7


『一緒に暮らそうか』

そう言った上島はその翌日、本当に佐々木の部屋に寝床を移して、その週の休みには必要最低限の荷物を佐々木の部屋に移動させた。上島のこういう『思い立ったらすぐ行動』的なところは、仕事と同じでフットワークが非常に軽い。まあこの件に関していえば、『性格』、それだけではないのは確かだ。やっと両思いになれた佐々木と、1分でも1秒でも長く一緒にいたい。尤も、もとが隣同士なのだから今までと何が変わるというわけでもなかったが、気分だけはずいぶん違う。

上島の部屋はというと、引き払わずそのまま継続していた。もともと上島は部屋が手狭になったから引越ししてきたのだ。2DKの部屋に二人全部の荷物を置くには狭すぎる。家賃の2度払いという気もしないではないが、そこはそこ。いい物件さえ見つかれば引越しで何でももすればいい。二人の関係はまだ始まったばかりなのだから。

 

さて佐々木の方は……というと、犬養と以前来たときとはまったく別のシチュエーションで、駅前にある喫茶店のカウンターに座っていた。この喫茶店は9時になるとバーに変わったりするような店なので、軽食の類しか置いていない。だから7時という中途半端な時間の店内は、ほとんど貸しきり状態に近かったのだ。

事情を話す佐々木の顔を神妙に見つめながら、犬養はやっぱり……と諦めにも近い顔をして言った。

「……そっか。まあ遅かれ早かれこういう風になるような気はしてたけど……ちょっとショックだなー」

吸っていたマイルドセブンの吸殻を目の前の灰皿に押し付けると、犬養は微笑みともとれる穏やかな表情を浮かべた。

とうとうこうなってしまった二人のことを、最初に話した。今頃、好きになりました、なんて報告するのは少し気恥ずかしい気がしないでもないが、犬養は経緯を知っているし、一度は告白された身だ。一応報告をしておく義務があると佐々木は思ったのだ。

「……ごめん……」
「あ、謝ることじゃないだろっ!」

俺は友人なんだから、と申し訳なさそうに俯く佐々木に慌てて犬養は言った。いつかはこうなってしまうだろうと覚悟を決めていた犬養ではあったが、実際そうなってしまうとなんだか急にがっかりした気分になる。本当はまだ少し佐々木のことが好きなのだ。尤も上島とどうこうならなくても、佐々木と犬養が一線を超えてしまうような関係になるような可能性は万にひとつもなかったのだが。

隣でカフェオレを飲む犬養の同僚の顔は、相変わらず可愛らしくて犬養は本当に残念に思う。

「…………ところでさ、一緒に暮らし始めて2週間だって?っつても今までとあんま変わんねぇんだろうけどさ」
「うん?」
「その、聞くのもなんだと思うんだけど……『女よりいい』って言うの、あれ本当か」
「……いいって……なにがだよ」

怪訝な表情を浮かべる佐々木に、犬養は大げさに マジかいよ、というリアクションをとった。

「分かんねぇの?お前ほんとに男かよ」
「だから、何だよ」

佐々木は はっきり言えよ!と非難がましい瞳で犬養を見つめた。どうやらとぼけているわけではないらしい。その言葉を聞いた犬養の頬に、少し赤みが指したのは内容が内容だからだろう。犬養は少し呆れ気味な様子で、佐々木の耳元に口を寄せると、カウンター越しのマスターに聞こえないよう細心の注意を払いながら声を潜めて言った。

「だからセックスだよ、セックス!したんだろ?上島と!!」

佐々木は驚いて座っていた椅子から立ち上がった。その弾みでカウンターの椅子が勢いよく倒れて、マスターが驚いた顔で 何事?と、こっちに視線を向ける。慌てた犬養が、何にもありません、としきりに手を振って、その隣で佐々木はバツの悪い顔をしながら倒れた椅子を引き起こした。

したんだろって、あんた……。まさか犬養がそんなことを聞いてくるなんて夢にも思わなかったのだ。とんだところで佐々木は冷や汗をかいた。尤も女性経験のない佐々木には比べようもない。大体、佐々木は『する』方ではなくて『してもらう』側なのだ。百戦錬磨の男娼じゃあるまいし、上島のような男をリードする力量など佐々木は大概持ち合わせていない。

誤解無きよう言っておくが、犬養だってまだ好きだと思っている相手に、そんな無粋なことを聞くような野暮ったい趣味はない。しかしこれはこれで純粋な興味があったのだ。こんなこと聞ける相手、そうそういない。聞けるものなら聞いてみたいと思うのが、人間としての当然の心理だ。

