徐々に意識が回復を始めて、思考の回路がぼんやりとだが繋がり始めた。手も足も…大丈夫、ちゃんと感覚がある。ゆっくりと目を開けると、ただただ白い天井が、佐々木の視界の総てを占めた。 (……どこ?) 場所の確認をしようと、目だけを右の方へ動かした佐々木の視界に入ってきたのは。 「気がついたか?」 心配そうな表情をして、覗き込む顔には見覚えがある。 「上島さん……。俺……?」 ため息交じりに言って、上島は髪を掻きあげた額に手を当てた。 「ここ…、どこですか?」 自分が寝ているベッドの横にも、並んで似たような感じのが一つある。向こう側には医者が診察でよく使ってるくるくる回る椅子があって、病室、というよりは診療室に近い感じだ。
「会社の傍。大川内科」 佐々木はポカーンと口を開けた。でも……こういのってどこへ行くのが適切なんだろう。 「仕方ないだろ。花丸商事には医務室とかないんだから」 緊急受付して貰えただけでもありがたいと思え、と、上島は言いながら、座っていた椅子から立ち上がり、枕もとのナースコールを手に取った。
『佐々木さん、どうされました?』 プツっと音声が切れてナースコールを置くと、上島はどっかり椅子に腰かけた。ため息交じりの小さな息を吐いて、佐々木の方へと視線を移す。数秒置いて口を開いた。
「あんな風に……時々痛むのか?」 あの時までは。上島の手が髪に触れて、ドキドキして、頭が痛くなって、瞬間、何か見えたような気がするけれど、その記憶も今はもはや曖昧だ。 「そうか」 言って俯いた上島の顔を見て、佐々木は何か忘れてる、と思った。 「……あの、俺、何か……」 足元に、散らばる書類。 「!そうだ、資料!」 勢いよくガバっとベッドから起き上がった佐々木の肩を、上島は慌てて掴んだ。はずみで掛けてた椅子も転がって、結構な大きな音を立てる。
「アホかっ!安静にしとけ!!」 涙目になった佐々木の顔に、呆れた視線を上島は落とした。
「あのなあ、自分の心配少しはしろよ。ちゃんと総務の子に渡してきたから。ちょっとした騒ぎだったんだぜ」 騒ぎって。 一瞬微妙な顔をして、キョンとした表情を佐々木は浮かべた。 「疲れてんだよ。血液の血糖値がえらい下がってるって医者が言ってた」 上島が転がった椅子を立てながら、顎をしゃくって指した先には半透明にのパックに入った点滴がぶら下がってあって、管を辿っていってみたなら、その先の針は自分の右腕に刺さってなんかいたりして。 「……わあ」 こんなところに針なんて初めて刺した。そのまま数秒見ていたけれど、上島がこっちを真っ直ぐに見ているのに気がついた。その顔はいつもどおりの愛想のないものだったけれど、なんだか……。
「あ、あの……」 佐々木が何か言おうと口を開きかけたその時、引き戸が開いて、医者と看護師が入室してきた。 「気分とかどうですか」 さっきまで上島が座っていたベッド脇の椅子に、医者が腰をかけながら、耳に聴診器を差し込んだので、佐々木は慌てて体を起こした。
「痛いとことかないですか?」 軽い問診を受けながら、反対側では看護師が黙々と血圧をシュカシュカと測っている。 「はい。胸、開いて」 シャツの3つ目のボタンに手をかけたまま、佐々木の動きは止まってしまった。問診だし、別に恥ずかしがるようなことはないんだけど……。 少しばかり頬を紅潮させた佐々木がチラっと視線を送ると、それの意味に気付いて、上島は無言で席を外した。
