― セ ピ ア ―



「寒っ!!」

突然後ろから切りつけるように吹いた北風の冷たさに、佐々木は思わず紺のダッフルコートのフードから無防備に露出した首をすくめた。12月中旬を過ぎる頃まで今年は比較的暖たかだったから、と、タカを括っていたのだけれども、クリスマス前から冷え込みが急に増し、油断した、と佐々木は思う。

隣から追いかけるように 『寒みぃ〜!』 と頓狂な声を上げたのは、大学時代からの付き合いの、そして今年入社した会社も同期の犬養竜彦だった。

「風邪引きそう・・・」
「なんだよ、お前が新年早々初詣でなんかに行こうっていうから付き合ってんのに」

佐々木は不服そうに犬養に物申した。今日は平成16年の1月2日で、正月の早々ということになる。

「悪かったな…。そうだけどよ、上島のいない5日間の最後を有意義にしてやろうって親心をなんで否定するかなあ」
「お、親心!?」
「そ、親心。なんかもう上島に騙されてやいないかと心配で心配で!」

そこまで聞いて、思わず佐々木は絶句した。そりゃあ自分は童顔でトロくさいかもしれないが、もう24歳の立派な大人の男でもある。そこまで心配されないといけないものか……。

「よ、余計なお世話だよ…」

佐々木は顔を少し高潮させてキロっと犬養を睨んだが、少しの効果も得られない。そのまま視線を泳がせて仕方なく、佐々木は地面のアスファルトへと視界を固定させた。そんな佐々木を横目で犬養はチラリと盗み見て、苦笑を浮かべる。まったく到底、同じ歳の男とは思えない。

犬養は少し歩幅を狭めてペースを落とすと佐々木に言った。

「で、上島はいつ帰ってくんの?」
「今日……」

伏せ目がちに視線を落として、少し照れた素振りで佐々木は答える。目下佐々木の恋人である花丸商事総務課の上島洋介は、休みに入った3日目の朝早々と、島根の実家へと帰省した。面倒だ、と、ブツブツ言いながら上島は出て行ったりもしたけれど、なんだかんだ言いながら結局いつも定期的に実家へと顔を出す、ある意味親孝行な息子なのだ。

上島は本日1月2日のこの夜に、島根の出雲空港から帰ってくることになっている。だから、遠い帰省で疲れて帰ってくるであろう上島を、どうしても、あの部屋で出迎えてやりたかったのだ。程よい遠さで都心に家を持つ佐々木の実家には、気が向けばいつだって帰ることが出来るから、年に一度の正月の、素っ気無さも許して欲しい。

4車線に掛かった歩道橋に足をかけると、佐々木はそのまま階段を、一歩一歩とゆっくりと上がった。痛いぐらいに冷たくなった、ビル街に吹く風がピュウっと音を立てて佐々木の頬を刺すように撫でたが、しかしもう、そんなことぐらいで佐々木の気分を憂鬱に陥れることはもはや出来ない。心は既に、今日の夜へと飛んでいるのだ。佐々木は颯爽と顔を上げた。

「誰か、その男を捕まえて!」

突然、金切り声に近い女の悲鳴が上がった。歩道橋の向こうの端から、見も知らない男がこちらへと突進してくる。手には女ものの小さなバッグが持たれていて、さっきの悲鳴といい、ひったくりであることは誰の目に見ても明らかだ。 片側2車線しかない歩道橋の距離は短くて、想像以上のスピードで男が近づいてくる。縮まる距離は佐々木や犬養以外もの通行人の動揺を誘った。

「待って!」

呆然とした犬養と裏腹に、止めておけば良いものを、止めようとすれ違いざま佐々木はとっさに男のひじに手をかけた。しかし男の勢いは弱まらず、そのまま佐々木をひっかけるようにして階段を駆け下りようとする。

「ちょっと……あ!」
「佐々木!!」

はっと息を飲み、犬養は大声で佐々木の名を呼んだ。声は同時か。引きずられるように数歩よろめいた佐々木は、そのままバランスを崩し、男と二人で縺れ合うように陸橋の一番上から下までゴロゴロと落ちて行ったのだ。

下の歩道には騒ぎに駆けつけた若い男2、3人が集まって、佐々木隣に倒れこんだ、ひったくりの男を押さえつけた。

「おい!佐々木、大丈夫か、ささ……」

と、展開に慌てて歩道橋から駆け下りてきた犬養は、そこまで言って血の気が引いた。階段で打ち付けた後頭部から、歩道のアスファルトに血がべったりと付いている。

「おい……、佐々木っ!佐々木!!」

慌てて横にしゃがみ込んだ犬養は、気を失っているであろう、目を閉じたまま動かない佐々木の肩を揺すぶった。犬養のすぐ後ろで、ひったくりに遭った女性が大変なことになったと、顔面蒼白でスイマセンスイマセン、と何度も謝っていたが、それは犬養の耳には届いてはいなかった。尤もこれはその女性のせいでは全くなく、不運な事故というやつで返って気の毒すぎるぐらいだが、とてもそんな余裕の言葉をかけるどころではな い。

「君、揺すっちゃいかん!」

真横で一部始終を見ていたスマートな中年紳士が大声で犬養を制止した。医者の心得でもあるのか、はたまた医者か。その男は落ち着いた様子で佐々木の呼吸と脈を診ながら厳しい口調でこう言った。

「頭を打ってる、動かすな…救急車を!」
「は、はい!で、電話…」

突拍子もない出来事に手が震えて、上手く、携帯のプッシュボタンを押すこと出来ない。犬養はカチカチ震える右手をやっとのことでダイヤルさせた。

「けが人です、きゅ、救急車をお願いします!!」

受話器の口で、犬養は早口にがなった。

 

*   *   *   *   *   *

 

誰かに呼ばれたような気がして、佐々木はうっすらと目を開けた。

「……木さん、佐々木さん、聞こえますか?佐々木さん!」
「・・・・・・は・・・・・・」

小さな声を洩らしたが、頭がぼんやりして働かない。目の前では、白衣を着た30ぐらいの男が、佐々木の前で大声を上げて、佐々木の顔を覗きこんでいた。

「あ……」
「ここね、びょういん、です。病院。わかりますかー?」

意識を確認するかのように、顔の目の前で白衣の男は大きな声でゆっくり言った。横たわったベットの周りで、女性の看護士が佐々木の手首を取って脈を診ている。

ああ、びょういん…。頭で言葉を追ってはみたけど、上手く理解できたようには思えない。とりあえず頷くと医者も首を小刻みに数回振って言葉を続けた。

「佐々木さんね、頭打って病院に、連れてこられたんですよぉ。出血は酷かったけど、外傷は大したことありませんから、心配しないで下さい。今からちょっと、縫いますね」

縫う?何を。

働かない頭で考えて、さっき医者が言った『頭打って』、が符号としてヒットした。頭を縫われるような何かをしたっけ?それでも後頭部に感じる痛みは確かにそこにある。意識の返還と共に、佐々木の感覚神経が徐々に戻り始め、やがてはっきりと覚醒を始めた。それでも、今何故自分がこういう状況に陥ってるのかという答えは、ちっともさっぱり出てこない。

記憶の糸口を探しあぐねたまま、ふと、佐々木は視界の端に見知った顔の犬養の姿をようやく見つけてほっとした。心配げにこちらを見ている犬養を何やら気の毒に思う。実際お気の毒なのは、今現在、頭を縫われてる自分の方なのだろうが、そう見えるんだから仕方がない。

「まあ、頭部の外傷といい、意識の回復といい特に今のところ問題はありません。様子見にもう1時間程度こちらに待機して 、何もなければそのままお帰りなって結構です。ただ頭を打っているのでね、後日ちゃんとした専門の医者に診てもらって下さい」
「はぁ……」

医者が手早い処置を終えて、頭に包帯をぐるぐると巻きつけた。

「ええと、佐々木さん?名前、ちゃんと言えますか?」
「あ、はい。佐々木智弘……」
「住んでるところは」
「ええと、東京都……」

数点の質問を問われるままに佐々木は返した。その様を医者はうんうんと頷きながらこちらを見ていて、ひどく不安な気持ちにさせる。そんなことを思っていたら、診察室(であろう)の隅っこに居た犬養が寄ってきて、佐々木の後ろにサッとついた。

椅子に座ったまま、佐々木は犬養の顔に視線を上げる。犬養は目を合わせたまま目配せするように頷いた。

「年は?」
「21……」
「え?!」

答えたとたん、ぎょっとしたように、今まで横で黙って聞いていた犬養が口を出した。

「おいおい、しっかりしろよ。お前去年24になったんだろうがよ」
「ええ?お前こそしっかりしろよ。俺21だよ。先月誕生日だったし…」

犬養はポカンと口を開けたまま、佐々木を見つめた。
 


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