― セ ピ ア ―



「8度6分」

仕事を終えた電子体温計を脇から抜き取り、手馴れた動作で目当ての数字を確認する。上島は電子体温計の液晶から、目だけの視線を佐々木に向けた。

「何の前触れもなく突然発熱。なんか子供みたいだな」
「……す、すいません」

掛け布団から覗き込んでバツの悪そうな顔をした佐々木に、別に謝ることじゃねぇよ、と、上島は大きな右手を頭に乗せた。

「もういいから早く寝ろ。横にいるから、しんどくなったらいつでも呼べよ」

そう言って上島は向こうの部屋から掛け布団を持ってくると、佐々木の隣に掛け敷いて、その中に潜り込んだ。すぐ傍にいるけれど、布団の中には入らない程度の距離を開けて。

「俺ももう一眠りしよ」

言うやいなや、言葉どおりに上島は、その漆黒の双眸を閉じた。6時を廻った室内はまだまだ暗く、真夜中の3時を連想させる。それでも、オレンジ色の豆電球の小さな灯りで、上島の寝顔は佐々木の位置からよく見えるのだった。

(睫、なが……)

熱で朦朧とした意識で、佐々木はぼんやりとそんなことを思った。

改めてこうやってじっくり見てると、上島は相当に整った顔立ちをしている。本当になんでこんな男が自分なんかに……。

そうやって上島の寝顔を数分ばかり見ていたけれども、苦しそうに熱で震えた熱い息を小刻みに吐き出しながら、混沌としたままで、佐々木は再び眠りについた。

 

*   *   *   *   *   *

 

「それじゃあ行ってくるからな」

濃いグレーのスーツに黄色系のネクタイを締めながら上島はそう言った。

今日は翌日の月曜日。

今はもう、ほぼ平熱といえるけど、結局深夜まで熱を出した佐々木は、こういうタイプは夜またぶり返して熱か出るからと上島から出勤を止められた。まったく、熱の出方も子供並なら、扱いだって、また子供なのである。尤も、何かあったら世話をするのはこの俺だとまで言われれば、従うほかはなかったのだけれど。

上島が出勤した後、結局昼過ぎまで寝なおして、熱がないのを確認した。

急な発熱。精神的な外圧が影響したのか、激的な環境の変化による知恵熱みたいなものだったのかなと佐々木は思う。

「お腹すいた……」

すっかり熱が下がってしまうと、今度は生理的な欲求も沸いてくる。佐々木は立ち上がると、ヒョロヒョロとした足取りで布団から出た。なんだか頭がはっきりとしないのは、昨日一日寝てたせいだ。

テーブルに置かれた鍋を開けて中身を確認すると、佐々木はコンロの火にそれをかけた。上島が佐々木のために作っていってくれた、オーソドックスな白いお粥だ。

沸々と、鍋の周りが沸いてきて、ぐるぐるとかき混ぜる。適当に温まったところで佐々木はコンロの火を止めた。

どうやらこの椀は割られずに大切に使われてきたようだ。見慣れた茶碗に粥を注ぐと、佐々木は手を合わせて一口入れた。

「……美味し……」

作っていってくれた粥はとても美味しかったのだけれども、なんだか、ひどく味気ない気になってきた。多分、それはたった数日間のこととはいえ、他人と過ごしたせいなのだろうと佐々木は思った。

カーテンを透かすように入る、冬独特の弱々しい太陽の光がわずかばかりに部屋の明度を上げている。

一杯の粥を食べ終わると、佐々木は両手で頬杖をついて空になった茶碗を見ながら目を細めた。昨日。

あれから深夜にかけて、息苦しさに2時間置きに目を覚ました。

朝も10時を廻ると、さすがに上島の布団は上がったけれども、目を覚ました時にはいつも姿が隣に見えて、なだかひどく佐々木をホッとさせる。目が覚めた時には、そのほとんど が本を読んでいた姿で、テレビも音楽も一切つけてはいない。部屋を薄暗く保つために引いたままのカーテンも、上島の心遣いだろうことが想像できた。

静かではあるけれど、深い夜のようにシンとは静まりきってはいない、窓ガラス越しに聞こえる昼間の、小さな雑音のあるこの世界で、自分と、上島の息遣いと、本のページをめくる音だけが部屋に響いた。熱で苦しいはずなのに、静かで穏やかな、優しい時間。

