― セ ピ ア ―


脳外科最寄の駅前にある、小さな時計台が正午を指した。そのすぐ真下にある、鈴鳴りになった小さなベルはちょっとしたからくりで、軽快な音楽に合わせて時間の数だけ鐘を動かし音を発する。

後ろの方では、盲人用信号機の音楽と、車のエンジン音、それと人の雑踏が、遠くで程よく紛れて、昼食をとりに行くのだろう、事務服を着た複数の女性や、スーツを着た男性の姿が行きかったりしていた。

目の前には3羽の鳩が。

「寒……」

佐々木はその時計が真正面に見える、植え込みの前に膝を抱えて丸まって、小さなため息を白い息と共に、一つ二つと吐き出した。 日中の晴れ間とは言え、冬真っ只中の1月の午後はまだまだ寒い。

今日はあれから2日経った1月5日。上島は朝から会社に行き、自分は念のための検査で脳外科へ。

脳派とCTスキャンの簡易な検査でも特に異常は認められず、佐々木をホッと安堵させたが、記憶の喪失は脳の専門家でもどうにもならないらしい。 こんなデリケートで曖昧な領域に、有効な治療法など一つもないのだ。

日常に支障が認められなければ、別に医者に通う必要もそこになく、それでも、自分の知らない時間が流れていて、その3年という時間は確かに存在しているのだ。佐々木は右も左も分からない生まれたばかりの子犬のま んま、ポツンと外に放り出された気持ちになった。

少しでもいい。今の自分に繋がるもの見つかれば、と、部屋にある待ち物、ノート、衣服……隅から隅まで全部かき集めて調べたのだが、一番生活に密接したメモ帳代わりにもつかう携帯は、3年前まで持っていた携帯と変わっていて、そのことについても佐々木を大いに落胆させた。

しかも、である。

新しくなった携帯にはカメラが搭載されていて、短い間に進化し続ける確かな時代の流れを実感させた。いや、それ以上に佐々木を驚かせたのは、その中に収められた数枚の 写真画像だったのだ。

佐々木はジーンズの後ろポケットから携帯を取り出すと、電源を入れ、初期画面を表示した。メニューを選び、写真フォルダをセレクトして表示された画像をゆっくりとスライドさせていくと、試し 撮りなのか、何の変哲もない風景や、一昨日行った会社で、同僚らしき人物達。それに紛れて、ある人物の写真が映し出される。

佐々木は数枚目のその一枚の画像に手を止めた。そこに映し出されたのは。

携帯画面を見つめたまま、佐々木はツッと目を細めた。他の誰でもない。上島洋介、その男だった。

佐々木は無表情のまま、数秒後、再び写真をスライドさせた。

ところどころに入った数枚の上島の画像は、恋人の写真を取ったというよりは、まるで盗み取りでもしたかのようなアングルで、目を合わさないものばかりという点が、正直佐々木を困惑させ る。

それは、3年後の自分が写真の中のこの男に明かな恋心を抱いていたことを、十二分に、それもリアルに感じさせるものだったのだ。

いっそ、目を合わせた写真なら、試し撮りや、スナップ写真として希望をもてたかもしれない。それでも、この目をあわさない写真の取り方は、恋に 奥手で臆病な、シャイな佐々木の性格を見事に映し出していた。

ただ、見ているだけでいい。

恐らく、3年後の自分は、恋人として上島の写真が欲しいと一言言うことが、ひどく恥ずかしかったのだ。

未来の自分のことなのに、知らない他人の片想いを盗み見たような、そんな気分にもなる。

佐々木は再び小さなため息を付いて、抱えた膝に額をつけた。

「はぁ……」

上島とのことは、もしかして記憶がないのをいいことに、担がれただけかもしれないと、記憶を失くした朝にうすらぼんやりそう思った。佐々木は男に興味はない。それに、上島から差し出される手も、言葉も、性的なものを自分に求める要素は感じられなかったのだ。それでも、だ。

『この中に俺の好きな佐々木がいる―――』

あの夜、上島はひどく真っ直ぐな目をして、はっきりと言いきった。距離、眼差し、空気、照明のあやふやさ。

シチュエーションはもとより、自分を好きだと言った上島の言葉には、女でなくともグっとくる。なにより佐々木は、上島の真摯な気持ちを知ってしまった。

「好き、かぁ……」

繰り返して呟くと、その言葉の意味に佐々木の意思も無視されて、思わず頬が上気した。

佐々木には生まれてこの方21年、愛を告白された記憶がない。大学の進学とともに自然消滅してしまったキス止まりの高校時代の彼女にしたって、自分が勇気を振り絞って告白したのだ。それでも、上島の放った『好き』と比べると、なんと薄っぺらく感じるものか。

(でも男同士だよ……)

その時だ。無気質な機械音がなって、佐々木の携帯をやかましく鳴りちらかした。無防備だった佐々木の体がビクッと震えて、慌てて携帯の画面を確認する。

『着信 上島洋介』

目の前の携帯がピルピルと音を立て、佐々木の鼓動がそれに合わせてバクっと鳴った。なんてタイムリーに電話をかけてくるのだ。

今しがたまで見ていた写真の映像が、佐々木の脳裏によみがえる。かすかに受信のボタンを押す親指が振るえ、その手に受話器をとることへのためらいが見て取れた。落ち着け―――。

佐々木は目を閉じて大きな呼吸を一つすると、受信ボタンをピッと押した。

「も、もしもし……」
『佐々木?上島だ』
「は、はい……」

声も上ずる。

『検査、どうだった。異常ないか?』
「な、ないです……」

あ、そ。素っ気無い返事が受話器越しに向こうで聞こえた。

『ところで今日な』
「今日?」
『うん、今日。8時には帰れそうだから晩飯外で一緒にどうだ?』
「は……」

上島と晩ご飯。わ、わざわざ待ち合わせて?そんなどっかの恋人同士みたいな……。

「え、えっと、でもその……」
『ちょっと仕事押してて、正直、家事をしたくないのが本当』

あたふたと動揺する佐々木の内心を見透かすように、上島の言葉が飛んできた。

『まあ、上司の俺に誘われて、普通断れないと思うけど?』
「!」

上島の、いつもどこかクセのある声を押し殺して笑う声が、佐々木のすぐ耳元で聞こえた。その声に、体の温度を上昇させる。

佐々木よ、分かりやす過ぎるのだ。

 

*   *   *   *   *   *

 

結局、佐々木は上島のご指摘どうり、上手く断れはしなかった。

いや、実際上島の方が何枚も上手の方を行っている。相手が悪かったというだけの話でもあるが、まあ、結局断っても家に帰ると部屋には居るのだから同じことか。

もうすっかり暗くなった会社最寄の駅の改札口で、寒さに肩を震わせながら、佐々木は上島を待っていた。約束の時間より10分前に着いた佐々木は、もう25分も待って いる計算になる。約束の時間は、当に15分ほど過ぎているのだ。

2日ほど生活を共にした同居人は、相当几帳面な性格だと思ったが、単なる自分の読み違えか?佐々木は思わず首をひねった。

「遅……」

うだる真夏の暑さの中でも同じように思うだろうが、1月上旬の夜の冷たい空気は相当辛い。

寒さで凍る白い息を、小さなため息混じりに吐き出して、佐々木はゆっくり目を閉じた。まさか事故とか……。

「悪い!」

もうすぐ横に、上島の声が聞こえて、大いに佐々木をびっくりさせた。

「わ!か、上島さ……」
「本当に悪い!出掛けにちょっとトラブルがあって…寒かったろ」
「あ、あの…」

佐々木の今にも消え入りそうな、小さな声に上島はハッと下を見た。

上島の手のひらには佐々木の手。

「あ、悪い……」

上島はその手を大げさに、それでいて素っ気無くもならいなように、そっと離した。走ってきたのか、肩が呼吸と同じペースで大きく動く。

「すぐ店入ろう。すぐそこの定食屋でいいか?」
「は、はい…」

腫れ物に触るのとはちょっと性質が違うけど、ふとした動作に上島が相当気を使ってるのが見て取れた。

(いつもはもっと……すごいスキンシップでもするんだろうか……)

佐々木は恐怖で、思わず喉をゴクリと鳴らした。いや、そういうことを自分に求められても酷く困るが。

数十センチ前を行く上島の背中を、佐々木は追った。薄いグレーのロングコートは、真っ黒い髪の上島に良く映える。178センチの長身は、そんな上島を一層目立たせた。なんでこういう人が自分のことを好きなのか、佐々木には皆目検討が付かない。

そうこう思ってる間に、二人は目的である定食屋に辿り着いたのだった。

「いらっしゃいませー!」

ドアを開けると、ほんわりとした暖かい空気と一緒に、威勢のいい店員の明るい声が飛んできた。さすがに大手チェーン。店員の教育に、相当力を入れてることを感じさせる。

「2名様ですか?」
「そう、2人」

頷きながら上島が答えた。

「お席は禁煙、喫煙とありますが」

どちらになさいますか、店員が訪ねると、上島は後ろを向いて佐々木に言った。

「タバコ、吸ってもいいか?」
「あ、は、はい。どうぞ…」
「喫煙席で」
「喫煙席2名様入りまーす!……どうぞ」

カウンターに向かって大声を出すと、踵を返し、ニコっと笑って、店員はその手のひらで右を指した。

「ご案内いたします。こちらの方のお席でどうぞ。メニュー決まりましたら、そちらのボタンでお呼び下さいませ」

きびきびと、簡素な物言いが気持ちいい。深々と頭を下げて、店員はその場を去った。出されたお茶が温かで、冷え切った佐々木の体をホッとさせる。

「あったか……」
「悪かったな、こんな冷えるまで待たせて」
「け、携帯ででも連絡くれたらよかったんですよ。そしたらすぐ前の本屋にでも…」
「携帯、ね」

上島は佐々木をジロっと睨んだ。

「……お前、電源切ってるだろ」
「え…あ!本当だ!」

取り出して携帯の状況を確認すると、佐々木はその場で顔面蒼白になった。きっちりと連絡が取れさえしてれば、上島だって、たかだか会社から15分の道のりを、こんな焦って走ってこなくても良かったのだ。

「あ、あの…すいません…」
「まあ、いいよ。最初に待たせた俺が悪かった。何食う?」
「え、ええと…」

安堵のため息をついて、佐々木はバサバサとメニューを広げた。しばらく考え込むように見ていた佐々木に上島は言葉を発した。変わったメニューに目移りしているのが一目瞭然。それでも、だ。

「トンカツ定食とか」
「は?」
「ハンバーグ定食とか」
「え?」
「親子丼とか」
「あの……」
「結局最後のところで佐々木は冒険心がないんだよな」
「!」

思わぬころで内心を見透かされた気分になった。

「だ、だめですか?」
「ダメって……」

上島は苦笑した。

「別に定番を選ぶのは悪いことじゃないさ。ハズレを引かさないための定番なんだし。俺、とんかつとねぎの味噌煮込み定食にしよ」

 

……結局、佐々木はオーソドックスに「トンカツ定食」を頼んだのだった。

こうまで言われたというのに、我ながら情けない…。それでも、目の前に運ばれたトンカツ定食はやはり定番だけあって、ハズレなし。美味い、と佐々木は思った。

「美味いか?」
「え?は、はい…」

本当に人の心を見透かすような…。上島の一挙一動にかなり動揺させられている。どうよ、自分…。

気恥ずかしげに佐々木は鬱蒼と目を伏せた。

「そう」

短く上島が答えて、佐々木は思わず顔を上げる。ところが!その先にあった顔にひどく佐々木はびっくりしたのだ。微笑を浮かべてこっちを見ていた。

「そう思ってんなら安心だ。佐々木が美味そうに食ってるの見てると安心する」

そう言って、上島が目の前でニコッと笑うと、そのまま佐々木は言葉を失った。なんと言ったら良いものか……。

「…………」
「なに」

急に食事の手を止めてこちらの顔に視線をとめた佐々木に、怪訝な表情を浮かべて上島は言った。

「いや、そんな爽やかに笑った顔って初めて見たもんで……」
「はあ?」
「あ、あの……」

佐々木は小さな声を出した。

「普通に笑えるんですね」
「――― ……」

この時、佐々木はちっとも気づかなかったのだけれど、一瞬上島は瞠目したのだ。同じようなことを言う。いや。

「然るべき、か」
「え?」
「なんもない。食ったら帰ろう」

ぶっきら棒にそう言った上島は左手で頬杖をつくと、何か考え込むように、細めた目を窓に向けた。

 


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