― セ ピ ア ―



とんでもない事になった、と犬養は思う。

もはや日も沈み、真っ暗になった空の下に佇むマンションの目の前で、佐々木と犬養は途方にくれた。時計の針はもう夜の9時半を指していて、もうさして早くもない時間が余計に二人暗鬱とした気分にさせる。本当にどうしよう。

うっかり自分が誘った初詣の帰り道、こんなことになるなんて…。上島に殺される、と犬養は絶望的な雰囲気を隠せない。小さなため息を付き、落ち着かない気分のまま犬養は一歩一歩と階段を上ったのだった。

 

「一時的な健忘……記憶喪失ですね」

救急病院の当番医はあっさり言った。ちょっとした見当識を行ってみると、どうも今から3年程度の記憶だけがすっぽりと、佐々木の頭の中から消えてしまったようなのだ。つまり今、目の前にいる佐々木は24歳の佐々木なのだけれども、その中身は21歳の佐々木だということになる。21歳の頃といえば大学の3回生辺りで、社会人となった今の環境とはかけ離れすぎて佐々木としては想像の一片すらも思いつかない。結局、記憶の回復を促すべく今の佐々木を取り巻く現状を伝えても、思い出す気配の一つも現れはしなかったのだった。

今日は年も明けたばかりの1月2日で、病院はどこもかしこも開いてはいない。後日脳外科に行くよう指示されて、今日はひとまず帰って来たのはいいけれど、これからどうしたらいいかだなんて皆目見当もつかなかった。

ドアの前まで来ると、犬養は自分より6センチほど小さい、痛々しく俯く佐々木に視線を向けた。病院からの帰り道、一言だって口を訊かない。当たり前か。3年間もの記憶をばっさり抜かれて、平気な人間がこの世の中にいるものか。

「なあ……大丈夫か?」
「分かんない……」

頼りなげに佐々木は言って、頭の包帯が痛々しさに拍車をかける。思わず犬養は眉を下げた。

「あんま考え込むなよ」
「うん……」

労わりの意も込めて、犬養は佐々木の肩に右手を添えるとドアの中に入るようにと促した。しょんぼりと促されるままに佐々木はドアを開いて中に入ると、玄関の明かりを灯す。

「……?」

入った瞬間、何かが違うと思った。佐々木は反射的にキョロキョロと周りを見渡し、犬養が不思議に思う。

「どうしたんだよ」
「え、うん…。ここ、俺の部屋だよね?」
「おいおい、自分んチも忘れたのか?しっかりしろよ」

犬養はそう言って佐々木の肩を叩いたけれど、そうだったかな。犬養が答えても、佐々木は釈然としない様子で首をかしげた。

下駄箱の位置、玄関の照明の明るさ……。自分の記憶から3年後の、それでも以前と少しも変わっていない風景なのに、まるで知らない空間のような気がしてたまらない。佐々木は思わず眉をひそめた。

抜け落ちたのはたった3年間の時間だけなのに、この足元の頼りなさはなんなのか。つい数時間前までは自分も同じところに確かにいたはずなのに、今はたった一人取り残されたような、そんな孤独な気分にもなる。玄関を通り抜け、その奥の扉を開くとその気分は一段と高まった。

「うわ…、なんかいろいろ物が増えてる…」

佐々木は呆然と辺りを見回した。自分の趣味でない雑誌とかCDとか、ジャケットとか…。ふと、部屋の続きにある台所にも視線をやって驚いた。小さな食器棚の中に見慣れぬ箸や茶碗が真ことしやかに、確かな第3者の存在を主張していたのだ。こんなの、知らない。

「なあ、俺、誰かと……」

佐々木がポツリと呟いたので慌てて顔に視線を移すと、いかにも不安げで頼りなく、今にも泣き出しそうな表情が犬養の脳を直撃させた。

不謹慎、と思ったけれど、思わずにいられない。

(か、可愛いかも…)

もうとっくに時効になってはいたけど、いつだったか、犬養は佐々木に友情以上の気持ちを抱いていたことがある。尤も今だって、抱いているのは限りなく愛情に近い友情だったりするのだが、さすがにこれにはキュンときた。

「俺、誰かと住んでたりする?」

不安を隠せず呆然と呟く佐々木を真横に、犬養の脳裏によからぬ妄想がフツフツと沸いてくる。もし、今ここで、何も知らない佐々木に愛の告白をしたらどうなるだろう?犬養は佐々木の肩にがっしりと両手をかけた。犬養の鼻息の荒い勢いに佐々木も驚く。

「え?あ……な、何?」
「お、お前は俺が…いや、俺と……!!」
「ほーう、お前と何」
「!!」

馴染みのある低音に犬養が恐る恐る振り向くと、そこには見知った男の冷ややかな目がこっちを見ていて、飛び上がるほど驚いた。

『今日……』

そうだった。騒ぎで忘れていたけれど、今日は島根の実家から上島が帰ってくる日であったのだ。

上島は首を傾けてそれでいて、4センチほど高い目線から威圧的に犬養を見下ろした。思わぬ男の登場に思わず犬養の喉がゴクリと危機感迫る音を立てる。恐い……。犬養は上ずりそうになる声を抑えてやっとのことで言葉を発した。

「か、上島……い、いつ帰って…」
「今」

上島は素っ気無く、低い声でそれだけ言ったが、佐々木はただただ驚いた顔でそんな二人の有様を交互に見ていた。どうしていいのか分からない。 上島は佐々木の腕を掴んで引っ張ると、力強く犬養から引き剥がした。

「頭、どうした」

そう言って大事なものを触るように右手を頭に差し寄せたが、そこまでしといて上島の腕がそのままピタリと動きを止め た。上島が差し出した手のひらに、瞬時に佐々木が顔と体を固くしたからだ。

「おい……」

いつもなら人懐っこく笑うその顔に、怯えにも似た表情を垣間見る。上島が何か言葉を吐き出そうと、口を開いたと同時に佐々木が言った。

「犬養、この人、誰?」
「…?おい。佐々木、何言って……」
「俺、知らないよ……」

不安げに見上げた佐々木の顔を見て、その時初めて上島の目が驚きに見開かれた。

「……お前、誰だ?」

 

*   *   *   *   *   *

 

多少の意識下かも知れないが、佐々木はいつも上島の前では自分のことを 『俺』 ではなく 『僕』 だと言っていた。

 

「いつの佐々木だって?」

上島はポケットからタバコを取り出しながら、二つしかないキッチンの椅子の一つに腰掛けながら足を組んだ。続けざまにライターを取り出して火を点ける。こんななんてこともない動作なのに、なんとなく格好良く見えてしまうのは整った顔立ちのせいかもしれない。上島の横にオブザーバーのように立ちながら、犬養は ちぇっ、と小さく舌打ちしながらぶっきらぼうに問に答えた。

「21」
「じゃ、問題ない」

上島はまるで興味がないようにばっさりと、切って捨てるようにそう言った。問題ない?本当か!犬養は食ってかかるように慌てて繋げた。

「おいおい、お前と会ってからの記憶もないんだぞ、本当か!」
「吠えるなよ。3年ならいい」

上島がチラリと一瞥すると、視線の先にいた佐々木はまるでドーベルマンに睨まれて怯えるチワワのように身体を竦めた。この人、めちゃくちゃ恐い…。佐々木は視線をあわせないように思わず慌てて俯いた。そんな佐々木を他所に、上島はあっさりと視線を外す。

「いいって……」

犬養は絶句した。そりゃあ佐々木は佐々木なんだろうけど、恋人に自分のことをキレイさっぱり忘れられたというのに、この落ち着きようはなんなのだ。ショックのかけらの一つもないのか。

周りにいる犬養の方がよっぽど関係の当事者のようにうろたえる。そんな犬養を横目に上島は続けた。

「問題なのはな、年明けの業務だ」

年明けの総務部は、素晴らしく忙しい。正月といえば年間で1、2を争う、年末から新年にかけた大型の連休なのだ。ただでさえ、月末月初に忙しい時期に重なる総務としては仕事始めのこの月は時間に追われる週だといえる。

その尤も忙しい時期に、今の今まで苦労して育ててきた佐々木の頭がイチから白紙というのは正直痛い。上島はタバコをくわたまま、不服そうに目を細めた。

「は……」

上島の言葉に犬養は呆気にとられた顔をした。今!大事な大事な恋人が、こんな事態に直面してるっていうのに、いきなり仕事の心配かぁ!?

「おい、上島!お前、心配じゃないのかよ!」
「十二分に心配してるさ」
「どこがだよ!」

犬養は鼻息荒く喰ってかかった。そんな風には到底見えない。

「あのなあ、プライベートな時間の怪我は労災だって下りねえし、こんな軽症じゃ休業だってとれねえの!そら一週間ぐらいは配慮してくれるかも知んねえけど、どれだけ待てば記憶が戻るかだなんて保証はどこにもないんだぞ!」

上島のその言葉に犬養ははっとした。言われてみればそうなのだ。記憶が戻るにしろ、戻らないにしろ、佐々木はこの先24歳からの佐々木として生きていかなければならないのだ。

「あ……」
「いつもの生活に戻れば思い出すこともあるかも知れん」

上島は目を伏せてタバコをもう一息吸い込むと、目の前の灰皿に押し当てた。

「でも……、お前佐々木の恋人じゃん。もっと、優しくしてやれよ……」
「!」

軽率な犬養の発言に上島は顔を上げた。バカ犬め!

上島は勢いよく椅子から立ち上がると、犬養の胸ぐらを掴んで真正面に引き寄せた。突然の暴挙に、まるで自分が怒られたごとくに佐々木はビクッと肩を竦める。

「アホ!余計なこと言うな!!」

上島は迫力ある小声の怒声で低く囁いた。ビビッた顔の犬養の顔は中々に愉快だが、今は楽しむ気分には到底なれない。ただでさえ、3年間の記憶を失って動揺しているのだ。つい最近まで男どころか、女だって知らない佐々木に、これ以上の負荷は勘弁させたい。

犬養は慌てて口を塞いだがもう既に遅かった。耳に届いた言葉は取消せないのだ。

上島と犬養は揃って佐々木に視線を向けたがその反応たるやいなや。

「恋人?うっそ……」

胸ぐらを掴んだまま、上島は横目で犬養をシラっと睨んだ。コイツ、いつか営業で墓穴掘るタイプだな……。
 
 


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