― セ ピ ア ―



正面玄関を入った、左の廊下を曲がったところの1階階段横にある、喫煙所を兼ねた休憩室で、佐々木は壁伝いにあるいクリーム色した横長椅子にポツンと一人で腰をかけた。横に人がいて、ようやく聞こえるだろう程度の小さなため息を吐く。

佐々木は、廊下とは違うクロスで貼られた明るい茶色のフローリングを、ただぼんやりと見つめていた。犬養に声をかけられたあの3階のフロアに所属する自分の部署があったのだけど、今すぐ戻る気には毛頭なれなかったのだ。

この4日、佐々木はこの会社で沢山の人に会った。当たり前だが、出会う人々は皆自分のことを知っていて、決まって最後に同じ言葉を口にするのだ。

『早く、記憶が戻るといい』―――。

多少の社交辞令も含まれているのかもしれないが、この言葉が佐々木に与える心理的な重圧は大きい。自分が何者なのかを佐々木はちゃんと覚えているのだ。

失くした記憶に埋没されていた21の佐々木の表面化。現在までの記憶が途切れただけで、今、ここにいるのは紛れもなく、当の佐々木本人なのだ。記憶が戻れば良い、ということは、今の自分は要らないということか?

佐々木は2回目のため息を吐くと、両の手のひらで俯けた顔を覆って、ギュッときつく目を閉じた。

居てはいけないのか。

どれぐらいそうしていたのか。ふとした気配に気がついて、佐々木は顔を覆った指の隙間から、どこかで見たことがあるような紳士靴が視界に入った。尤もローファだか ユーチップだか、黒か茶色か、一般的なビジネスシューズの範疇にあるデザインに、遠目から誰が履いてるかだなんて区別がつかない。佐々木はゆるゆると顔を上げた。

「上島さん……」

両手をスラックスのポケットに突っ込んで、椅子に座った佐々木を見下ろすように立っている。思わぬ上司の出現に、佐々木は慌てて立ち上がった。

「す、すいません!今戻ろうと……」

言いかけて、上島の物言わぬ視線が佐々木の言葉を妨げた。本の少し傾けた首が、幾分高い上島の目線を下げて佐々木に少し近くなる。

「どうした?」
「え、あの……」

顔に何か出ていたか。佐々木は右手のひらで、頬を擦った。それでも視線を逸らさない上島に、恐る恐る聞いてみた。

「あの……俺の顔に何か付いてるんですか?」
「ショボショボだ」
「ショ……」

ショボショボって……。言いかけて佐々木はハッと言葉を止めた。覗き込むような姿勢の上島が、一歩近づいて、自分との距離が迫ったからだ。

「あ、あの……」

戸惑うような佐々木の言葉に間をとって、上島はゆっくりと目を細めると、静かな声でこう言った。

「辛いか?」

衝撃の一言だった。辛いか?

「ここに居るのが辛いか?」

再度繰り返した上島の言葉を聞いて瞬間、佐々木の目からボロボロと涙が零れた。

『早く記憶が戻ればいい』。居場所を失くしたも同然の佐々木は、この他愛ない社交辞令のような挨拶に精神的に追い詰められて、もう、一杯いっぱいだったのだ。一度溢れてしまうと止まらなかった。

顔を俯けたまま、小さく声を殺して肩が震える。

「お、俺は……ここに居ちゃ、い、いけないんでしょうか……」

最後の方は、上島の耳にはほとんど聞こえてはいなかった。それでも、何を言おうとしてるのかは十分わかる。

上島は肩を包むように、そっと手を置くと、左90度に体を向けて、自販機のある壁際に佐々木の背中が着くようにゆっくりと足を出した。廊下側に向けられた上島の背中で、廊下を通る人からも、階段を下りてくる人からも佐々木を隠す。意図に気づくと、佐々木の涙はいよいよ止まらなくなった。

「……ふ……っ」

5分も、10分も顔を上げない佐々木の前に上島は立った。安っぽい励ましの言葉なら最初からいらない。上島は終始無言でそのままだった。

ボトボトと格好悪く涙を零しながら、佐々木はようやく気が付いたのだ。上島は今まで一度だって記憶が戻ればいい、なんて口に出したことなんて無かったことを。

 

*   *   *   *   *   *

 

夢を見た。

夢の視界はカメラ自身が自分の目であり、霞んでいるのかどうなのか。色が薄くて反応がかなり鈍い。

目の前には二人の男がテーブルを挟んで向かい合っていて、仲良く雑談なんかをしている。よくよく見ると、その内一人は自分だった。向かいの男は上島洋介。

夢の中でカメラは自分自身なのに、遠めに自分を見つめたりなんかするのはよくあることで、それを普通に感じてしまう違和感すらも消してしまう。

ぼんやりと、二人を見つめた。向こうにいる自分が笑ったり、目の前にいる男にひどく楽しげに声をかけたり…こんな自分実際にはありえない。

ふいに視線に気づいたように夢の中の上島がこっちを向いた。あ、上島さん……。思うと同時に上島の視線はすぐに目の前の佐々木に戻された。まるで何も見なかったように。

よくある夢だけど、実際夢の中にいる時には、こんな不可解なシチュエーションをちっともどころか、全然不自然にも思わない。それでも、なんだか酷く独りポツリと取り残されたような気分になって、視界が揺れた。

気が付くと、さっきまで遠目から見ていたはずの自分の視点になっていて、それもすらも容易に受け入れてしまう。目の前の上島はすでになく、取り残されたような孤独感は 変わらない。

なんだかボロボロ涙が出てきた。数分程度そうしていると、後ろからバウバウと、大きな犬が吠えてる声がする。後ろを向いたらそれは大きなシェパードだった。必死にこちらを向かって吠えていて、そのうちに犬の声が、人間の言葉にとって変わって、「佐々木!」と懸命に呼んでいるのに気が付いた。

が、実は実際呼ばれていたのに気が付いたのは、それから犬に5回呼ばれてからだ。

「…木、佐々木!おい、大丈夫か」
「え……?」

朦朧とした声を上げて、佐々木は横になったまま、ゆっくりと両目を開けた。目からはみっともなく涙が溢れていて、でもそれは体の不調を訴える涙だと、それもその時気が付いた。

「あ……?」

上から真剣な表情で覗き込むような上島の顔が視界に入る。しんどいのか?大丈夫か?と、口々にまくし立てながら、タオルで佐々木の目元を拭いた。なんだかぼうっとしていて、置かれた状況が分からない。

「驚かすなよ、夜中にうんうん唸るから覗いてみたら……ほら」

差し出された体温計を、ぼんやりとした頭で手に取った。上島が顎をしゃくると、ああ、測れってことか、と理解して、ようやく佐々木は右腕の脇の下へ体温計を差し入れる。

電子体温計の測定温度は、最も正確、と言われる水銀のそれより高めに数値がでるけど、1分以内に測れてしまうのが非常に便利だ。ぼうっとしてると、上島が額に冷たい手を当てた。気持ちいい……。

「……高そうだな」

呟くように上島は言ったが、朦朧として応える気力もない。涙目で目線を送ると、それに気づいた上島は、やっぱり何も言わずに額の髪をクシャクシャ撫でた。 小さな子供のように、こんな風に髪を撫でられるのって何年ぶりだろうと佐々木は思う。言ってる間に体温計がピピッと鳴って、上島の手が額からあっさり外れた。

「38度2分……幸い今日は休みだ。そのまま寝とけ」

上島がチラっと柱に掛かった時計を見たので、佐々木も釣られて視線を上げた。午前5時。

カーテンの向こうはまだ真っ暗で、冬の一番寒い時期だからさっぱりと時間が読めない。ファンヒータで暖かくなった室温が、結構な時間、上島が佐々木の部屋に居たことを裏付けた。

「迷惑かけて…すいません……」
「お互い様。俺が倒れたら看病しろよ」

上島はそう言って苦笑すると、立ち上がって背中を向けた。どこに行くんだろう。思ってそのまま見ていると、襖の向こうの台所に入ってスポーツ飲料水を持ってきた。そのまま無言で枕元に置くと、やっぱりそのまま背を向ける。その背中を見つめながら佐々木は、さっきのシェパードは上島だったことに気がついた。

 


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