8


「上島っ、ちょっと……顔貸せよ」

定時5時半きっかりに上島の前に姿を現したのは犬養だった。ここは総務部。もちろん周りに佐々木がいないのを確認して、だ。

突然の呼び出しに上島は はあ?といういかにも迷惑そうな顔をしたが、犬養の真剣な眼差しに気づいて応じてやることにした。犬養が1階下の総務部なんかをわざわざ訪ねてくるなんてことは大概佐々木がらみなんだろう。右手の時計で時間を確認すると上島は険しい表情を浮かべて犬養に言った。

「忙しいから手短に済ませろよ」
「いちいちうるさい奴だな。……分かったよ」

 

犬養が上島を呼び出す時はいつも屋上だ。日没もかなり早くなり、屋上は薄暗くなり始めたあたりだった。二人は向かい合ったまま、しばらく無言の対面をしていたが上島の方が時間を気にして先に口を開いた。

「で、わざわざ呼び出して何の用だ」
「……佐々木のことだよ」
「佐々木?」

はあん、やっぱり。

上島は目を細めて犬養を見据えると、今度は何だ、と冷たく言い放った。それに負けまいと、犬養も上島を睨む。この程度でビビっちゃダメだ。犬養は大きく息を吸った。

「単刀直入にいうぜ」

犬養は単細胞だから直球勝負しか出来ない。前振りもなく、いきなり本題に入った。

「お前の過去に何があったかなんて知らないけどなぁ、佐々木を不安にするのだけはやめろよな!」
「なんのことだ」
「とぼけんなよ!あいつ……お前と田村部長のこと疑ってる」

反応したのは田村の名前にか、それとも佐々木がそういうふうに思っていることについてなのか。定かではなかったが、上島の形の良い眉毛が一瞬ピクリと動いた。

「あいつ、お前が田村さんに気持ちが動いてもしょうがないって、何も言えないって泣いたんだよ」
「……泣いた?」

ひどく怪訝そうな顔をして、上島は眉間にしわを寄せた。犬養にしては上出来なタイミングで更に話は続く。犬養が視線を合わせないまま、ちっ、っと吐き捨てるように言った。

「お前と関係が結べてないからだってさ。好きなのに、怖くて身体を繋げないんだとよ!」

そこまで言って、言われている上島よりも言った犬養の方がっよっぽど傷ついたような顔をした。

「……あんなあいつ、見てらんねーよ」

佐々木はそういうことをして欲しくて犬養に胸の内を打ち明けたのではない。むしろ一番迷惑なことは犬養にだって分かっていた。しかし昼間の佐々木の気弱さを目の当たりにすると、とても放ってはおけなかったのだ。上島に一言言ってやらないと気が済まない。

犬養は目線を上げたが、そこまで言っても表情一つ変えない上島に犬養は業を煮やした。頭にカーッと血が昇って、冷静さを欠いたように声も少し荒くなる。犬養はまくし立てるように更に続けた。

「なんで、なんにも言ってやんねーんだよっ、あいつ、可哀想じゃねーか……っ!」

犬養が言い終わるか終わらないうちに、上島は犬養のネクタイを掴むと、おもいきり力任せに自分の方へ近づけた。

「だからどうした」

言葉自体はケンカ腰ともとれないではない。しかし上島のその表情は落ち着き払っていて、見方によってはひどく無表情にも見える。思わず犬養の喉がゴクッと音を鳴らした。上島の静かに怒った顔はめちゃくちゃ、怖い。上島は上から見下ろすような視線で犬養の目を冷静に見つめると、怒気の含まれた迫力のある低い声でこう言った。

「外野がキャンキャンうるせーよ」
「なっ……!」

発しかけた犬養の言葉を塞ぐように、掴んでいた犬養のネクタイを突き離すと上島はさっさと背を向け去って行ってしまった。後に取り残された犬養は悔しいやら、なんやら、一体わけがわからない。とにかく、すごくバカにされたような気がするのは確かだった。

犬養は両の拳を握り締めると、行き場のない鬱憤を晴らすかのように叫んだ。

「外野はねーだろ、外野はよっ!何もかも分かったような顔しやがって……ちくしょーっ!!」

 

*    *    *    *    *

 

屋上から下へ降りて行く階段で上島は呟いた。

「犬にまで言われてちゃ、世話ないな」

犬養に言われるまでもなく、最近の佐々木の不安気な様子は上島に伝わっている。なによりも上島の大好きな笑顔が減った。一日のうちのほとんどを共に過ごしているのだ。気づかないわけがない。

ただ、上島にしては珍しく自分のことで手一杯になってしまって佐々木を気遣うゆとりすら持てなかったのだ。それほどに触れられたくない過去。とくに佐々木には絶対知られたくない。しかし、そこまで思いつめているのなら言わないわけにはいかなかった。しかし犬養なんかの前で泣き出すほどに切羽詰まっていたとは……。

総務部の席の前まで来ると、隣の佐々木の机の不自然さに目がいった。机の上がやたらと整理されているのだ。

上島はフロアをぐるりと見まわすと、近くにいた女子社員に尋ねた。

「佐々木は?」
「ああ、佐々木さんならさっき帰っていくの見ましたよ」
「帰った……?」

 

 

「何にも言わないで帰ってきちゃって、上島さん、怒ってるかな……」

公園のブランコを少し揺らすとポツリと佐々木は呟いた。上島とそういう関係になってからは特別約束なんてした覚えもないけれど、なんとなく一緒に帰るようになっていたのだ。一言も何も言わずに帰ったことなんて、初めてだった。

原因は昼間犬養に胸の内を言ってしまったこと。

口に出さなければ多少の不安が残っていてもなんとかやっていけたのに、実際口に出してしまうとなんだか、本当に不安が敵中しそうで、恐くなった。こうなってくると、ただ上島の顔を見ているのもなんだか辛い。そうはいっても同じ部屋に住んでいるのだから遅かれ早かれ会うのではあるけれど……佐々木の、ささやかな時間かせぎだったのだ。

佐々木は左手に嵌めている腕時計を見た。時刻は午後8時を回っていて、佐々木は小さなため息をついた。

今、佐々木が居るのは佐々木達が住むマンションの近所の公園だ。周りはもう真っ暗だし、いくら今年が暖冬だとはいえ夜は冷える。それらが佐々木の心細さを更に増長させた。

考えてみれば時間を潰すだけなら、本屋であるとかコンビニであるとか……もっと他にマシな場所がいくつでもあるのに、行くところといえばこんなところしか思いつかない。そこへピュゥっと風が吹いてきて佐々木は思わず首を竦めた。

「寒っ!」

風が行ってしまうまでの3秒間、佐々木はきつく目を閉じた。思わず心の中で数を数える。

(1、2、3……)

佐々木はゆっくり目を開くと、急につまらない意地を張ってる気分になった。

「……ここで、こんなことしててもしょうがないよなあ。……帰ろっかな……」
「そうしてくれ。風邪、ひいちまうから」

その声に驚いて俯いていた顔を慌てて上げると、いつからそこに居たのか。目の前に上島が立っていて、佐々木は飛び上がるほど驚いた。

「かっ、上島…さん!なんで……ここが……」
「アホ。会社から帰ってずいぶんになるのに家に帰りゃ電気もついてねーし……。お前の行くとこっていや、こんなとこしかないだろう」

上島は佐々木の考えてることなんか本当にお見通しな感じで、佐々木はいつでもドキッとする。

「……すいません」

聞いているのかいないのか、上島は、座っていたブランコから立ち上がった佐々木の左手を自分の右手に重ねてさっさと歩き出した。その後を引っ張られる形になって佐々木が小走りでついて行く。気がつくと横に並んでいて、歩幅もゆっくりとしたものに変わっていた。何も聞かない上島の横顔を佐々木はしばらく見ていたが、少し俯いて目を閉じた。少し、顔が赤いかもしれない。心臓がドキドキする。

(……どうしてどうして、上島さんには分かっちゃうのかな)

黙々と歩く。

(どうしてどうして、こんなことでこんなに嬉しくなっちゃうのかな……)

どうしてどうして………。繋いだ手から上島の体温が伝わってきて、心まで繋がっている気がした。そんなことを考えていると、視線も合わさず、上島がポツリと呟いた。

「……すまなかった。帰ったら、ちゃんと……全部話すから」

 

*    *    *    *    *

 

家に着くと9時を過ぎていた。

いつもならすぐに夕食の支度を始めるところだが、食事が喉を通りそうになさそうな佐々木の様子を見て(いや、自分もか)、上島は暖めた牛乳だけを佐々木の目の前にコトンと置いた。二人がけの四角いダイニングテーブルを挟んで佐々木の前に腰掛ける。しばらく口元に手を当てて2、3度下唇を擦っていた上島だったが、まとまったのか、やがて重い口を開けた。

「どこから話せばいいかな」

どこからも何も、佐々木はどう聞いていいのか分からなかった。二人のことを多少疑っているとはいえ、その原因は自分にあるのだ。上島が一体何を話すのだというのだろう。佐々木はただ、思っているようなことは何もないと一言言って欲しいだけだったのだ。

そんな佐々木の顔を見て上島は少し目を細めると、ゆっくりと喋り始めた。

「……俺が花丸商事に入社したのは今から5年前だ。営業部に配属されて、一番最初の上司になったのが田村さんだったんだ。その当時は田村さんもまだ課長で、営業のノウハウを全部教えって貰って……始めは、尊敬する上司だった。ちょっと頼りない雰囲気もあるけど、仕事はかなりやり手だったし、部下を育てるのも上手だったよ。契約を取ってくるとめちゃくちゃ誉められるのが嬉しかった。実際営業の仕事もおもしろかったし、なにより、契約をとったときのあの人の笑顔が見たかったんだ」

上島は当時を思い出すように目を伏せた。

「好きだっていう自覚を持つのに、そう長くはかからなかったよ。ある飲み会の晩、酒の勢いも手伝って田村さんに気持ちを伝えたんだ。断られても酒の上でのことだから、ダメでも冗談程度に済ませて貰えるだろうと思ったさ。でも意外なことに、田村さんは俺を受け入れてくれたんだ。田村さんには奥さんがいたけれど、もともと結婚できる相手なわけじゃなし……当時の俺にはそんなことどうでも良かったんだよ。たまたま好きになった人が妻帯者だっただけ、なんて。それがどういう事になるのかもよく分かってなくて……幼かったんだな、俺」

上島は ほんとバカだ、と言って苦笑した。

「ある日、二人の関係が奥さんにばれたんだ。密会場所だった俺のマンションに突然訪ねて来て……奥さん、めちゃくちゃ泣いてた。当然だよな。若い女ならいざ知らず、浮気の相手が男だった、なんてよ」
「……それで、どう…なったんですか?」
「そこで終わりだよ。あっさりと俺の負け。田村さんは奥さんを選んだんだ。俺には何の相談も弁解も…別れ話すらなく、ある日急に福岡支社に転勤してったよ」
「何にも言わないで、ですか?」
「何にも。転勤の話しも寝耳に水だったし……結局、俺はあの人から愛されてなんかなかったってことだよ」

そこまで言って上島は俯いた。右手のひらで2、3度 目を擦ると、絞り出すような声で あんなの、もう2度とごめんだ、と小さく言葉を吐いた。人の家庭を壊したことも、誰かをあんなに泣かしたことも、自分が愛されてなかった事実も……2度と、ごめんだ。こんな上島を見るのは初めてで、佐々木はなんともいたたまれない気持ちになった。

でも本当に?

浮かんだのは田村の穏やかそうな笑顔で、そんなこと平気で出来るような人には到底見えない。愛してもいない人間と関係をもてるような、そんな人にはどうしても佐々木には思えなかった。

「きっと……きっと何か事情があったんですよ!」
「事情?どんな事情があったっていうんだよ、俺が捨てられたことには変わりない。それも最悪の形で!」

上島は佐々木を真っ直ぐに見つめると、はっきりとした口調でそう言った。そして視線を落とすと、しばらくして口を開いた。

「残された俺は失意のどん底だった。あんなに好きだった営業の仕事も苦痛になって辞表を提出したさ。その時は気がつかなかったんだけど俺、結構優秀だったらしくてさ、受理して貰えなかった。ありがたい話だよな。上としては営業部に残って欲しかったんだろうけど……」
「じゃあ、今の総務へはどうやって移ったんですか」
「半年間、契約一つも取らなかった」
「……一つも……ですか?」

呆然と繰り返した佐々木に ああ、そうだ と上島は頷いた。

「総務部でも企画部でも何でもいい。とにかく営業部から一刻も早く離れたかったんだ。それから……人を好きになるのが、ちょっと恐くなった」
「…………」
「もう二度と人なんか信じられないし、恋愛なんか出来ないと思ってたんだ。お前が、目の前に現れるまで」

いきなり飛び出たその名前に佐々木は思わず上島の目を見た。

「……僕……ですか?」
「お前は気づいてなかったかも知れないけどな、入社するずっと以前から俺はお前を知ってたんだよ」

それは意外な言葉だった。入社する以前から上島が佐々木を知っていたなんて。

佐々木は総務部へ配属された日、初めて上島と会ったときの光景を思い出した。

「最初に会ったのは会社帰りの電車の中だった。お前、年寄りになんの躊躇もなく、席、譲ったりしてるだろう」
「え?ああ……うち、祖母と同居してましたからなんか、他人事じゃなくて……」
「その時……断られたんだろうな。前に立ってたばあさんがちょっと怒ったような感じで……お前、ちょっと困ったような顔してた。さほど珍しい光景でもなかったし、その時は『あーあ、可哀想に』ってぐらいにしか思わなかったよ。だけど…」
「だけど?」
「それから2、3日後に電車でまたお前を見かけたんだ。人の顔を覚えるのは割りと得意だったから自信あった。お前……また席譲ってた」

上島は少し笑顔を浮かべて思い出すように言葉を紡いだ。

「正直、驚いたよ。俺らから見ればどう見ても老人なのに『自分はまだまだ若いんだから』って席を譲られるのを拒否する人って、結構最近多いんだ。そういうのに一度遭遇すると、大抵のヤツは二度と譲らなくなるか、萎縮しちまって譲るのを躊躇するかのどちらかなんだよな。なのにお前、またなんでもないように席譲ってんの。その時もばあさんだったけど、今度はうまく座ってもらえて、そのばあさんお前に礼を言った。その時……お前メチャメチャ嬉しそうに笑ったんだ。そしてその笑顔に俺は一目惚れしたんだよ」

そこまで聞いて佐々木は自分の顔がみるみる紅潮するのを感じた。

「そ、そんなこと……ありましたっけ……」

佐々木は高揚した顔を隠すように俯いた。

確かに上島のいうとおり、佐々木は老人には躊躇もなく席を譲る。だけど数が多すぎていつのことやら分からない。そんな佐々木に気付いているのかいないのか、上島は更に続けた。

「それから電車にのると、決まってお前の姿を探すようになったよ。会える日もあったし、会えない日もあったけど……おっくうになってた電車の通勤がだんだん楽しみになっていった。まるで片思いの子を探す男子校生になった気分だったよ」
「……声、かけようとは思わなかったんですか?」
「思わなかったよ。俺が知っているのは電車の中のお前の笑顔だけだったし、それ以上先に進むには……俺はちょっと臆病になりすぎてた。だから……見てるだけで、良かったんだ」

上島は佐々木の顔を見て穏やかに微笑を浮かべた。

「……じゃあ、どうして僕を……」
「偶然が味方したから」
「え?」
「思いがけないところで佐々木に会った。入社以前に何処だと思う?」

上島はまるでクイズを出すかのように、右手の人差し指を佐々木に向けた。いきなりそんなこと言われても、どこで出会ったかだなんて想像もつかない。

「さあ……」
「会社の面接会場」

それを聞いた佐々木は あっ!という顔をした。そうだ、そう言われてみれば、入社以前に会社との接点は入社面接時か、その後の説明会しかない。

「面接の雑務は総務の仕事だ。スーツ着てたけど面接を受けに来る学生の中でお前のこと、すぐに分かったよ。そして本当に入社してきた。しかも俺の部下として」

佐々木は唖然とした。そんな偶然、あるはずがない。そう思った佐々木の心の内を見透かすように上島の声が響いた。

「そんな偶然あるはずがない。俺もそう思うよ。だけどな、本当なんだ。俺は運命論者とかじゃないけど、もう一度信じて見ようって気になった。神様が……新しい恋をくれたんだと……そう、思った」
「…………」
「部下になったお前ときたら、仕事覚えは悪いわ、要領を得ないわ……」

上島は思い出したようにプッと吹き出した。

「でもいつも一生懸命で……やっぱり好きだなって思った。見ているだけじゃ、嫌になったんだ」

上島は椅子から立ち上がって佐々木の前に膝まずくと、佐々木の顔を見上げた。その視線に佐々木は困惑する。

「気付いたのは、お前が俺のことを意識し始めたあたりから」
「え?」

佐々木は何のことか分からず聞き返した。

「俺達が、身体を繋げないのは何もお前のせいじゃない。俺が、悪いんだ」
「どういう・……ことですか」
「……恐いんだ、身体を繋ぐのが」
「恐いって……、上島さんが?まさか……」

信じられないのは佐々木の方だった。入社間のない佐々木にあんな迫り方をしたのだ。それなのに、目の前のこの男は自分と身体を繋ぐのが恐いのだという。佐々木はわけがわからなくなった。戸惑い気味の佐々木の目から、少し視線を逸らせて上島は言う。

「あんなに欲しかったお前なのに、いざ心が手に入ると恐くて恐くて触れられない」
「上島さ……」
「お前とあの人は違う。そんなの分かってるんだ。お前はゲイでもなんでもないのに俺のことを好きだって……そう、言ってくれた。ストレートのお前が同性を受け入れるのは……すごい、勇気がいったと思う。だから余計に」

佐々木はゴクッと喉を鳴らすと次の言葉をゆっくり待った。

「……余計に、お前を失った時のことを考えると、まるで親にでも捨てられる子供みたいに恐くて恐くて……しょうがないんだ」

上島は小さな声でそう言うと、そっと、佐々木の膝に顔を埋めた。

「身体なんて、俺さえ強引にすれば無理にでも繋げる」

膝にうつ伏せた上島を覗きこむように佐々木は顔を傾けた。

「だけど、そうすることで……お前の心が離れていくのが……恐いんだ……」

佐々木はそっと上島の頭の触れた。表情は読み取れないけれど、きっと辛い顔をしているに違いない。佐々木の腰に回された上島の両手に力が入ったのを感じたからだ。そう思うと、佐々木の胸は締め付けられるほどに痛んだ。しかし、なんて言葉をかけていいのか分からない。

上島の手が少し震えているのが分かった。

「お前が望まないんなら、身体の関係なんて一生持たなくったっていい」
「………でも」
「いいんだ……」

佐々木はなんと言っていいのかも分からないまま、ただひたすら、上島の髪を梳いてやることしか出来なかった。ただそうやって自分の膝に顔を埋める上島が、まるで小さな子供のように感じたのだ。こんなことで楽になるとは思わないけれど、少しでも、上島の傍にはいつも自分がいるということを分かってくれれば良いと思った。

佐々木は何度も上島の髪を梳き続けた。何度も何度も………。

 

*    *    *    *    *

 

朝、目が覚めると上島はもう起きていて、いつもと全く変わらない様子で新聞を読んでいた。テーブルに視線をやると、すっかり準備できた朝食がのせられてあって、いつも佐々木は感激する。

気配に気づいた上島が顔を上げると、佐々木は お、おはようございます、とどもりながら声をかけた。緊張すると、どもってしまう習性があるらしい。その様子を上島は笑って おはよう、と返す。佐々木はその笑顔に思わず見とれた。黙っていた過去を打ち明けたことで肩の荷でも降りたのか……とにかく、上島のこういう笑顔は久しぶりだったのだ。佐々木はなんとなくホッとした。

椅子に座ると、上島は味噌汁の入った椀をテーブルに置いた。上島は本当にマメで、その実行力には頭が下がる。自分じゃ絶対マネできない。

味噌汁をゴクッと飲み干すと、佐々木は上島を上目使いに見つめた。それに気付いたのか、上島が佐々木の方へあからさまな視線を送る。

「何?」
「えっ、いや、あの………」

ただなんとなく見ただけなのに、突然の上島の問いかけに佐々木は慌てた。慌てついでに顔が赤くなったのを感じる。とにかく、なにか言わなくちゃ!――――――が、出たのは以下のような言葉だった。

「い、いつもの、上島さんだなあ、と思って……」
「あたりまえだろ。なんだ、そりゃ」

上島は呆れたような顔で言った。言った佐々木本人も呆れた。どうして自分はこうも気がきいた言葉の一つや二つも言えないのか。ちょっと落ち込む。

そんな佐々木の胸の内を知ってか知らずか、ふいに上島が目を細めて口を開いた。

「いろいろ悪かったな、心配かけて」
「は……」
「泣いたんだって?」

頬づえをついてニヤニヤしながら上島は佐々木を見ている。佐々木は何のことだか一瞬わけが分からなかったが、しばらくしてあっ!と思った。

「犬養……ですか?」
「さあな」
「あいつ……」

佐々木の顔はみるみる高揚した。その顔を見ながら上島は満足そうに笑った。

「佐々木、可愛いなあ」

上島とのこんなやり取りも本当に久しぶりだ。やっぱり上島はこうでなくては。

佐々木は ああ、良かったな、と思いながらも、頭には一つ……気になることがひっそりと影を落としていた。それは上島の田村への気持ちのことで、昨日はいろんなことを一度に知りすぎたために遂に最後まで聞くことが出来なかったのだ。

佐々木は聞こうとして口を開いたが、少し思い直してやっぱり閉じた。今は、何とも思ってなければそれでいいんだ。それで……。

 

*    *    *    *    *

 

田村を見かけたのは、ほんの偶然だった。佐々木が階段を上ってきて、総務部へ続く廊下を曲がろうとしたときである。向こうの廊下からやってくる田村に気付いたのだ。

(田村部長……!)

別に悪いことをしたわけでもないのに、佐々木はとっさに壁の影に身を隠した。知らない頃ならいざ知らず、知ってしまった佐々木には、どうしても前のように真っ直ぐ田村を見ることなどできやしない。あいては営業部長で、対人に関しては百戦練磨の強者である。佐々木の胸の内など表情一つで見透かされるような気がしたのだ。

壁の向こうからそっと様子を伺った。と、その時だ。田村が持っていた営業用の資料らしき書類がバサバサと足の周りに撒き散らされた。

(あっ……!)

田村が書類を拾い始めると、そっちの手の動きに気でも取られたのか、今度は右手に抱えられてあった落ちなかった分の書類が散乱する。

「あ……ああ、あー……」

田村の悲痛な声が佐々木の耳を直撃する。今、田村はすごく困った顔をしているんだろうな、と、その顔が安易に想像できて、なんだか佐々木を落ち着かない気持ちにさせた。

(ああ、なんかもう……見てられない)

昨日の上島の『一見、頼りなさそうな……』という言葉が思い出されて、いよいよ佐々木は放って置けなくなった。もうダメだ!

佐々木が拾うのを手伝おうと、壁から出ようとした瞬間、佐々木の動きは止まった。田村の書類を拾うのを手伝う人物が現われたからだ。跪いて書類を拾う田村の前に何枚かの書類を差し出したのは……上島だった。

驚いたような顔をした田村が上島を見たが、上島は何も言わず、まだ散らかされた残りの書類を黙々と拾い集める。上島が最後の書類を手渡すと、田村はにこやかに笑顔を浮かべて言った。

「ありがとう、助かったよ」

聞いているのかいないのか、上島は最後の言葉を待たずに立ち去っていった。カツカツと靴を鳴らす足音だけが廊下を響かせる。その光景を見て佐々木は愕然とした。

(上島さん、まだ、田村部長のこと……)

口にあてた手がガクガク震えているのが自分でも分かる。しっかりしろ、自分!佐々木は自身を叱責した。そうでもしないと、こんなところで泣いてしまいそうだったのだ。

書類をばら撒いて困っている人を、ただ助けただけの話だったが、佐々木は見てしまった。ありがとうと、田村が言ったときの上島の顔を。今にも泣き出しそうな、上島のその顔を。

 

*    *    *    *    *

 

日中も風が冷たくなり始めた午後、屋上で佐々木は壁にもたれて膝をかかえてうずくまっていた。

どうしよう、どうしよう、どうしよう……上島の恋はまだ終わっていない。佐々木は苦しくて、苦しくて、胸がつぶれてしまいそうな重圧感に襲われていた。もう本当にどうしていいのか分からない。

膝の上に置いてある両手に顔を埋めていた佐々木はふいに顔を上げた。誰かが、屋上のドアを開けたのだ。ゆっくりと視界の先にピントを合わせると、実に意外な人物が浮かんできた。

慌てて立ち上がると、佐々木は言った。

「!田村……部長……!」
「君は確か総務課の佐々木くん、だったよね。……何か……いや、なんでもない」
「あ……」

そんなに酷い顔をしていたのだろうか、佐々木は慌てて両手のひらで、顔を擦った。カッコ悪い。もしかして泣いてたのもバレたのかもしれない。

顔をゴシゴシしていた手をどかすと、田村はわざと佐々木を見ないような方向を向いて、タバコに火をつけていた。上島と同じ銘柄、それすらも今の佐々木には心に苦痛を強いる小道具としか映らなかった。ゴールデンバットの煙がゆらゆらと天に昇ってゆく。嗅ぎ慣れた上島の匂いだった。

そんな田村の横顔を見ながら、佐々木の脳裏にはあることがチラついた。そうすれば、もしかして上島は……。心の中で苦しい葛藤が起こったが、これ以上この状態でいるのは正直、もう耐えられそうになかった。

「あのっ!」

佐々木は親の敵を取りに行くような切羽詰った表情で、田村の目をじっと見据えた。

「田村部長……お話が、あるんです」

 

*    *    *    *    *

 

流し台の前で、洗い終わった食器を拭きながら話しかけたのは佐々木だった。

「ねえ、上島さん。明日、外食しませんか」
「いいけど……そりゃまた急だな」

佐々木の隣で皿を洗っていた上島が答えた。食後の後片付けは2人でするのが断然早くて効率的だ。

「今日は会社の女の子たちが話してるの、聞いたんですよ。オシャレで美味しいって。なんかものすごく行ってみたくなちゃって」

楽しそうに話す佐々木の表情に、上島は思わず笑顔を浮かべた。佐々木のこういう顔を見たのは本当に久しぶりのような気がしたのだ。

「ダメ……ですか?」
「なんで」
「いや、上島さん自炊に命かけてそうなとこあるし」
「佐々木に美味いもん食わせんのには命かけてるよ」

上島がそう言うと、佐々木は あははと笑った。もともとが童顔系だから笑うと一層幼く見える。そんな佐々木のたわいない笑顔で、こんなにも心が満たされてしまう自分は本当に幸せだと思った。佐々木の言うことならなんでもきいてやりたい。

「分かった、明日?いいぜ、外食しよう」
「えっ、いいんですか」
「いいよ、いい」
「…………」
「佐々木?」

一瞬黙った佐々木だったが、上島が問いかけるように名前を言うと佐々木はニコッと笑顔を浮かべて一言言った。

「これ、デートってヤツですよね」

その言葉に上島は あ、という表情を浮かべた。言われて見ると確かにそうだ。

「じゃあ、気分盛り上げついでに待ち合わせとかしてみるか」
「えっ……」
「本格的だろ」

上島がニヤッと笑ってそう言うと、佐々木は うんうん、と身体中を使って喜びを表現する犬のように首を縦に振った。

「そんなことでそんなに喜ぶなよ。こっちまで嬉しくなるじゃないか」

佐々木はそんな上島の言葉を聞いて思わず赤くなった。照れ隠しなのか、ええとですね、とか何とか言いながら、佐々木は上島の顔をチラッと覗くように見つめた。そして一瞬、何かを言いかけようとして、何を思ったか、たわいない笑顔を浮かべると佐々木は改めて頭をペコッと下げたのだった。

「それじゃあ、明日、よろしくお願いします」

 

 

カチコチカチコチ……時計の音が気になって眠れやしない。佐々木は豆球の明りがついただけの、薄暗い照明を見ながらそう思った。

(これで段取りは全部揃った。後は……)

そこまで思って佐々木は隣で眠る上島に視線を向けた。身体も同じ方向に返すと、掛け布団の下から佐々木の手が隣の布団にゆっくりと伸ばされる。忍び込んだ手が確認するかのように上島の腕を捕らえると、佐々木はかえされることのない上島の手にそっと触れた。

(明日もし、そうなったとしたら俺は………)

真正面に上島の整った寝顔を見つめる。

(俺は本当に、この手を離すことが出きるのかな……)

佐々木の不安を煽りたてるように時計の音だけがやたらと大きく聞こえた。


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