― セ ピ ア ―
11


本当にこの週末は気まずくて、居てもたってもいられなかった、と佐々木は思う。

あれから直ぐに風呂に入って、布団を敷いて、歯を磨いてすぐに寝た。翌日からの上島はいつもと変わらぬ様子で、アルコールも大概入っていたのだし、何も覚えてないのかも、とも思ったけれども、どうもそうではないらしい。距離の取り方、話題。あちこちに、上島の細やかな心遣いが見てとれた。それで結局、佐々木の内心は、というと、この際正直に言ってしまおう。

どうしていいか、分からなかった。

上島と恋人同士のようなキスをしたこと、自分の気持ちに気づいたこと。どれをとっても佐々木のキャパは一杯いっぱいで、この先自分がどうすればいいのかだなんて、考えるゆとりがまるでない。

じゃあ、時間が経って落ち着いてくれば……と、根はそんな簡単なものでもないのだ。

元来、佐々木は不器用な人間である。よりにもよって、相手は男で上司ときていて、それでも、もしこれが、ごく普通に女性相手であったとしても同じように、視線を合わすのを避け、会話を慎重に選び、ムーディな雰囲気になるのを恐れ、新しいステージに自ら積極的に進むようなことはしないだろう。

つまり、その先に進むためには、佐々木にとって、よほどの気持ちが必要なのだ。関係の均衡を壊すのには勇気がいる。そんな勇気、持ち合わせていれば、今頃、過去に恋愛相手の一人や二人は軽く持ち、こんな問題でオタオタしてもいないだろう。

 

*   *   *   *   *   *

 

「……るか?」

耳を掠った言葉に佐々木はポワンと顔を上げた。

「えっ?いや、なっ、何ですか?!」
「……」

驚きで裏返りそうになった佐々木の声に、上島は怪訝な顔して眉を顰めた。

朝の食卓。(佐々木にだけかもしれないが)気まずい週末を終えて、本日からまた新しい週の始まりでもある。

「目玉焼きにソースかけるかって聞いたんですけど?」

え、と佐々木は頼りなげに呟いて、それから意味を理解した。ついでに上島の不機嫌そうな顔のわけも……。

「あ、ああ!い、いただきます!!」
「ん」

怒鳴られたりはしなかったけれども上島は、きっと何度も聞いたのだ。

『ソースかけるか?』

目の前に差し出されたソース注しに、佐々木は慌てて手を伸ばした。ところが。

「ひゃ……!!」

慌てて伸ばした指が、上島の手にうっかりと触れてしまった。瞬間、佐々木がとんきょうな声を上げたもんだから、上島は釣られて同時に離してしまい、手から落ちたソース注しはテーブルでバウンドし、ガチャンと言って、フローリングに黒い雫を飛沫させた。

「あ……」

その過剰な反応に驚いたのは上島で、佐々木の顔に視線を移したらば、そっちの表情の方に、もっと驚いた。

「……佐々木?」
「あ、あの、ご、ごめんなさい!すぐ片付けます!!」

慌てた勢いで、佐々木は床にしゃがんで、ソース注しをテーブルに戻し上げた。

(わあわあわあわあ……)

ある意味、自己嫌悪。21にもなる歳で、みっともないったらありゃしない。顔を紅潮させて、視線を下げると、いつの間にやら視界に入って来た上島に気が付いた。同じようにしゃがんで目線を合わせた上島にひどく動揺したりする。

「雑巾」

手にもたれた雑巾に、あっという顔を浮かべる。

「あ、す、すいません……」
「俺が拭くからあっち行っとけ」
「で、でも!」

食い下がった佐々木に上島は小さなため息をついて、ポツっと言った。

「ほら、お前の足元も汚れてるよ」
「え」

上島の目線を追うように、視線を足元に向けると、なるほど。上島の言った通りにスリッパとベージュのスラックスの裾に点々と黒い染みが。

「わー!」

数少ない貴重なスーツが……。ある意味ショックで、目の前がまっくらになりそうだ。

「駅前にクリーニングあったろ。行く前に出していけ。帰る頃には出来てるよ」
「は、はい……」

上島の言葉に我に返って、佐々木は右手のひらで目尻を擦った。

(本当にこの人ってなんて)

冷静なんだろう。

うっかり朝から何か汚した日は黒めの服を着たくなる。ジンクスでもないけれど、こういう日は同じようなことが何度でも起こりそうな気がするのだ。

佐々木はスチールハンガーに掛けられた何着かを見回して、紺色のスーツに手を伸ばした。

 

ちょっとゴタゴタしたけれど、出勤の時間にはさほど影響も出ていない。

性格と同じように几帳面に玄関に揃えられたローファーに、上島は足を突っ込むと、後ろを真っ直ぐに振り向いた。3センチの段差分だけ縮まって、後ろに立っていた佐々木と同じぐらいの目線になる。心臓がバクンと鳴って、合った視線は、佐々木の脈拍を一気に上げた。

「あ、あの……」
「曲がってる」

そう言って上島は、形の整った指先を襟元のネクタイに掛けた。少し見下ろされる角度で、佐々木は上島の顔の上で、落ち着かない視線をキョトキョトさせる。

「あ、あの……」

なんだか子供みたいだ……、じゃなくって!!

この構図、なんだかひどく気恥ずかしい。思うと同時に佐々木は顔を俯けた。

ドキドキする……。

俯いたまま佐々木は、目線だけを気まずく逸らした。眼下には、ずいぶんと器用そうに見える上島の手が視界に入って、なんだかそれすら恥かしい。

「頼むから」
「え?」

突然発された上島の低い声に、佐々木は頓狂な声をあげて、顔を上げた。

「そんなに警戒しないでくれ」
「え……」

そんな風に見えたのか。

顔色を伺うように、佐々木は目線だけを上にあげた。

「金曜のことは謝るし、もうしない」
「あ、あの!あの晩のことはもう別に……い、いえ、全く気にしてないわけじゃなくって!や、でも気にされても困……あ、あれ?」

何を言ってるんだか、自分にも分からなくなってきた。

「あ、あの……」

しどろもどろになりながら、短い間に言葉を探す。で、その結果ときたらば、やっぱりこれだ。

「すみません……」

カーッと顔を紅潮させて、佐々木は握った拳を口元に当てると、気まずそうに目を伏せた。

「佐々木が」

どんな遠くででも、聞こえたならばすぐに分かる、上島の低音に佐々木ははっと顔を上げた。その顔といったら!

「佐々木が謝ることないけど、正直、そう言って貰えると非常に助かる」

ほい、と言って、ネクタイにかけていた両手を離して、佐々木の腕を軽く叩いた。

「あ……」
「行こうか」
「は、はい」

佐々木が言うと、微笑を浮かべて上島は踵を返した。その背中を見つめながら。

(す、すっごい好きかも……)

胸の動悸は週末を超えて、ますます早くなっていくのだった。

 


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