― セ ピ ア ―



1月6日。翌日は寒いながらに快晴だった。

一方で佐々木といえば、無事会社に出社したものの、記憶を失くしてから初めての出勤で幾分ばかりの不安が残る。家を出てから会社に着くまで上島は一言も喋らなかったが、時々こちらに向けるモノ言わぬ視線が微妙なところで意識させた。

佐々木の勤めている総務というフロアは職業柄女性が多い。席につくやいなや、瞬く間に5人の女性社員に囲まれて、それはもう異性にはほとんどといって免疫のない佐々木にとって衝撃の出来事だったのだ。しかも、それぞれ美人ときている。それでも。

「佐々木くん、頭打ったんだって?」
「大丈夫?」
「うわー、包帯が痛々しい!」

等など、一斉に言われたものだからたまらない。しかも向こうは自分のことを知っているのに、こちらには見覚えのない人ばかりで、対応にも非常に困る。何から返していいものか……。佐々木は困った顔で答えに窮した。

「あ、あの……」
「あっ、そっか。記憶失くしちゃったって話だもんねえ」
「はぁ……」
「私のことも忘れちゃった?」
「す、すいません…」
「大丈夫よ、仕事のことは私たちがフォローするから!安心してね!」
「お、お願いします…」

勢いに押されて、佐々木の上半身は椅子の背凭れがギシと悲鳴を上げるほど仰け反った。マシンガン……。

キャスターの付いた事務椅子は、気が付くともうすぐ後ろにいる上島の前まで押されていて、ストップをかけるように突然、肩に触れたその手のひらに、佐々木は飛び上がるほど驚いた。

「ひゃっ!」
「おい、あんまり苛めるな」

上島の低い声がすぐ耳元を通過した。

「苛めてなんかないです、心配してるんですよ〜」
「ビビってるようにしか見えんけど?」

上島が苦笑すると、女子社員が一斉に佐々木を見た。女の人は好きだけど、こうやって囲まれると非常に恐い。しかも上から見下ろされてたりなんかして…。

「え…あ、あの……」

両手を行儀良く膝に置いて、小さくなるように上目遣いで佐々木は肩をすくめた。

「はっきり言えよ。どうですか、ウチのお嬢さん方は」
「え、えっと……」

佐々木は少し俯いて考えたように数秒黙って顔を上げた。

「キ、キレイな人多いですね」
「きゃーーーーーーっ!」

佐々木の言葉に、女子社員達は黄色い声を思わず上げた。

「ああん、もう佐々木くん、可愛いなあ!これあげる」
「私も〜」

そう言って次々と、クリーム色した事務服のポケットから何かを取り出し、佐々木の前に差し出した。思わず出した両手にチョコレートやら飴やら、出るわ出るわ……あっという間にその手のひらに山盛りになった。昔聞いた「女の子は砂糖菓子で出来ています」という語源は、こういうところからも来ているのかもしれない。

「あ、ありがとうございます……」

貰った菓子をマジマジと見つめて、躊躇気味にそっと受け取る。後ろで上島が肩を震わせてクツクツ笑った。

「な、なんですか」
「仕事でチョンボしたら、すぐに恐いオネエサマになる」
「怒りませんよう」

女子社員の言葉と同時に、仕事始めのチャイムが鳴った。

「ほらほら、仕事に帰った帰った」

追い払うように上島は右の手を振った。はぁい、と口々に言って女子社員たちがパラパラと自分の席に戻っていく。その内一人が思い出したように振り返り、佐々木に言った。

「お大事に。早く記憶戻るといいわね」
「…………。そうですね、ありがとうございます」

佐々木は淡い笑いを浮かべて言った。

 

*   *   *   *   *   *

 