「なっ・……ななななな何でそんなこと聞くんだよ!」
「そっ、そんなに取り乱されたら、こ、こここっちだって、恥ずかしいだろ!興味あるんだよ、男として!!」

聞かれた佐々木はともかくとして、犬養までもが何故どもる。赤面した佐々木につられて犬養までもが恥ずかしくなった。しばらく赤い顔で黙ったままの佐々木は、椅子に腰を掛け直すと視線を外したままで犬養に言った。

「…………してない」

それを聞いて えっ?っとした表情を浮かべたのは犬養だ。正直、呆気にとられた。だって上島というやつは仕事でチョンボした佐々木にその代償を身体で払え!と貞操を奪いかけたとんでもない男である。そんな男に2周間は長すぎだ。佐々木が告白した最初に日にそういう行為があったって意外どころか当然に思う。っていうか、なけりゃおかしい。

犬養は唖然としたままの顔立ちで、黙ったままの佐々木に言った。

「ないって……嘘だろ?」
「本当だよ、そういうのまだ何もしてない」

佐々木は目を犬養とは逆の方に泳がせながら、赤い顔をして言った。

「2週間だぜ、まだ……」


*    *    *    *    *

 

まだ、2周間。そうだ、2週間だ。

……と、そこまで思って佐々木は小さなため息をついた。犬養には黙っていたが、実はあったのだ。それじゃあ、セックスしましょうか、と、そういう雰囲気になった夜が。最初にあったのは犬養が予測したとおり、佐々木が告白したその日の夜のことだったのだ。

 

風呂から上がった佐々木を待っていたかのように、上島は佐々木の頬に触れた。それだけで佐々木の心拍数は破竹の勢いで上昇したが、上島はそんなことお構いなしだ。そのまま顔を近づけて佐々木の唇をそっと奪うと、そのままゆっくり、佐々木の口内を舌で侵していく。頬に触れた上島の両手が、梳くように佐々木の髪を掻き乱した。

躊躇も無く、口に入ってきた舌は礼儀を知らない。舐められたり、吸われたり……経験のない佐々木にはどうしていいのか分からない。口を開くのが精一杯だ。

「……んっ……」

佐々木の口から、ため息のようなこ吐息が漏れたのをきっかけに、上島は佐々木の身体を優しく押し倒した。

上島とキスをした(というか無理やり奪われた)のはあの夜の会社で以来初めてのことだった。ついばむように、何度も何度も唇を重ねる。あの時も思ったことだが上島のキスはやたらと佐々木を感じさせる。上島が上手いのか、それともあの頃から実はもう上島のことが好きだったのか……。そんなことは、今の佐々木にはもうどうでもいいことだった。何はともあれ、結局そういうことになってしまったのだから。

佐々木は色恋には疎いが、23のいいトシをした大人だ。好きだと言われた相手を受け入れるということが、どういう行為を伴うことかは充分に承知している。上島に告白した時点で多少は覚悟していたつもりだったが、流石にシャツに手を入れられると身体が強張った。身体が、震える。

「………や…っ」
「!」

緊張が走って思わず口にした言葉だったが、上島は驚いたような顔をしてそのまま……行為を続行するのを、やめた。目を閉じて震えた佐々木に無理強いは出来なかったのだ。

「……悪い、ちょっと性急過ぎた」

そう言って、佐々木の頭をくしゃくしゃなでる。その下には涙目になった佐々木がいて、上島はなんだかいたたまれない気持ちになった。目を細めて佐々木を見ると、上島は労わるように優しく言った。

「今日は、やめよう」

意外なことを上島は言った。やめる?佐々木はその言葉に慌てて跳ね起きると、上島のシャツの袖を掴んだ。

「……えっ、あの……そんな……」

ここまできて。

佐々木の目は必死に訴えたが、シャツを持つ手が震えるのを、本人にもどうすることも出来なかった。上島はそんな佐々木の手を握ると、ゆっくり言った。

「焦らなくても別にいいんだ。時間は、これから沢山あるんだから」

 

その後何度かそういう雰囲気にはなったのだが、いずれも同じようなやり取りで先へは進むことが出来なかった。佐々木だって、年頃の健康な成人男子だ。好きな相手としたくないはずがないし、人並みに興味だってある。だがしかし、いざ行為に及ぼうとすると決まって身体が竦んでしまうのだ。上島もそんな佐々木に無理強いをしない。そんな上島の優しさに甘えて、結果……2ヶ月経った今も二人の関係は一向に進展しないままだった。好きあっている健康な男子二人が、同じ屋根の下で寝食を共にしているというのに、これは少し不自然過ぎる。

それでも、心のどこかでホッとしている自分がいるも、また事実だったのだ。

 

*    *    *    *    *

 

月末が〆の花丸商事の総務課は月初が一番忙しい。

「あー、もう……」

仕事が重なってイライラする、と言わんばかりにだるそうな声を上げると、上島は机上に積み上げられた未処理の書類をバサバサとより分けた。1枚1枚、スピーディだが丁寧な動作で目を通す。バラバラと勢いのある動きが一枚の紙に目を奪われ、ふいに上島の手が止まった。

「……人事異動、か」

それは別段、重要でもなんでもなく、11月1日付けの人事異動の回覧紙だった。5枚綴りの書類で、左上に1箇所、ステープラーで止められている。無造作にペラッと書類をめくると上島はその一ページに酷く驚いた表情を浮かべて瞬きをした。上島はその書類を睨みつけるようにじっと見ていたが、やがて回覧チェック欄にボールペンで印をいれると、右隅に置いてある既決箱に放りこんだ。

「ちょっと、タバコ吸いに行って来る」

そう言って上島は席を立って、足早に屋上へと向かった。

 

フェンス越しに屋上から見える風景を見ながら、上島はタバコの煙を深く吸いこんだ。動揺しているのか、タバコを持つ手が少し震える。

「ちくしょう、今頃一体……なんだってんだよ……」

上島は独り言のようにそう呟くと、額に掛かる前髪をグシャグシャと掻き揚げた。風がゴウゴウと吹いてタバコの紫煙が舞うように消えていく。ギィと、ふいに屋上の扉が開く音がして、思わず上島は後ろを振り返った。

「よお。偶然だな」

そう言ってドアからこちらの方へ歩み寄ってきたのは営業部の桂木圭吾だった。屋上はあまり人が来ない場所で、一人になるのは恰好の場所ではあったが、たまにこうやってタバコを吸いにやってくる『もの好き』が出没する。

上島はあからさまに迷惑そうな顔をして言った。

「……桂木か」
「なんだよ、元気ねえな」
「見たくもねーお前のツラ、見たからな」

その科白に桂木は苦笑すると、スーツの内ポケットからタバコを取り出した。一本口にくわえて銀色のスリムなフリントライターで火を点ける。最初の一口を味わうように吸いながら、桂木はゆっくりと口を開いた。

「そういや、田村さん、来月帰ってくるらしいな」
「……らしいな。さっき、回覧で見た」
「本社へ舞い戻りってか。栄転ってやつだな。ま、俺らにしてみりゃ仕事がしやすくなりそうだけど?」

聞いているのかいないのか、上島は1本目のタバコを携帯灰皿に押しつけると、2本目のタバコに火を点けた。

「で、お前どうすんの」
「どうって、別にどうもしないさ。お前にゃ関係ないだろう」

そりゃそうだ、と軽口を叩いて桂木も2本目のタバコを取り出した。桂木のこういう気を使わないところは案外気に入っている。そのまま無言でタバコを吸っていた二人だったが、桂木は今日は忙しいとかなんとかで、2本目を吸い終わると早々に出口に向かった。相変わらず忙しい男だと上島は思う。

ドアを開けようとした背中をぼんやりと見ていると、桂木は不意に思い出したように降り返り、不適な笑みでこう言った。

「ま、なんかあったら声かけろよ。冷かしぐらいはしてやるからさ」

 

*    *    *    *    *

 

上島は最近なんだか様子がおかしかった。どこがおかしいのか、と聞かれると上手く説明できないのだが、考え事をしているのか時々ぼんやりしたり、滅多につかないため息をついたりと、とにかく上島らしくないのだ。

「上島さん、お昼ですよ」
「………」
「上島さん?」
「え?」

二度ほど呼びかけをしたところで上島は初めて佐々木の呼びかけに気付いた。驚いた表情で顔を上げる。そこにはいつもの佐々木の顔があって、上島はらしくない生返事を返した。

「ああ……。すまない、なんだ?」
「昼休憩に入りましたよ。お昼、食べに行かないんですか?」
「んー……」

こんな調子だ。尤もこんな調子でも仕事はきちんとこなしているのだからすごい。上島は重い腰をだるそうに上げると佐々木を促して、二人で総務部のドアを後にした。

(本当に上島さん、どうしちゃったんだろう……11月に入ってからだよなあ)

佐々木は横で歩く上島とチラリと見つめた。身体を繋いでいない清い仲とはいえ、恋人の様子がおかしいのは充分気になる。

階段を足早に降りて1階のロビーに降り立つと、上島の足が急に止まった。少し後ろを歩いていた佐々木もそれに合わせるように一緒に止まる。不思議に思った佐々木は、背後から上島の視線の先を追った。そこに居たのは、40歳前後ぐらいのスラリとした優しそうな感じの男で、ちょうど正面玄関から入ってきたところなのだろう。こちらへ、ゆっくり歩みよってくる。佐々木は視線を上島に戻した。

「…………?」

佐々木はポカンと口を開けた。どうして?

驚いたことに上島の瞳はその男の方をまだ見つめたままだったのだ。向こうの男もそれに気付いたのだろうか。その男もわずかだが、歩みの足をピタッと止めた。足を止めたのはほんの2、3秒だったが、それは上島を見つけての動作だということはすぐに分かった。視線を返すように上島の方へまっすぐ向けていたからだ。

男が歩みを元に戻すと、どんどん近づいてくるのに上島はその場から動こうとはしなかった。いや、『動こうとしなかった』、というよりは『動けなかった』という方が正しいのかもしれない。男はどんどんどんどん、着実に近づいてくる。会話をするのに不自然でない距離で足を止めると、男は気さくな笑顔を浮かべて上島に言った。

「やあ。久しぶりだね」
「……お久しぶりです」

上島はそう言うと目を伏せて、軽い会釈をした。その後ろでつられるように佐々木もお辞儀をする。男はその動作を穏やかな表情で見つめると、何の挨拶をするでもなく 「それじゃあ」、とだけ言って、何事もなかったかのようにそのまま去って行った。

二人が交わしたのはたった、それだけだった。それだけではあったのだけれども、あんな神妙な間を取ったにも関わらず上島はそのまま一度も降り返ろうとはしない。傍から見ればなんということのない感じではあったが、二人の間に走った、ほんの一瞬の緊張感は一体なんだったのか。

再び歩き出した上島の隣につけながら、佐々木が尋ねた。

「今の人、知り合いですか」
「……11月付けの営業部の新しい部長だ。3年前までここにいて……その後は福岡に行ってたみたいだけどな」
「へえー、福岡支店ですか。それじゃあ、栄転ってわけですね」
「ま、そうなんだろうな」

どうして上島がこんなに浮かない顔をするのか。その時の佐々木には、ちっとも分かっていなかったのである。

 

*    *    *    *    *

 

佐々木が田村に会ったのはその翌日だった。

会ったといっても、出会った場所は総務部のある3階のトイレだ。2度目の再会としては、お世辞にも品があるとはいえない。

田村に気づいた佐々木は、蛇口から勢い良く出ている水を止めると顔を上げた。視線が合うと、田村はおや、という表情をして佐々木をじっと見つめる。

「君は昨日……上島くんと一緒にいた子だね」
「あ、そうです!そ、総務部の佐々木といいます」

部長さんだ!、と慌ててお辞儀をする。

「佐々木くんか。あ、ちょっと吸ってもいいかな。こっちは知らない間に禁煙になっててねぇ、喫煙室で吸うのは人が多いからちょっと……」

田村はそう言って、胸のポケットからタバコの箱を取り出した。世の中でも国際化に向けて、禁煙する会社も増えている。喫煙者にとっては淋しい話かもしれないが、百害あって一理なし。喫煙者だけならまだしも、周りにいるタバコを吸わない非喫煙者の方が、被害が大きいと言われれば、我慢しなけりゃ仕方がない。

「上のトイレに行こうとしたんだが清掃中でね。下まで降りてきたんだよ」
「ああ!それでわざわざ3階のトイレまで」

合点がいったように佐々木は頷いた。

「吸うなら屋上とかいいみたいですよ。でもこれからの季節にはちょっと寒そうですけど」
「なるほど、屋上か!次からはそうするよ」

にこやかに笑いながら田村は箱から1本取り出すと無造作に口に加える。その瞬間、佐々木の視線が田村の右手に引きつけられた。

「そのタバコ……」

佐々木は非喫煙者だが、多少のポピュラーな銘柄ぐらいは知っている。しかし田村が持っているその箱といったら、『ゴールデンバット』という、ちょっと見なれない銘柄で、それでも佐々木が知っているのは上島がいつも愛用しているタバコだったからだ。かなりマイナーなタバコらしく、吸っている人は上島以外に、社外でも見たことがない。

「はは、あんまり見たことないだろう?なかなか古い歴史の由緒ある日本タバコなんだよ」
「上島さんが、同じのを吸っています」
「上島くんが?」
「ええ」

田村はちょっと意外そうな顔をして そうか、と言った。

「君は、上島くんとはどういう?」
「あ、職場の部下です」
「……彼は、良い上司かね」
「は……、素晴らしい上司だと思います。いつも迷惑ばっかりかけてるんですが……」

佐々木はそこまで言って、照れたように笑った。いつも迷惑かけてるのは本当だ。上島は仕事がトロいとすