― セ ピ ア ―
12


業務でごった返したうるさい総務室を抜けて、上島は屋上へ続く階段へと足を踏み出した。

1月下旬のこの季節、外は凍るように寒いけれども慣れてしまうとなかなかに快適なものなのだ。

最上階に辿りつくと、ドアの窓から差し込む日の光が踊り場を暖かく照らしているのが見える。もう一息、と続く最後の階段を登りつめ、上島は重い屋上の扉を開けた。

「お」

先客だ。

上島は寒さで凍える白い息を吐きながら、フェンスの方へと近づいた。

「よお」

会釈程度に言って、スーツの内ポケットから愛煙のゴールデンバットの箱を取り出す。前に視線をやっていた隣の男がゆっくりとこちらを向いて頭を下げた。

「どうも」

営業部の田嶋一臣だ。この寒空によく来るよ、と、人の事など到底言えない。

上島はゆったりとした動作で、一本タバコを取り出した。それを口にくわえつつ、同時にズボンのポケットに片手を突っ込んだのだけれども、お目当ての物が見つからない。置いてきたかな、と、上島はチッ、と軽い舌打ちを鳴らした。

「どうぞ」

様子を横目で見ていた田嶋がライターに火を点けて、目の前に差し出した。銀のジッポライター。持ってるものの趣味まで、微妙に似ている気がする。

「サンキュ」

短く言って、ライターの火にタバコの先を近づけた。屋上に吹きつける冷たい風が、ライターの炎を揺らして消えそうだ。

上島は風を遮るように、右手のひらをライター横に立てかけた。

「佐々木くん……」

ポツっと田嶋が言うと同時にキンッ、という音がして、ライターの蓋が閉じられた。

「記憶喪失になったって、本当だったんですね」
「会った?」
「先日」

会社の廊下であの時かな、と思って上島は小さく2回頷いた。

「えらく困った顔をされましてね。見てるこっちの方が困惑しました」
「はは…」

その様子がありありと目の前に浮かんで、上島は苦く笑った。

「……淋しくはないですか」
「何が」

一言発して、上島はフィルターを一口吸った。

「上島さんのことも忘れちゃったんでしょう?」
「まあね、でも」

言いかけた口から吐かれた紫煙が風の中に溶けていく。

「別に何も変わってはいないから」
「記憶失くしてるのが一番変わってるんじゃないですか」

田嶋らしい口調でさらっと言った。

「俺は彼のこと、結構好きだったので複雑です」
「へぇ、お前でも人のことそんな風に思うの」
「そりゃあ…」

何か言いたげな顔をして田嶋は言葉を切った。

「すみません、失言です」

言えた立場じゃないですし、と淡々と後を続けたけれども、田嶋の気持ちもよく分かる。

「いや、分かるよ」

上島は、もうフィルターギリギリになったタバコを口にくわえたまま、内ポケットから携帯灰皿を取り出すと、蓋を開いて押し付けた。

「アイツ、もともとノンケなんだよなあ」

呟くように言って、上島は前を見たまま、諦めたような微笑を浮かべる。
頬杖をついて、顔だけこちらを向けた田嶋の顔に表情はなかったけれども、そのニュアンスにはどこか、気の毒そうな雰囲気が見てとれた。

「いろいろと、迷ってる」
「迷う?」

上島から放たれた不似合いな言葉に、田嶋は思わず眉をひそめた。

「あなたでも迷うことなんてあるんですか」
「買い被るなよ」

しょっちゅうだ、と、上島は苦笑いを浮かべて、二本目のタバコを口にくわえる。同時に田嶋がライターを差し出して、さっきと同じ要領で火を点けた。

「この頃よく考えることがある」
「……」
「アイツ、俺とこうなってなかったら、今頃どうしてたんだろうって」
「それは……」

言いかけた田嶋の言葉を待たぬまま、上島は淡々と胸の内を語り続けた。

「今までだって考えなかったわけじゃない。ただ、欲しくて欲しくて、強引にこっちの世界に連れてきた」

欲しくて、欲しくて、自分の気持ちを優先させた。

「アイツの気持ちを考えてなかった気がするよ。記憶が失くなったって聞いて、正直ドキっとした。あの時の選択の正しさを、問われたような気がして」
「今は違うんですか」
「分かんねぇ。押せばすぐにでも手に入るんだろうけど」

言葉を切って煙を吐いた。

「迷ってる」
「……」
「俺の都合でこうなった。それが佐々木にとって良かったのか悪かったのか……あれからずっと思ってる」
「そうですか」
「でも、もう遅いのかも」
「え?」

ボソっと言った上島の言葉が、田嶋に聞こえたのかどうかは分からない。

ただ、こちらを向いて微笑を浮かべた上島の顔が、泣き笑いのようにも見えて、田嶋は聞き返すことができなかったのだ。

 

*   *   *   *   *   *

 

こういう気持ちはいったいどうすればいいものか……。

総務部長に頼まれて、コピー室にて複写してきた30部の書類を運ぶ総務室までの道のりで、今日、十数回目のため息を佐々木は吐いた。困惑、というよりは戸惑いを覚える。自覚したならどうだというのか。

佐々木は少し肩を落として、また一つため息を吐いた。

「……くん」

ふと、名前を呼ばれた気がして佐々木は顔を上げて後方を振り向いた。きょときょとと周りを見回すと、廊下のくぼみに位置する給湯室で、経理の中川がこっちに向けて手招きしている。

俺?、と、佐々木が自分の顔を指差すと、うんうんと二回頷いて、また、おいでおいでと手を振った。

給湯室に入ると、中川の他に女子社員が2名いて、4畳程度の狭い室内は、結構な密度となる。

(ええと、総務の渡辺さんと、松山さん……だったよな)

「はい」

中川はフフ、と笑って、佐々木の手のひらに、透明のビニールで個別包装されたお菓子の包みを1つ置いた。

「あ、ありがとうございます……」
「イワシタさんからの頂き物。数が少ないからナイショよ」

中川は人差し指を一本立てて、口に当てた。

『イワシタさん』といったら、ウチと取引のあるメーカーさんか。ときどき出張旅費の行き先に記入されてることがある。

佐々木はビニールをビッと破って中身を取り出した。縦長のケーキを切って、1つづつ袋に詰めたような、ええと、これ、何て言ったっけ?

名前を知らなくても甘いものには間違いない。佐々木が一口菓子をかじると、総務の渡辺がメーカーのデカンタからコーヒーを注いで、佐々木の目の前に差し出した。

「す、すみません」

佐々木くん、砂糖もミルクも要るよねえ、と言って、テキパキと手にしたコーヒーカップに入れてグルグルと掻き回す。その手際のよさは有無をいわせず圧巻だ。

「どう、もう慣れた?」
「はぁ、まあ、ぼちぼちとお蔭様で……」

本当に。こんな要領の悪い自分が、なんとか大きなポカも起こさずやってこれたのは、上島と、この女子社員達のサポートのお陰なのだろうと思う。

「でもホント、大変よねえ。なんか困ってることとかない?」
「は、いえ、これと言って、今、特には……」
「知らない間に彼女とかと切れてたりはしなかった?」
「や、も、元々いませんでしたし!」

女三人揃うと姦しいと言ったのは誰だっけ?これじゃあ質問責めですよ……、と、佐々木は内心青ざめた。ところが、だ。

「えー、本当?じゃあ逆は?」
「逆?」
「ほら、知らない間に彼女が出来てたとかいうの!」
「は……」

一言発して、そのままカチッと固まった。固まっただけでなく、見る間に耳まで赤く染めた佐々木を見て、絶句したのは目の前の女子社員達だ。

「え……、え、え、ええ―――――――っ!?」
「いやだ、ちょっと佐々木くん!それ本当?」
「え、いえ、その……」
「誰誰誰っ、会社の人!?」

勢いで最後まで言わせてはもらえない。

女子社員の熱気に気づいて、その内容を理解した時、佐々木は慌てた。

「あ、あの、いえ……ち、違いますっ!いませんよ!!」

即答で否定した佐々木の言葉に、女子社員達の疑惑の妄想は止まらない。まあ、本当のところ『居た』というか、『認めたくなかった』というか……。

「いないって、じゃあさっきの間は何?」
「な、何ってそれは……」

佐々木はゴクっと喉を鳴らした。ダラダラと、額に汗もかいてくる。

恋人、出来てました。男でした……って!そんなの言えるか!

いや、そもそもこの2週間を振り返っても恋人だったといえたかどうか。じゃあどんな関係だ?