「点滴終わったら帰っていいですよ」 診察を終えて席を立ち、前を通り過ぎた医者に上島が丁寧に頭を下げると、ベッドの上から佐々木も慌ててお辞儀した。パタンと、音がして、一瞬のうちにシンとした静寂に戻る。 「だ、そうだ」 言いながら振り向いて、上島は椅子に腰を掛けた。 結局、『記憶を失くしたまま』なこと以外は、特になんの異常も認められなかったのだけれども。 「ほら、もうちょっと横になっとけ」 上島の言う言葉に従って、佐々木はモソモソとシーツを被って横になった。 「あの……」 気にすんな、と、微笑を浮かべて上島は右手のひらで、佐々木の頭を軽く撫でた。 手櫛のように髪に入る指先の感触が心地良い。佐々木は体を横に丸くして、ゆっくりと目を閉じた。 「……」 この手のひらは覚えているのに、肝心の記憶が思い出せない。形になりそうだった映像は、走馬灯のように佐々木の前を駆け抜けて、遥か遠くへ行ってしまった。思い出すのを、拒んだつもりはない。 それなら、どうして? ボロボロと涙がこぼれて、佐々木は慌てて隠すようにシーツを肩から上に引き上げた。 とっさに隠したつもりだけれども、肩が震えて、泣いているのが白い布越しにも十分分かる。 「……焦ってる?」 ポツっと言った上島の言葉に、数秒置いて頷いた。 「……そりゃそうだよな。記憶ないまま3年経ってりゃ、心細いと思うぜ。お前は……普通だよ」 言いながら上島の手のひらは、佐々木の髪を優しく撫でた。 「大丈夫だ、焦ることない。大丈夫……」 上島は何度も何度も言いながら、佐々木が泣き止むまで撫で続けたのだった。
* * * * * *
町医者らしく、こじんまりとした病院の待合室は、診療時間も間際なのだろう。ポツポツと2、3名の患者が離れて座って、もう終了間際の雰囲気を漂わせていた。 「お大事に」 受付の事務員に会釈して、上島と佐々木は病院をあとにした。 きっちりと空調を制御された室内から一歩出ると、冷たい木枯らしが吹いて、佐々木は思わず首をすくめる。 「寒……」 通りを歩く人ごみは少なくはないが、既にピークを過ぎたことを感じさせる。すっかり日が暮れて、もう真っ暗になったビジネス街を歩きながら、佐々木は白い息を吐いた。 病院を出てすぐに、会社に寄っていくかと思っていたら、総務の誰かが、荷物一式を届けてくれたらしい。そのまま一緒に、家まで帰ることになったのだけれど、一体何時間気を失っていたのか。時計の針は7時を少し過ぎていたが、勤務時間を過ぎたところで会社の仕事がすぐさま終わるわけではない。総務にとっては月末でもあるし、ひと月の業務の中で一番忙しい時期なのだ。 ひどく、申し訳ない気分になった……と、同時に。 (恥ずかしい……) あんな病院の一室で、みっともなくボロボロと泣いてしまうなんて、どうかしている。 さっきの醜態を思い出し、頬を紅潮させて、佐々木は歩道に逸らすような目線を落とした。
「あ、あの……」 小さく言って俯いた。 「明日でも十分、間に合うよ。それよりこんな状態のお前を一人で家に置いとくなんて、そっちの方がよっぽど心配だ。いっぱい食って、ちゃんと寝ろ」 無愛想に上島は言ったけれど、その実、とても柔らかな気遣いに聞こえてしまうのは現金というか、なんというか……。 佐々木は隣を同じ速度で歩く上島の横顔に視線をやった。3年後の自分は、いつもこんな風にこの人に優しくされていたのだろうと思う。 (溢れる……) 何故だか水を連想させた。 さっきの、意識を失う前に感じたのとは少しちがう。もっと、静かで穏やかな。 佐々木は白い息を吐きながら俯くと、ゆっくりと目を閉じて、隣を歩く上島の気配に意識を集中させた。 糸のように細く垂れた水が、水槽をゆっくりと満たし、やがて静かに溢れ出すように。 上島がくれた言葉や気持ちは、その水のように時間をかけて、それでも尚、確実に佐々木の心の水槽を満たしていった。溢れそうになったのは『記憶』ではなく、佐々木の『心』だったのだ。 どうして、好きにならずにいられるのか。 近づきたい、と思った。記憶の抜け落ちた3年後の自分、いや、もっとそれ以上にこの男の傍に。 10分程度の道程は、それこそあっという間で、ピークを過ぎて閑散とした駅の売店も、もう閉店間際の雰囲気が漂っている。 「寒いな…。なんか飲む?」 改札口を通り抜け、プラットホームに辿り着くと、上島は階段下に設置されている自動販売機を指差した。 「あ……の、飲みます」 佐々木が自動販売機の前に立つと、おごり、と、一言言って、上島は後ろから手を伸ばして、肩越しにコイン投入口へ小銭を入れた。 背中に、上島を感じる。 密接した距離と、耳たぶを掠めた上島の腕は、佐々木の心臓をバクバクさせた。厳しいけれど、優しくて暖かで、誰よりも尊敬できる人。 ガコっと缶の落ちる音がした。 佐々木は腰をかがめて自販機の取り出し口から紅茶の缶を取り出すと、ゆっくりとその体を真っ直ぐに立てた。自販機の蛍光灯が眩しく視界を青白く映す。 佐々木は覚悟を決めたように、上島に背を向けたまま、深く息を吸い込んだ。 近づきたい。
「……上島さん」 震えるようなか細い声で、佐々木の口から白い息が漏れた。 直立不動をしたまま、冷えきった右手に持った紅茶の缶は、その熱さで指も、手のひらも、ジンジンとさせる。そのリズムはまるで高鳴った今の自分の心臓の音のようだと佐々木は思った。 「俺、あなたが……」 ピンと張りつめた、刺すような寒さが、緊張に押しつぶされそうな自分を後押しする。 「あなたの事が好……、!」 そこまで出た言葉は、唇に触れた何かによって一瞬で塞がれた。 衝撃と驚きで、紅茶の缶が手から離れて鈍い音を立て落ち、そこから1メートルほどコロコロと転がって、ゆっくりと動きを止める。 言いかけた佐々木の言葉を塞いだもの。それは、温かな上島の手のひらだったのだ。 ホームから死角になってるこの場所で、後ろから口を塞いだ上島の身体と自分の背中とが、隙間がないほど引っ付いて、体中の血液がすごい勢いで流れ出したのが分かる。 (血管が……) 破れそうだ。 あまりの突然の出来事に、真っ白になった佐々木の耳に、ボソっと囁く、上島の低音が耳に溶けた。
「知ってる」 意味がよく、分からない。 佐々木は口を塞いだ上島の右手に手をかけて離すと、ゆっくと振り向いて、どうして?、というような顔をした。
「お、俺には記憶がないから、め、迷惑……ですか?」 上島は自販機の蛍光灯で逆光になった、よくは見えない佐々木のその顔を、しばらく見つめていたけれど、数秒経って口を開いた。
「……気持ちを伝えたら、それで終わりじゃないんだ」 見つめあってしばらく。佐々木の顔が見る間に紅潮して、言ってることの意味をそこで初めて理解したのが見て取れる。
「そんな大事な言葉を、勢いだけで口にするな」 佐々木はできない。そんなの誰より上島が一番よく知っている。 「お前のこと好きだから、拒絶されるとケッコー傷つく」 言いながら上島は、足元に転がった紅茶の缶を拾い上げた。まあ、問題はそれだけではないのだけれど。 立ち尽くした佐々木の真正面に立つと、上島は淡い微笑を浮かべてぽつりと言った。
「でも、佐々木から寄ってきてくれたのは結構嬉しかったりするから」 上島が佐々木の腕を引っ張ると、ホームに並んだ二つの影が、ぴったり一つに重なった。 「とりあえず、犬を愛でるような気持ちで」
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