機嫌そうな顔をしてプイっと視線を横へ逸らした。嫉妬だなんて、こんな嵐が自分の中にも存在していたこと自体が屈辱だ。

唖然というよりはひどく意外な顔をして田嶋は桂木をじっと見つめた。そりゃそうだろう。だって桂木ときたら付き合ってきた男は数知れず、しかも長続きした試しなんかひとつもない。たいした愛情もないくせに同時進行で恋愛が出来るようなそんな男が嫉妬だなんて、一体誰が想像するのか。

そして2、3分の沈黙の後、田嶋はひどく呆れた声を上げたのだった。

「笑わないけど呆れました。あんたに言えた義理ですか」

ごもっとも。それは桂木だって重々承知の上で、だから拗ねていたのである。自分の持った関係に比べれば一人や二人や五人、十人……やっぱりいやだ。

枕に顔を突っ伏してしょぼくれる桂木に田嶋は苦笑を浮かべる。

「ねえ、子供じゃあるまいし、そんなに拗ねるようなことじゃないでしょ。俺、そんなに経験ないですし」
「何人」
「ええと……、あんたを入れて片手で充分足りますよ」

田嶋は優しく耳元で囁いたが、桂木は顔を上げない。顔が見えない分だけに、どういう表情をしているのか興味が湧いた。

「でも、皆好きな相手とだったんだろ」
「そうでもないですよ。詩織さんなんかとは食われちゃったクチですし、あの人美人で俺だって男ですからそりゃ興味ぐらいありますよ。年頃でしたしね」
「何!」

桂木はすごい勢いでガバッと上半身を起こした。

「1回…いや、2回だったかな」
「うわーーーーっ!やっぱ聞きたくない!」
「……どっちですか」

両手で耳を塞いだ桂木の姿を見て田嶋はますます呆れてしまった。本当に29にもなったいい年した大人なのか。

「1回だけじゃないですか」
「1回でも100回でも同じじゃねぇかよ!」
「じゃあ100回以上もしてるあんたの方が得ですね」

対照的な田嶋の素っ気無い物言いに、さすがの桂木も返す言葉が出なかった。最近すっかり忘れていたが田嶋はもともとこういう冷静なヤツだったのだ。前科モノの桂木には少々分が悪過ぎる。

桂木は口を尖らせて目を細めると、ふてくされた子供のように顔を明後日に向けた。

「だってお前ときたら外でも内でも素っ気無いし、指輪は失くすし……」

呆気に取られるというのは実にこういう表情を言うのかもしれない。桂木の恨み言をそこまで聞いて、田嶋は え?、と、少し驚いたような表情を浮かべたのだ。

「いやだ。あんたあんなの本気で信じてたんですか?」
「えっ!何?失くしてないのか!?」
「家にありますよ。いくら俺でもあんな大事なもの、そう簡単に失くしたりするもんですか」
「じゃあなんでそんな……」
「あんたが理不尽に怒っていたのと、後々うるさそうだったから……」
「何だと!?」
「それと」

怒った桂木の言葉を遮るように、田嶋は続けた。

「右手とはいえ、あんたの気持ちが篭もった指輪を、俺なんかの指に嵌めるのがなんだかひどく勿体なくて……」

口元に手を当てて、田嶋はクスっと柔らかな微笑を浮かべる。その顔の魅力的なことといったら!

(確信犯だ……)

と、桂木は思った。こんな顔をされては、もうここから先は何も言えないではないか。

桂木は思わず小さな苦笑を洩らした。本当に指輪を失くされていてもかまわない。桂木はゆっくりと右手を伸ばすと、もうすぐ傍にある田嶋の頬の輪郭をなぞった。柔らかな微笑が消え、代わりにまっすぐな視線が桂木を見つめる。親指が口に触れ、その後を追うように桂木はそっと顔を近づけた。そのまま田嶋を押倒してその唇に何度も何度も口付ける。田嶋の口から吐息がこぼれた。

過去のことはどうでもいい。田嶋のこういう顔を見れるのは今も、そしてこれからも自分一人だけなのだ。

カーテンの隙間から入る外の光りが今日の天気を告げていたが、今日はもう一日外にはでないだろうと桂木は思った。その日の空は迷いない、まるで今の桂木の心を象徴するかのような快晴だったのだ。

end.


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