「一人?」

12時を少し過ぎた喫茶店で、馴れ馴れしくかけられた声に上島は、訝しげに顔を上げた。

「よっす、久しぶり。ついでにあけましておめでとう」

そう言って、男は上島の承諾を得ないまま、独特の憎めない図々しさで目の前の椅子に当たり前のように腰をかけた。

「何が久しぶりだ。一昨日初出式で会ったろうが」
「そうだっけ?総務はそういう時忙しいからゆっくり話も出来ないじゃん」
「黙れ桂木」

不愉快さを隠さない表情で上島は眉を顰める。桂木は左の手のひらに顎を乗せ、言われても動じない表情で、ニヤニヤと笑ったままだ。上島はゆっくりと目を細めた。

コイツの人を食ったような、それでいて軽いこういうところが実は苦手だ。尤も相手も同じようなことを思っているのだが。

と、一触即発のようなところで、店のウエイトレスがやってきて、桂木の目の前に水とメニューをコトリと置いた。

「お決まりになりましたらお呼び下さい」
「あ、サービスランチ。コーヒーで」

メニューを一度も開けぬまま差し出すと、ウエイトレスはそれを受け取りながら復唱して踵を返した。

「今日は佐々木ちゃんは一緒じゃねぇの?」
「『ちゃん』とか馴れ馴れしく呼ぶな」
「おお、こわ……」

嘘を付け。顔が笑ったままなのだ。

「お前こそ今日は田嶋は……って、田嶋の方がイヤだよな。こんな頭の悪いゴールデンレトリバーみたいな男」
「おい、心の友になんちゅう形容詞を……」

上島は特別 『心の友』 のところを強調して無視すると、テーブルの上のコーヒーカップに手をかけた。

「おい、ところで本当か。佐々木ちゃんが記憶喪失になったっていうの」
「本当」

一口飲んでカップを置く。上島は淡々と答えたが、それが返って桂木の関心を大いに引いた。

「お前、よく落ち着いてられるなあ。覚えてないんだろ?」
「3年ほどだ。大した期間じゃない」

大した期間じゃん。桂木は上島の目の前で、むっと目を細めた。

3年といえば、上島と出会った時間がまるまる抜けている計算になる。自分なら到底耐えられそうもなく、とりあえず押し倒してるだろうな、と桂木は思った。尤も田嶋はある意味貞操観念が薄そうだから、あっさりと寝てくれるとも思うけど。

「クール…」
「記憶だけない恋人は愛せないか?」
「あ、そういう見方ね。もちろん愛せるとも」

桂木はニッと笑った。

「だろ」
「ただ自分を覚えてないっつーのは…それはちょっと寂しいなあ」

他を全部忘れても、自分のことだけ覚えてもらってる方がうんとドラマチックだ、と桂木は大真面目に頷いた。そんな巧い記憶の失くし方があるか…。

上島は呆れた視線を桂木に投げかける。

「本当は全部失くした方が良かったかも」
「は?」
「中途半端な記憶の分だけ宙ぶらりんだ。俺はそっちの方を心配してる」

上島はそう言うと、伏せ目がちに瞼を落として俯いた。

「おいおい、そういう憂いを帯びた顔も中中いいけど、落とせる可能性がグっと減るぜ」
「かもね」

そう言ってニヤっと笑ったその顔に、隠した自信が見え隠れする。全く喰えない男だな、と、桂木はむっとした顔で目を細めた。

「まあそういうわけなんで」

上島は自分のレシートを取って席を立った。入れ違いに桂木の注文したサービスランチを運んできたウエイトレスとすれ違う。

会計前まで来ると、上島は座っていた方向を指差して、あの男につけといてください、と言って、店を出た。

 

*   *   *   *   *   *

 

佐々木が年明けの火曜日に初めて出勤してからもう4日目になる。どうにか上島との事前学習が効いたせいか、はたまた女子社員達のフォローが徹底していたためか、それは定かではない。要領の悪い自分としては、結構スムーズにいってる方だと佐々木は思う。会社の業務に関して言えば。

「よっ」

19時過ぎ。通りかかった3階の廊下で、佐々木の後ろから声をかけてきたのは大学時代から付き合いのある営業の犬養だった。すっぽり抜けた記憶の中で、唯一、接点のある貴重な人物だ。

ところで最後に会ったのはいつだっけ。

大学の時は、ちょくちょく声もかけてくれたけど、社会人になってからは勝手も違うだろう。それに年始は外回りで営業担当者はよっぽど忙しいときていて、出勤してから2度ほど、それも短い時間に2、3言葉を交わしたきりだ。

「元気でやってる?」
「うん…まあ」
「なんだよ、しけた顔して…って当たり前か」

佐々木が困った顔で頷くと、犬養も苦く笑った。

「記憶、まだ戻んねえ?」
「全然……」
「そっか、まあ、デリケートな部分だもんな」

犬養はそういうと、包帯の外れた佐々木の頭をぐしゃぐしゃ撫でた。

「痛!あんまり触んなよ」
「あ、やっぱ痛い?ふた針縫ったもんなあ」

ゴメンゴメンと言いながら、犬養は手を離したが、廊下に誰もいないのを目ざとく確認すると、小さな声で佐々木に言った。

「……なあ、上島とはどうなってんの」
「な、なんでそこに上島さんが出てくんの!」

思わぬ名前の登場に、佐々木の動悸が早鳴った。

「え、いやあー、だってさ」
「べ、別に何もないよ…」
「何も…」

ぽかーん、とした表情を犬養は浮かべた。あの、手の早そうな男が…。

と、佐々木の覇気のない表情がうっかりと視界に入った。まあ、確かにこんな顔した佐々木を強引に押し倒してもなあ…。

仕方がないか、と犬養は左手首を少し上げて、時間を確認した。

「おっ、もうこんな時間だ。悪い、俺もう行くわ。主任待たすとおっかないから」
「あ、ごめん、引き止めて」
「いいって。ま、早く元に戻るといいな」
「…………うん」

営業マンらしく姿勢を伸ばして、犬養は佐々木を追い越した。その後姿を見送って、佐々木は目を細めた。あんな背中、知らない。

佐々木が知ってる犬養は、もっと砕けた感じで、時間にもちょっとルーズでカジュアルな男だった。

記憶の接点であろうとも、、自分の時間の流れとは明らかに違うのだ。

 


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