「あ、あの、上島さん、ありがとうございました」 結局、来た酌のほとんどを上島が請け負ってくれたため、佐々木は適度の酔い加減で済んだのだった。俯いた佐々木のつむじを見つめながら、上島の呼吸の度に白い息が口から洩れる。
「……」 言葉とともに顔を上げて、ついぞ佐々木をドキリとさせた。日の下、明かりの下では決して見れない、漆黒の闇に溶けそうな黒髪が、夜のネオンにひどく映える。か、格好いいかも…。
「あ、あの…」 差し出された上島の手に、佐々木は何のことだか分からない、というような視線を上げた。
「こんなところでウロウロしてると、二次会に連れていかれるぜ」 即答で、プルプルと首を横に振った。 「だろうな」 上島は佐々木の手を掴んで引っ張ると、駅とは逆の方向に向かって歩道を離れた。
「か、上島さん、駅はあっち……」 引いた手を、更に強引に引っ張って二人の体が近づいた。 (さ、さっきもそうだったんだけど……) 佐々木はほとんど後姿といっても過言でない上島の横顔をチラっと見つめた。 ドキドキする―――。 これはアルコールのせいなのか。仕事が出来て、顔も良くて、格好良くて酒も強くて、何より自身を自分以上に知っている。 危険思想だ。 女だったら一撃で落ちてる、と、自分よりも少しばかり暖かい、引かれた手から伝わる体温を感じながら、佐々木はそんなことを思ったのだった。
* * * * * *
裏通りを少し歩いたところで、上島はその手をすっと離した。こちらの顔色をチラリとも伺わなかったのは、上島の気遣いなのかも、と佐々木は思う。なんだかほっとしたような、残念のような…。 否!ほっとした、と、すぐさま思考の渦をかき消すように、佐々木は頭をブルブルふった。 表通りから少し外れた通りから、幾つ目かの曲がり角を左に折れて、本通りへと戻る。あの場から少し離れて見失ってくれればそれでいいのだ。 15分程度歩いて駅につくと、上島は定期を内ポケットから取り出した。この線からなら乗り換えなしで家までいける。新宿や渋谷のような大きな駅でもないけれど、他に 山手線と地下鉄が乗り入れ路線に入っているから、使い勝手はそこそこいい。 今ちょうど急行が行ったところで、もう数分も経てば次の鈍行がやってくる。急行は、駅を幾つもすっとばして早いけれども、時間があるならゆっくりと進む鈍行の方が上島は好きだ。どの道10分程度しか変わらない。 プラットホームに入ると、ゴウゴウと唸る冷たい風が、上島と佐々木の前髪とコートの裾を豪快に揺らした。 「寒……!」 佐々木が思わず声を上げると上島は、斜め向こうへ一歩進んでホームに面した場所へと移動した。 (あ。) すぐに気づいた。 風除け。 髪を散らした風が凪いだのだ。視線を上げて上島を見上げると、本人は何もなかったような顔をしていて、佐々木とは視線すらも合わさない。 (これって……) なんだか女の人のように扱われてるみたい、と佐々木は思ったのだけど、正直悪い気はしなかった。24の自分は、大事にされているんだなあ、と、そんな事を思ってもみたりして。 思っていたら、各駅停車の鈍行がゆっくりと、ホームへ滑り込んできた。 時間は夜の9時半を指していたけれど、終電にはまだまだ早い。数少なく空いた電車の座席と、まばらに立っている人が数名。どこも同じような込み具合で、すぐ目の前に開いたドアから乗り込むと、佐々木と上島は二人並んで腰掛けた。 座るとすぐ様、エアーの音を鳴らしてドアが閉まり、同時に発車した電車と共に行き先を告げるアナウンスがマニュアルどおりの放送を読み上げる。知ってる、駅の名前だ。 故郷にでも帰ったような、そんな懐かしい気分に幾分ほっとしたように、佐々木はアナウンスに耳を傾けた。 ところが、である。ガタンゴトンと電車の、独特の音と振動。黒い窓に鏡のように映る二つの影を見ていると、なにやら複雑な気分にもなってくる。 佐々木はできるだけその影を見ないように、窓から逸らして足元に視線を向けた。座席下の温風の排出口だとか、斜め向かいに座ったサラリーマンの靴下の色だとか。何かを考えているわけでもない。ただ、この沈黙に似た居心地の悪るさを、なんとなくやり過ごしたいだけだったのだ けど、ほろ良く酒が入ったところで、規則的な電車の揺れ方。うとうとと、なんだか気持ち良くなってきた。 「…………」 数秒、意識を飛ばしてハッとする。佐々木はショボショボと目を擦ると、イカンイカンと小さく数回、首を振った。 「寝ていいよ」 低い声にドキっとした。 慌てて顔を上げると上島がこちらを見ていて、佐々木の心拍数を一層上げる。 「着いたら起こしてやるから」 15分ぐらいかな、と左の袖口をずらして、囁くように上島は言った。そんなこと言われたって。 眠気なんて今の一声ですっきりと吹き飛んでしまった。
「だ、大丈夫、です……」 探るような視線はやめて欲しい。うっかりと心の中を覗かれてしまいそうだ。 佐々木は紅潮した顔色を隠すように、その顔を俯けた。どうかこの反応はアルコールのせいだと思ってくれますように。 何箇所目の駅だったか。それから10秒もしない間に電車が減速を始めて、周りの景色が遅い動きになってきた。キキィ、と、ゆっくりとかかる独特のブレーキ音が聞こえて、駅のホームに停車する。 乗り合わせた数名の人々が開いたドアから降りていき、それを少しでも補充する程度の人数が、再び電車の中へと回帰した。 時間といい、外に散らばるネオンといい。段々ガラガラになってくる車内は、幾分寂しい雰囲気を感じさせたが、それでも、発車の笛の音とともに電車のドアがプシュッとしまり、再び線路を走り出した。 ゆっくりと流れ出した景色はやがてスピードを取り戻し、今、駅に止まったということ自体が錯覚のようにも思わせる。座席上部に設置された白い吊革が、振動に合わせて揺れる様を、佐々木はただぼんやりと目で追った。 「そういやさ」 ポツリと、呟くように隣から聞こえた声に心拍数を上げながら、佐々木は気持ち少しだけ、顔の角度を変えて、上島の方に目線を向けた。
「やっぱり飲み会の帰りとかに電車に乗ると、佐々木は眠いたい顔をするわけよ。で、寝ていいって言っても結局家まで我慢して起きてるんだよなあ」 こちらを見ない上島の横顔を見つめたまま佐々木は呆然とした表情になって、それから数秒間を置いて、顔から火が出た、と思うほど恥ずかしくもなってきた。何でだろう、その昔というのは今ここにいる自分のことのはずなのに、なんだか……。 なんだか、今の自分を知ってるような錯覚に陥らせたのだ。
* * * * * *
結局、佐々木と上島が部屋に辿りついたのは、夜の10時半を少しばかり廻ったところだった。 駅のホームからしばらく続く歩道から見える、まばらに点いた家の明かりが、少し寂しい印象を思わせる。記憶の時間が飛ぶまでは、ここを一人で帰っていたのだ。 駅からアパートに続く緩やかな坂道で、半歩先を行く上島の背中を、斜め後ろから見つめながら佐々木は白い息を吐いた。 アパートの一室に辿りついてドアを開けると、当然のことながら玄関は真っ暗で、さっきの頼りない、まばらな家の明かりさえも暖かく感じるから不思議なものだ。実際室内の温度も大層低くて、余計に寒さを増幅させる。 佐々木は玄関の電気のスィッチを押すと、玄関にオレンジ色の明かりを灯した。後ろから、郵便物を持った上島が続いて入る。すぐ右側の襖を開けて、一足早く入った佐々木が台所の電気もつけようと、手を伸ばしたのだけれども。 「…あれ…?」 入り口すぐ横のスイッチを、カチカチ何度押し直しても電気が点かない。 「紐の方じゃねえの」 上島の言葉に佐々木は頷いた。この部屋の電気はペンダント型の照明だから、スイッチで電球のオンオフが出来たところで、大元が切られていたら点くわけがない。 佐々木は電気の紐を引っ張ろうと、部屋の中へと足を踏み入れた。 (この辺なんだけど……) 良く知った部屋の中でも、真っ暗な部屋の中では細い照明の紐を探すのは結構難しかったりする。中々上手く見つからない。差し出した手は、もどかしく空を切るばかりで肝心の紐をつかめないままだ。 (も、もうちょっと向こうかな…) 佐々木がもう一歩、と、踏み出したところで膝の辺りでガツっと何かにつまずいた。 「わ!」 バランスを崩した佐々木を支えようと、すぐ後ろにいた上島が手を伸ばしたのだけれども、勢いに引っ張られて、ドターンと二人はその場に豪快に倒れ込んだ。 佐々木がつまづいたのは、床に置かれた濃い灰色のファンヒーター。揺すったとき独特の、灯油の揺れる音が、静かな室内にタプタプ、と、独特な響きを立てて、やがて遠くに消えていった。 「痛て……」 下から聞こえた上島の声に、佐々木は今、初めて自分が置かれてる体制に気がついた。上島の上に乗っかってる……。 「わ!ごめんなさい、すいません、ごめんなさ……!!」 慌てて体を起こそうとした佐々木の言葉が、途中で止まった。 離れる腕を掴まれて、下から見上げる上島の物言わぬ視線が、真っ直ぐな意思をたたえて佐々木の目の前にある。 少しばかり開いた入り口から洩れる、柔らかな色の明かりと、カーテンの隙間から入る白いネオンの光が、暗闇に慣れ始めていた佐々木の視覚をはっきりとさせるのには、十分すぎる程の明度を上げていた。恐らくは7度程度しかないだろう。冷え切った室内の温度は、この部屋の空気をより一層、痛いほどにシンとさせていた。 数秒、見つめあったまま動けない。 焦れた沈黙に耐えられなくなって、思わず佐々木は声を出した。 「あ……、あの……」 言いかけて、伸ばされた右手に佐々木の身体がビクっと震えた。上がった右手は柔らかに、佐々木の左頬に軽く触れて、バクバクと、早鐘のように、鼓動が佐々木の胸を打つ。 上島の目は真っ直ぐにこちらを見たままで、それだけで、佐々木の逃げ場をきれいさっぱり失くしてしまった。 ドキドキする……。 不快ではなかった。いや、むしろ。 頬に触れた手は、ゆっくりと顎のラインを滑りおりて、親指が唇を軽くなぞって、添うように左の腕も伸ばされた。 上島の手が誘ったのか、それとも佐々木が近づいたのか。上半身にあった二人の間の距離がなくなり、やがてそれがゆっくりと重なった。 一回、二回…。角度を変えて、触れるだけの口付けを繰り返す。何度目かの接吻で、上島の舌が佐々木の歯列に割って入った。 「ん……」 くぐもった小さな声を佐々木はあげたが、抵抗はしなかった。ただ求められるままに。 粘着質な音を立てて吸われた舌先が、電気を帯びたようにビリビリと痺れる感覚を佐々木は感じた。 (溶けそうだ……) 少し茶色がかった髪の毛を梳きながら、上島は丁寧な動作で、佐々木の身体を床に倒した。 「佐々木……」 囁いて口付けると、その歯を軽く耳に立てた。その瞬間。 佐々木の身体はビクっと震えて、その反応に上島はハッとしたように動きを止めた。 「ごめん……」 小さく言って、上島は体を起こすと、腕を引っ張り佐々木の身体を引き上げる。平行な目線になった佐々木の視線をさけるように逸らして、上島はもう一度呟いた。 「ごめん」 そのまま立ち上がるとゆっくりと背を向けて、奥の部屋の襖を開いた。 「……あ」 どうしよう、と佐々木は思った。 どうしよう、どうしよう。 襖の向こうに消えようとする上島の背中を見つめながら、佐々木の、胸は痛くなった。 どうしよう。 漠然とした形でしかなかった想いは、今の行為で決定的な確信へと姿を変えた。淡い気持ちがくっきりと輪郭をなぞられて、浮き彫りにでもなるように鮮明になっていく。 それは、佐々木が尤も恐れていたことであり、切に知りたい気持ちでもある。 少しばかりの間を置いて、襖の閉まる音が静寂の空間に響いた。 どうしよう。 微かに震える両手を口元に当てて、佐々木はゆっくりと目を閉じた。
あの人が、好きだ―――――。 |