― セ ピ ア ―
16

 

駅構内のカフェを出て、二人が横浜駅に着いたのは9時半を少し廻った頃だった。通勤ラッシュは避けれたけれども、閑散とまではまだいかない。人波に流されるようにホームを歩き、二人は改札を抜けた。

「で、横浜のどこ行きたい?」
「え……!」

俺?

いきなりそんな事言われても……、と、そんな急な話でもない。ここへ着くまでに時間は充分あったはずなのだ。そうは言っても、生まれてこのかた、デートらしいデートなんかしたことのない佐々木にとっては重過ぎる課題には違いない。ましてや相手は同性の恋人なのだ。こんな時、どういうところへ行けばいいのだろう。

「え……、とその……」
「とりあえず、みなとみらい線に乗るかな……と、こっち東口か」

もうどうしていいのか分からない……、と言葉を詰まらせた佐々木に気づいているのかいないのか。 ふと、出口前の天井に吊された黄色い案内板を見ていた上島がポツリと口を開いた。

「シーバス……」
「はい?」
「シーバス乗ろう!俺、乗ったことない」

そう言ってなんの躊躇もなく佐々木の右手を引いて歩き出す。

(わ……!)

当たり前のように手を繋がれて、驚いたのは当の佐々木本人だ。デートなんだから当たり前、と言えばその通りなのかもしれないが、こんな公衆の面前で嬉しいやら恥ずかしいやら、正直そこんとこよく分からない。と、そんな中途半端に困った表情が出てでもいたのか、上島が急に するりとその手を離した。慌てて佐々木が俯けていた顔を上げると、身長分高い位置からこっちを見ている。

「やだろ、こんな人通りの多いところで」
「え……」
「男同士だし」
「!」

言われて初めて気がついた。自分たちは一応恋人なのだけど、世間一般から見ると異質な部類に違いない。

一歩遅れて、上島の後ろに着いた佐々木は小さく息を一つ洩らした。

上島の行った行動は正しい。多分、誰に聞いてもそう言うだろうし、自分自身もそう思う。頭ではキチンと理解できているのだ。だけれども、だけれども。

東口を下りて地下街へ、シーバス連絡通路に続くデパートの前に辿り着いた。が、営業時間は10時からで開店にはまだ少し間がある。ふと上島が 顔だけこっちを向けて人差し指で左を指した。正面入口の左、人形時計の裏側にエレベーターがあるらしい。

全体がガラス張りになったエレベーターで2階まで。すごい速さで地上を上がっていくのを目の当たりに体感できるこのタイプ、実は佐々木はすごく苦手だ。 部品のロープがぷっつりと切れて落ちたら……、というのをリアルに想像してしまう。尤も、エレベーターの落下だなんてそんな事故、佐々木の知る限りでは1件もないのだけれど。

2階に着いたエレベーターのドアが開くと同時に外の冷たい風がビュウッ!と吹き込んできて、佐々木は反射的に首を竦めた。温度は下と変わりないけど、風が吹くとずいぶん違う。

「寒みーなぁ」

上島はエレベーターの開ボタンを押して、佐々木に先に行くよう視線を送った。

「さすがの観光名所も平日は人、少ないのな」

エレベーターを左に出ると壁沿いにぐるりと進む。普段のメインルートであるデパートがまだ開店していないから余計になのかもしれないが、上島の言ったとおり人通りがめっぽう少なく 、なんだか寂しい。

エレベーターを出た時には横に肩を並べて歩いていたのに、ものの10mもいかない間に佐々木は上島より一歩遅れて後ろにいた。

だけれども、だけれども。

佐々木はゴクッと喉を鳴らした。

横浜ベイクォーターに向かう連絡通路の手前で、いよいよどうしようもない気持ちになって、佐々木は唐突に上島の袖をギュッと掴んだ。

「あ、あの……!」

驚いたのは佐々木が掴んだ袖か、その声の大きさか。上島は歩みを止めると肩越しに振り返った。

「ん?」
「手……」
「手?」

ビュウっと風が吹いて、冷たい木枯らしが佐々木の前髪を散らした。いつもなら思わず首を竦めてしまうような寒さだけれど、今は目の前のこの男の反応が気になってそれどころじゃない。

上島は突然袖を掴んできた佐々木の方に真正面に身体を向けると、俯いたまま掴んだ袖口を離そうとしない目の前の恋人のつむじをじっと見つめた。

「どうしたの」

上島の問いに、顔を上げないまま佐々木は小さな声を絞り出した。

「かっ、上島さんは、やなんで、しょうか……」
「え?」

よく聞こえない、と上島は耳を佐々木の口元に少し寄せた。

「そ、その……俺となんか、ひ、人前で」
「俺?……ああ、さっきのか」

上島は何のことか思い当たったような表情を浮かべると、近づけた頭を元に戻した。

「俺は全然やじゃないよ。それより佐々木が……」
「お、俺は!」

上島の言葉を勢いよく遮って数秒、佐々木は口を開いた。

「や、やじゃないです。むしろつないでほ……」

勢いよく放った言葉は最後には自信なく弱くなる。何という大胆な発言を。顔から火が出てしまいそうで、佐々木は両の拳をぎゅうっと握った。上島はしばらくそんな佐々木を見つめていたけど、数秒後(のち)に。

「じゃ、遠慮なく」

言って離した時と同じぐらいさり気なく、右手をするりと佐々木の左手に沿わせてきゅっと握る。自分より少し暖かな体温が、触れた手のひらから感じられた。

「あ……」
「行こっか」

一言言ってニコッと笑った。

「は、はい……」

こうゆう時、上島は本当に度量が大きいと佐々木は思う。自分みたいに自分だけの事で一杯いっぱいじゃないのだ。

デパートから伸びる連絡通路を、両サイドにある長いオートウォークに乗って通過して、間もなく目的地である横浜ベイクォーターに辿り着いた。店のオープンがまだなのか、 ここも人少なく閑散とし ている。

「発券所は……と、2階か」

連絡橋の先にあるゲート広場は3階にある。案内板にしたがって、二人はワンフロア下の2階へと足を進めた。

シーバスはベイエリアの名所を海から眺めながら、横浜の主要観光地を移動できる港町ヨコハマならではの海上交通船だ。横浜駅東口から山下公園までを結び、みなとみらい、赤レンガ倉庫にも乗り場を構える。

上島は左手の袖をずらして腕時計を確認すると、シーバスの時刻表に視線を移した。始発である10時10分の出航にちょうど間に合う。窓口で乗船券を買って、佐々木に一枚手渡した。

「あ、ありがとう、ございます……」
「どういたしまして」

言いながら上島は微笑を浮かべたが、佐々木は本当にこの顔に弱い。少し紅潮した頬を隠すように目を逸らして俯いた。もちろん、上島が気づいていないはずもなく。 かと思うといきなり顔を上げて、

「あ、あの……これ!」

右の拳を差し出した。乗船代700円。他人行儀というか、なんというか。でも、そういうところが佐々木らしい。

「いいよ、今日は俺が誘ったんだし」
「で、でも電車代も出してもらいましたし!」
「……気ぃ使う?」
「つ、使います」
「佐々木が気ぃ使っても、俺の気が済まないんだよなあ……」

会社をわざわざ休ませた。

上島は行き場のない700円を握り締めたまま、困った顔をした佐々木をしばらくモノ言いたげに見ていたけれども、何の気なしにいきなりサラっとすごい事を言ったのだった。

「ほんじゃこうしよ。解決策。100円毎に佐々木から1回チュー」
「え?」

聞き間違い?佐々木は上島の言った言葉の意味を何かの比喩かと解読しようと試みたけど、やっぱり答えは一つにしか行き着かない。

「え、あの……100円毎に……」
「キス。佐々木から」

やっぱり!100円でキス1回だって?しかも自分から?

「え……え……、ええぇぇえぇーーーー!?」

頓狂な声を上げたあと、必死な顔で佐々木は言った。

「たっ、高く、ない、ですか?」

高くないですかってお前。断る口実を必死に考えたんだろうというのは容易に分かる程、頭の中が真っ白になってるぞ、と、そんな事は十二分に分かってるクセに、上島はサラリと 言って返した。

「何で。舌入れろとか言ってないし。あ、舌入れるときは315円税込みにするから、一気に減るよ」
「し、舌……!あ、あの、それで、ささささんびゃく、じゅ、じゅうごえんっていうのは……」

もはや呂律も上手く廻らない。そんな佐々木の様子を何事もなかったかのように涼しい顔で上島はしゃあしゃあと会話を続けた。

「百均なんかでよくあるだろ。え、これが100円?かと思ったら『この商品は315円です』ってご注意下さいのシールがさ」

と、なかなか強引極まりない会話だが、上島は真面目な顔で佐々木をじっと見つめてなんかいたりする。3秒ほど見つめ合うカタチになったけれども、みるみる涙目になった佐々木が震える声で口にした。

「むっ、無理、ですぅ……っ!」

何がなんでも断るという選択肢は頭にないのか。実行したりはしないけど、強引に押したらあっさりホテルにでも連れ込めるに違いない。

今にも泣き出しそうな佐々木の顔を見ているうちに、上島は得意のポーカーフェイスを維持できなくなって吹き出した。

「ウソウソ、ウソだよ!」
「え……っ」

何でこんなセクハラ発言に引っかかるかな。真面目というか、なんというか。尤も、上島の言う事には絶大な信頼を置いている佐々木ならではの反応だと言えない事もないけれど。

「ああ、いろんな意味でメチャメチャ心配になってきた。ホント、ヤならはっきり断れよ?特に俺以外の男には」

警告をした本人が一番警戒しなくてはならない男なのだという事を、佐々木はもっと気づいた方がいいと思うけど、と、上島は心の中で思ったけれど、下心が見えないうちに話題を変える事にした。

「そろそろ乗ろっか」

出航時間がもう間近だった。結構時間ギリギリに乗り込んだのに、朝一番の横浜東口からの乗船は驚くほど人が少ない。まあ、そちらの方が都合が良いといえば良い。

桟橋を渡って船に乗り込んだ。船のちょうど真ん中が出入り口になっていて、観光にふさわしい天井にもかかる大きな窓が特徴だ。船体後部はオープンデッキになっていて、風を受けながら海の景色を楽しめる。どっちに乗るかと聞かれたら、ここはやっぱりデッキかな。

「俺、船ならデッキの方が好きなんだけど、佐々木はどう?」
「あ、お、俺もデッキの方がいいです……」
「ほんじゃ、外出よ」

上島はニコっと笑うと、佐々木の手を引いてデッキに上がった。同時に出航の合図が鳴って、シーバスが桟橋をゆっくりと離れていく。

乗り場の母体である横浜ベイクォーターが見る間に小さくなって、流れる海面の水面で浮き沈みする船に合わせて、安定を欠いた感覚のデッキフロアが上下に揺れる。 妙にふわふわした感じが変な感じといえば変だけど、気持ちが悪くなるほどでもない。風が耳元でビュウビュウ鳴って、スクリューで弾かれる水しぶきが間近に見えた。

真冬の潮風はめちゃめちゃに冷たいけれど、デートという名のイベント時には案外辛いとは感じられない。むしろ非日常的な光景が、そのドキドキ感を増幅させて、寒いとは思わないぐらいだ。ここから 山下公園までは20分ちょいぐらいらしいから、立ちっぱなしでもさほど大した事ではないだろう。

船のヘリに肘をついて、走った先から出来ては消えていく航跡を眺めながら佐々木は時々横目でチラリと上島の方へ視線を寄越した。

薄いモスグリーンのトレンチコートが風に吹かれてシルエットがずいぶんと恰好良い。上島ほど身長があると、長いコートがことさら映えて、同性である自分の目から見ても十二分に魅力的に見える。

ポートサイドを通過して、みなとみらいが見えてきた。海の上に浮かぶ群立した白い高層ビルが遠くにぼやけて一層美しい町並みに感じられる。

海風に吹かれながら、ふと佐々木は気がついた。朝、家を出る時にはどんよりと曇ってて、雨だか晴れだか分からない天気だったけれど、今は冬の緩い日差しが足元にぼんやりと影を作っている。

(今日は晴れ、だったのか)

今更ながらに気がついた。風が吹けば耳を切るように冷たいけれど、日が射せばずいぶん違う。

辺りを照らした光は、落ち込んでいた佐々木の心を少しばかり浮上させた。暗闇は、ネガティブになった気持ちをいとも容易く増幅させてしまうのだ。

(くよくよ考えるの、やめよう)

昔からの悪いくせだ。自分でどうにもならい事なんて、世の中にはゴマンとある。佐々木はまっすぐに顔を上げた。 と、そこに。

上島が物言いたげな表情で、こっちをじっと見てるのに気がついた。

いつから見てたんだろう、と顔を俯けてみたけれど、それから30秒経過した後もまだこっちを見ていたりなんかする。視線の先は明らかで、そのあからさまさを隠す気配は微塵もない。

(な、なんだろ……)

その後10秒も保たず、佐々木は上島のあからさまな視線と場の空気に耐え切れず、勇気を振り絞って声を上げた。

「あ、あの……!」
「いつ気づくんだろうと思って」
「え?」

短い言葉が口から洩れた後、何に……、と思うより前に上島の顔があっというまに近づいて、佐々木の唇を瞬く間(あいだ)に奪ってしまった。

「――― っ!!」

驚きのあまり言葉にならない声を発して、飛び上がらんばかりに背筋が伸びた。びっくりしたなんてもんじゃない。佐々木は、半ば反射的に両手で口を押さえた。

「……佐々木、真っ赤だ」
「ま!」

真っ赤にもなる。こんな公衆の面前で、手を繋ぐより断然ハードル高過ぎるだろ!

「……だ、誰かに見られたら、ど、どうするんですか……」
「なんで。誰もいないよ」

振り返って背後を見たなら確かに確かに。日曜祝日の満席でもあるまいし、理論的に考えたのならこんな2月の寒空に、20分も船のデッキに立ちっ放しという人間の方が珍しい 。佐々木は隣に並ぶ上島の方をチラリと見たけれど、当の本人は何事もなかったように、涼しい顔をしたりなんかしている。

その後すぐ、シーバスは経由地であるみなとみらいに停泊したけど、佐々木については正直、観光どころではなくなってしまった。顔を上げられなくて、自分の靴だけしか見ていなかったからだ。

 

船はあっというまに山下公園についた。

 


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