人でごった返す朝のラッシュ風景は、既に佐々木の生活の一部になっていた。ほんの数週間前までこんな風にスーツを着て、ごく当たり前のように会社に行くなんてことはなかったはずなのに、 我ながら不思議なことだと佐々木は思う。 向かいのホームを通過する電車の起こした生温かい風が、額の真ん中で分かれた佐々木の前外を勢いよく散らした。風圧に思わず眼を細める。ガタンゴトンと鳴る電車の音が瞬く間に遠くなり、ホームのすぐ横に設置された踏み切りが上がると、周りは再び人の起こす雑踏の音だけになった。 独特の雰囲気を持つ人間のざわめきが、薄いオブラートにでも包まれたように遠く感じて、一種の疎外感というか……なんだか本当に一人ぼっちみたいだ。 白い息を吐きながら、佐々木は少し俯き加減だった顔の角度をそのままに、ゆっくりと視線を下に落とした。 20センチほど前の右隣りには上島の背中。 『お前のことを、忘れたわけではないんだよ』 佐々木を見つめながら呟くように言った上島の言葉が、頭の中から離れてくれない。あの言葉は、記憶を失って、それでもどうにかやっとの思いで支えてきた佐々木自身の根底を、足元から崩し落とした。どうしてそれを受け入れることができるのか。 「……き……佐々木」 自分の名前を呼びかけた上島の声に、佐々木はハッと我に返った。駅のホームに停車した電車の扉が口を開いて待っている。 「す、すみませ…」 慌てて乗り込もうと足を出した佐々木の手を上島が引っ張った。 「!」 振り返って上島の方を見る。口元から洩れた白い息が、微かに流れる風に引っ張られて消えていくのが、ひどく印象的だった。 否、それよりも。 「あ、あの……」 こっちを真っ直ぐ見つめる上島の瞳の方が何倍も印象的だ。 佐々木の心臓がバクバクと大きな音をたてて、やたらと早くなった脈拍と、上昇した体温を感じさせる。それでも、絞り出すように掠れた声で言葉を続けた。
「で、電車が……」 疑問符をつける間もなく上島は掴んだままの佐々木の手首に更に力を入れて、入ってきた方向の階段へと向かって歩き出した。当然、佐々木の体はそれに着いていくわけで、素っ気無く向けられた上島の背中はの後ろを前かがみになった姿勢で引っ張られていく。 「デ、デートって……ちょっ、上島さん!」 佐々木は慌てた。 「どこがいい?」 と、言って上島は辺りのサラリーマンに目線をやりながら
「会社とは別の方向がいいな」 休むって! 間髪入れず帰ってきた返答に、頓狂な声を上げるところだった。予想外の展開だ。上島は気分の1つや2つで会社を休むような男ではない。それじゃあ一体何なのだ。 後ろでピリリリリ、と笛の合図が鳴って扉が閉まり、乗っていくはずだった電車の発車する音が遠くで聞こえた。 「かっ、上島さん……上島さん!」 2回目の呼びかけに大きくなった佐々木の声に、ようやく上島は立ち止まって振り返った。 「や、休むって、そんな簡単に…」 なにが言いたいのか、上島は表情を一つも崩さないまま佐々木を見ている。 「あ、あの……」 間髪いれずに帰ってきた佐々木の答えに上島は心外!という顔を隠さなかった。確かに仕事は好きな部類なんだけど、そこまで言われるほどじゃない。 「ま、仕事は好きだけどね」 まいった、という感じで、上島は右手のひらで頭を掻いた。 「俺にだって、仕事より大事なものぐらいあるさ」 佐々木とか、とは流石に言わなかったけど、このニブイ息子さんには分からないだろうな、と上島は苦い笑みを漏らしたのだった。
「あ、あの……」 返しながら上島はブリーフケースを右脇に抱えて、その手で反対側の袖をめくった。8時6分。ここから電車に乗り換えて、どこかに行くには少し早い。
「いいんでしょうか」 確かにそれはそれでそうなんだろうけど、なんだかなあ。 世知辛い。
「とりあえずお茶でもする?」 さらっと言った上島の顔を見て、この人本気だ、と佐々木は思った。さっきまでのはネタ振りでもなんでもなく、本気で会社を休むつもりなのだ。 呆然とした表情の佐々木を余所に、上島は背を向けて歩き出す。 「え、あ……ちょ、ちょっと!上島さん!!」 佐々木は慌ててその後を追いかけた。いいのかなあ、と思ったところで決定権は自分にはなさそうだ。 上島の背中を見つめながら佐々木は小さなため息を一つ付いた。
* * * * * *
よっぽどの田舎でもなければ、駅の周辺は適度にヒマを潰すための施設には事欠かない。24時間営業の大手チェーンのコーヒーショップだとかファーストフードだとか。 しかし上島が選んだのはごくフツーの喫茶店だった。手狭だけど、行き届いた雰囲気のある小さな店内。中にはサラリーマンとか、学生なんだかカジュアルな服装をした男性が離れて座っている。 カウンターから離れた席に腰を下ろすと同時にウエイトレスが水とお絞りを持ってきた。 「いらっしゃいませ」 2人掛けの小さなテーブルの端っこにメニューが立てられてあったけど、上島ときたらそれをチラリとも見ずに「ホット」、とあっさり口にした。 「あ…、カ、カフェオレ!ホットで」 そんな間髪いれずに決められたらこっちもすぐに決めなきゃならないじゃないか。 ウエイトレスがその場を去ると、佐々木は小さく息をついて、置かれた水を口に含んだ。 (冷た……) 真冬でもお冷には氷が入る。グラスの周りにうっすら付いた細やかな水滴が、指が触れた部分だけその本来の色を覗かせて、模様みたいだ、と、ぼんやりそんな事を思っていたらば 「何処に行きたい?」 上島の問いかけに、佐々木は思わず背筋を伸ばした。 「え、えーと……!」 キョトキョトと視線を動かして、何か行き先のヒントを!と言わんばかりのあけすけな行動だ。だって急にそんなこと言われたって、いきなりそんな思いつかない。 と、ふいに壁に貼られた広告に一瞬の間に瞳が止まった。
「よ、横浜とか……」 上島はニコッと白い歯を見せて笑った。いつも無愛想な顔をしてるくせに、思わぬところで見せる笑顔は極上だ。前に座った佐々木の心拍数を瞬く間に上げてしまった。 (好き、だって。ヨコハマだって事は分かるんだけど、何だか……) 自分に言われたみたいでドキドキする。尤も、それはそれで微妙で曖昧なところにいるのだけれど。 そんな事を思っていたら、さっきオーダーしたカフェオレとホットコーヒーがやってきた。 「ごゆっくりどうぞ」 上島はテーブルの端にある白いシュガーポットに手を伸ばすと、佐々木の前にスーッと寄せて蓋を開けた。
「3つ?」 2回ほどスプーンをポットの中でかき混ぜてから上島は、佐々木のカッに注ぎいれた。 1、2、3……。サラサラ落ちていく砂糖は見る間に茶色い液体の中へ飲み込まれていった。
「あ、ありがとうございます」 言葉身近にそれだけ言って、上島はフタを閉めた。 この人は俺を知っている。 しかもごく近い距離で。カフェオレに砂糖3つだなんて、そんな中途半端なさじ数、一体誰が知るものか。 グルグルとカップを回しながら、何だか佐々木は泣き出しそうな気持ちになっていた。目の前のこの男を覚えている自分は、今はどこにもいないのだ。
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