目と頭が、グルグルと渦を巻いた。

「あ……、あの」

佐々木はしどろもどろと言葉を綴った。

「こ、恋人とか、そんなんではなくて……俺が、一方的に世話してもらったり、迷惑かけてるだけの話です……」

言いながら、佐々木の声の後半部分は小さくなった。

「なあに?その人の事、好きなの?」

1人の女子社員が言った言葉に、佐々木は思わず顔を上げた。

「あ…はい、そう、いう、こと……ですね」

頬を紅潮させたまま、佐々木は視線を逸らしながら小さな声で呟いた。

「うわあ!佐々木くんって乙女!」
「今時中学生でもそんなんいないって!」
「あ、あの……」

口々に批評が飛び出す。

「世話とか焼いてもらってるんでしょ?じゃあ脈アリアリじゃない!」

松山が佐々木の方に手を置いて、力強いガッツポーズを取った。体育会系!?なんか違う……。

騒ぐ女子社員達をぼんやりと佐々木は見ていたけれど、胸にあるのはたった一つのことばかり。

嘘を、ついてしまった。

記憶を失くしてる間に出来ていたのは恋人だけど……。これが女性だったなら、もっとこんなに揺れたりしないで、ちゃんと認めることが出来たのだろうか。

なんだか上島に悪いことをしているような気持ちになった。

上島は仕事に厳しくておっかないけど、真っ直ぐな眼差しで、いつも優しい。

「好きとかって言ったの?」
「え?」
「脈、あるんでしょ?」
「あ……い、いえ。分かんなくて……」

これも嘘だ。

相手の気持ちは痛いぐらいに理解している。自分がそれに素直に応えるのが怖いだけなのだ。今のままのこの距離で。出来るだけ、この距離で。

これ以上、近くても遠くても、この関係のバランスを崩したくはなかった。こういの、何ていうのか知ってるか?我侭で自分勝手な……エゴだ。

そこまで思って、佐々木は顔を俯けた。

「勘違いとかだったりしたら始末悪いもんね」
「はぁ……」
「会社の人?」
「え!や、ち、違います…っ」

慌てて佐々木は否定した。こんな人との接触が少ない人間、うっかり肯定したら思わぬところでバレるかも。

佐々木は誤魔化すように、手に持ったコーヒカップを一気に呷った。

「も、もう仕事に戻らないと!ごちそう、さまでしたっ」

これ以上、追求されたら何を喋らされることになるか分からない。

佐々木は逃げるようにコップを差し出し、勢いで去ろうとすると、経理の中川が呼び止めた。

「待って、これ」
「はい?」
「上島さんにも」
「は……」

他意はないんだろうけど。

(正直、見透かされたような気がしてビックリした……)

頬を少し上気させて、佐々木はさっき呼び止められて中断した、総務室へと辿り着く社内の廊下を歩いていた。

上島が女子社員に人気があるのは知っているけど、実は胸中複雑だ。
本当に、気持ちの一つも応えられもしないクセに自分勝手な……。

突然パコっと薄っぺらい何かで頭を小突かれて、佐々木はとっさに後ろを振り向いた。

「かっ…!」
「しけた顔してんなあ」

驚いて、持っていた書類の何枚かを廊下の床に散らばした。

「あ…、あ、あ、ああ……」
「何やってんの」
「す、すみません……」

上島だった。

慌てて床にしゃがみ込むと、追って上島も一緒に膝を付いた。右手に山吹色の個別フォルダーを持って、さっき、これで叩かれたのか、と何気に思う。紙に重なって滑るように散乱した書類を拾いながら、佐々木は視点を一緒に落とした上島の顔を上目遣いにチラっと見上げた。

(まつげ長い……)

「何の書類?」

いきなり振られて、急上昇した心拍数に自分自身が驚きながら、慌てて下に視線を逸らした。

「ひ、昼イチの会議で使う資料です……」
「そう。どうりで部屋にいないと思った」

この2週間ですっかりと見慣れたはずの顔なのに、ひどくドキドキしてしまうのは、自分の気持ちが変わったからなんだと思う。

全ての書類を回収し終わり、上島は拾った数部を佐々木の手にポンと乗せた。

「あ、ありがとう、ございます……」
「どういたしまして」

そう言って、視線を真っ直ぐに佐々木に向けたまま、上島は口角を微かに上げて微笑を浮かべた。

こういう時の上島の笑顔は、思わぬところで佐々木の胸をドキリとさせる。

「あんまりしけた顔してんなよ。良い事が寄ってこなくなる」

笑いを含んだような声で言うと、上島は佐々木の頭をクシャっと撫でた。

「あ……」

優しくて暖かな、大きな手。

自分の手より一回り程度しか変わらないのに、その安心感ときたら何なのだろう。

グニャっと一瞬、視界が歪んだ。

(……俺は、この手を知っている……)

そう思うのと同時に、心拍数がドンドン上がって、汗がドっと噴出した。

「…あたま……」
「佐々木?」
「いた……」

もたれ掛かってきた佐々木の顔を覗き込む。苦痛を訴えるその顔は血の気が引いて、素人目にも異常が分かった。

「おいっ……!」

両手で額を押さえて俯いた佐々木に上島は声を上げた。音楽がフェードアウトするように、佐々木の耳には上島の声がどんどん遠ざかって、何を言ってるのか聞きとれない。

「おい……、ささ……、…じょうぶか?!」

頭痛と、耳鳴りと、纏わりつく汗と。

「気持ち…わる…」

バラバラと散らばる白い書類が足元に広がって、途端に視界が白くなった。

(これは……いつだ?)

大量の映像が脳内にフラッシュバックのように駆け抜ける。

 

『あのさあ、お前俺と付き合う気、ない?』

 

『俺の全部捨ててでも、守ってやるよ』

 

 

まるで洪水のような。

 

 

『めちゃくちゃ、嬉しい』

 

『人を好きになるのが、ちょっと恐くなった』

 

(でも、知ってる、いつ……)

 

『一緒に、暮らそうか』

 

 

 

 

(溢れる……!)


佐々木はぎゅうっと上島の袖を掴んで、そのまま意識を失った。

 


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