思い出すように、佐々木はゆっくりと目を閉じて、額のところに右手を当てた。

『大丈夫か?しんどくないか?』

そう言って、昨日何度も上島は佐々木の髪をクシャクシャと撫でたのだが、なんだかひどく気持ちが良い。嫌悪感もなにもない、我ながら、それがひどく意外だった。

「キャー!」

窓の外から突然聞こえた黄色い声に佐々木は驚いて顔を上げた。立ち上がってパジャマのままベランダに出ると、小さな子供が下の歩道を走っていくのが見える。後ろから、母親らしき女性が、まだ、小さな赤ちゃんを抱えて、先に走った子供を追いかけているのだった。追いかけっこでもしているつもりなのだろう。何度かはしゃいだ奇声を上げて、見る間に姿が見えなくなった。

1月らしい冷たい北風がビュウっと吹いて、既に落葉した街路樹の枝をコウコウ揺らす。

(なんかヘンな感じ……)

一人ではないということが。

佐々木はベランダの手すりに肘をついて、その様子を見ていたけれども、腕に半分、顔をうずめて小さなため息を一つついた。

 

*   *   *   *   *   *

 

冬の日没は早い。

もう辺りがすっかり黒くなった7時前に、上島洋介は帰宅した。部屋には充満したカレーの匂いが。

(ウチだったのか……)

ドアを開けた瞬間、そう思った。

7時前後の帰宅は、一般家庭における、尤もポピュラーな夕飯の時間帯でもある。アパート真下の歩道を帰ってくると、筑前煮であるとか、揚げ物であるとか、そういった『家庭の晩ご飯』の匂いが漂ってくるものなのだ。もちろんそのカレーはダントツに鼻腔をくすぐる。

入って靴を脱いでる間に、玄関すぐ隣の台所から、佐々木がひょっこり顔を出した。

「お、おかえりなさい」

どもりながら佐々木が言うと、上島は言うより早く手を出した。

「ひゃっ…っ!」

伸ばした右手は佐々木の頬に躊躇なく触れて、佐々木は思わず身体を竦めた。そんな佐々木の顔を見て、悪りぃ、と、一言発してすぐさま右手を引っ込めた上島の顔は、何の負の感情も読めなかったけれども、佐々木の胸はチクリと痛んだ。

傷つけたりしなかっただろうか。

「熱、下がったんだな」
「は、はい、おかげさまで……」

下を向いて、目を伏せた。なんだ、熱をみたのか。びっくりした、と佐々木が思うと同時に、間髪入れずにこう言った。

「カレー、作ったの」
「ちょ、調子よくなったんで……」
「無理しなくても良かったのに」
「そ、そういうわけにはいきませんよ!上島さん、仕事して帰ってくるのにその上ご飯まで…!」

珍しく声を上げた。本当に生真面目な男だなと、上島は思う。尤もそういうところが好きになった理由の一つなんだけど。

「カレー…、嫌いな人ってあんまりいないと思うんですけど、ど、どうですか?」

佐々木の言葉を聞いて、上島はクスッと微笑を浮かべた。どうやら、このカレーは佐々木が自分の好き嫌いを考慮して作ってくれたものらしい。そう思うと、目の前のこの男をギュ〜ッと抱きしめたい気分になったけど、そこはちょっと遠慮した。でもこれぐらいは言ってもいいかな。

「好きだよ」
「え」

あんまり上島のまなざしが真っ直ぐこちらを向いていたの、佐々木は心臓が止まりそうなほど驚いた。何だ?愛の告白か?!

「カレー」
「あ……」

カレー。なぁんだ……。されてもちょっと困るけど、勘違いした自分の方がよっぽどマヌケで恥かしい。

バツの悪い顔を赤くして俯けると、上島が後ろから通り抜けざま、佐々木の後頭部をクシャクシャ撫でた。

「……」

イヤじゃない、どころか、なんだか妙な気分になってきた。

(ドキドキする……)

昨日まであれほど恐いと思っていた人なのに、ちょっと…いや、かなりだが、優しくされたぐらいで我ながら現金だ、と思う。

ボンヤリとそんなことを考えていたら、皿やらスプーンやら、すっかり食べる支度を整えた上島が、台所の隅っこに突っ立っている佐々木を呼んだ。

「おい」
「わ!」
「……そこまで驚くか」

あからさまに不機嫌な顔をして上島は言った。

訂正。やっぱりちょっと恐いです。

 


back<< novel top >>next




 

SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO