― セ ピ ア ―



正月の3日目にして今現在、佐々木と上島が向かい合って座っているところといったら!

実は花丸商事の3階、年末年始はとにもかくにも忙しい総務部のフロアだったりする。なんで昨日の今日で、しかも正月間もないこんな日に、仕事部屋なんかに来てるのか。理由はもちろん 、簡素なもんである。

「仕事のイロハをすっかり忘れた佐々木智弘の再教育」。

裏口にある管理室の住人が3日から出勤のため、事情を話して総務部の鍵を開けてもらえたのは本当にラッキーだった。で、なければ、わざわざ総務部長にでも電話して、ふたつほど線を乗り換えた自宅まで鍵を取りに行かなければならなかったからである。

初出勤にあたる5日の日は、再検査のため佐々木は脳神経科に行かなくてはならないから、できる限りやれることは手短にやっておいてしまいたい。

2年前、佐々木が総務に配属されてから、少しも変わらない席の並びで、誰が最初に作ったのか知らないけれど、センスの欠片もない単純な、『総務の流れ』と題されたA4用紙5枚目のページで上島は手を止め て視線を上げた。

「今までのところで何か質問」
「……」
「質問」

威圧的なドーベルマンを目の前に、可哀想に、小さなチワワは今にも涙が零れそうな有様で、資料を見たままじっとしている。

「質問」

念を押したように同じ言葉を繰り返すと、佐々木は気まずそうな上目遣いで上島の方に視線を上げた。

「……あ、ありません……」

なんで3年分もの記憶を失くした男が、2年近く前に渡した同じ資料を目の前に、同じ箇所で、そのまんま同じセリフを返すかな。妙な既視感も生まれるというもの。上島は思わず苦笑を浮かべた。

「質問がないんじゃなくて、何が分かんねえのか、分かんねえんだよな」

上島の言葉に一瞬佐々木はポカンとした表情を浮かべたが、3秒後にあっ、という顔をして、慌ててコクリコクリと頷いた。

ま、こんなもんだろうなあ。上島は困った苦笑を浮かべたまま、右手のひらで頬杖をつくと、そのまま佐々木の顔をジッと見つめた。

大なり小なり、どんな会社にも総務という仕事は付き物で、給与計算から勤務実績、その他もろもろ、数え上げたらキリがない。そのクセ会社の儲けの一つにもならない総務という仕事は、全体の数パーセントにも満たないひっそりとした部署なのだ。オマケに会社によって 、やり方がマチマチなもんだから、特別関心でもなければ専門学校や実務に着いた人間以外に、その業務の流れなんて、ちっともさっぱり分からないだろう。

「ま、いいよ。俺も最初聞いたとき、良くわかんなかった」

上島は佐々木から視線を逸らすと、静かな微笑を浮かべてページをめくった。

すぐには使えないだろうが、最低でも覚えて欲しいことは山ほどある。 特に来月中旬には、総務の一大イベントとも言える確定申告があるのだ。各支社から送られてくるだろう申告の、書類の山をチェックしなくてはならない。佐々木の再教育に時間を費やしているヒマはないのだ。

総務部というのはもともと「組織全体に関する事務を扱う職」のこと。悪く言えば雑用ではあるけれど、会社をスムーズに運営するために必要不可欠な場所だと言える。営業部に所属していた 時期もあるけど、毎月決まった業務と+αで、淡々と日々をこなす総務という仕事は結構好きだと上島は思う。

何気にふっと気づいて、上島は目の前の佐々木の姿にその視線をロックした。

何度見てもよく分からないらしい。こんな面白くもなんともない資料を、真剣な面持ちで顰めっつらをしたまま目で追う姿は、24の佐々木に於ける、元来の生真面目さを、余すことなく映し出した。さっきコピー機の説明をした時の驚き方といい、この要領の悪さといい、天然のボケぶりといい……本当に、配属されてきた時と少しも変わっちゃいやしない。

なんだか記憶を持ったままタイムスリップなんかして、こっちが過去に戻った気分になった。いつだって一生懸命な佐々木の姿は、上島をひどく優しい気分にさせるのだ。

左手で頬杖をついた上島は、その雰囲気を十分に感じ取れるように、ゆっくりと目を閉じた。

 

*   *   *   *   *   *

 

もう、店を閉め始めているところの多い、8時前の夜の通りで、3歩離れた上島の後ろをまるで影でも踏むように佐々木はトボトボと歩いていた。

何でこんなことになっているんだろう…。3年間の記憶を一切合切すっ飛ばされて、考えてもどうにもならないことを佐々木は思わずにいられない。

「あ、あの…!」

小さく呟くような声を佐々木は上げた。数歩前を行く上島が歩みを止めて、ゆっくりと振り返り、80cm程度の距離で向かい合う。

「なに」

その声は昨日、今日聞いた、相変わらずもぶっきら棒で素っ気無い物言いだったが、いつものような威圧感はない。ただ、眼差しだけは、仕事中のそれとは違い柔らかで、顔を上げた佐々木をほんの一瞬ハッとさせる。

「あ、あの……」

言い出すのを戸惑う佐々木の言葉を、子供の意見を伺うように上島は首をほんの数度、右側に少し傾けた。

「どうした」
「……上島さんは、どうしてそんなに良くしてくれるんですか?」
「良く?」
「ご、ご飯食べさせてくれたり、会社の面倒見てくれたり……」
「一人で食うのも寂しいし不経済だし、会社はお互い困るから面倒見る。当たり前だが?」
「き、記憶が!」

間が開いてしまわないように。無意識に佐々木は声を大きくした。

「ちゃんと戻るかどうかも、分からないのに……」
「……そうかもな」
「3年後の俺はどうか知りませんけど、俺があなたを好きになるのかどうかなんて、わ、わかんないですよ…」

搾り出すような言葉を、一生懸命出しながら佐々木は段々と俯いた。恥ずかしくて視線なんか合わせられない。

だが、見えなくたって上島の視線が、俯いた首の辺りに当たるのを佐々木は感じた。なんで自分がこんな、必死に弁解するかのようなことを言っているのか……恐いし、情けないし、正直消えてしまいたい。

そんな佐々木の様子を、上島は表情のさっぱり読めない顔立ちで見ていたが、数秒経ってゆっくりと、口を開いてこう言った。

「どうして砂漠があんなに美しいのか知ってるか?」
「え?」

急に振られた訳の分からない話に、佐々木は間の抜けた声を出して顔を上げた。そのまま真っ直ぐに当たった上島の眼差しは酷く強くて、佐々木の時間をその場に止める。

「砂漠がどこかに、井戸を隠しているからだ」
「あ、あの……」
「頭が覚えていなくても、この身体のどこかに俺の好きな佐々木がいる」

上島が無表情なまま真正面で目を細めると、佐々木の心臓がバクっと大きな音を立てた。静かな商店街に響く上島の低い声は、佐々木の脳内の思考の総てを停止させる。酷く驚いた佐々木の顔はそのままに、上島は 淡々と言葉を続けた。

「俺は24の佐々木に繋がる今のお前も十分好きだよ。記憶があるとかないとか……俺にはそういう問題だ」

それだけ言って踵を返すと、上島は向かっていた方向に再び歩き出した。佐々木はそんな上島の後姿を、ただ、白い息を吐きながら見つめるだけしか出来なかったのだ。

 


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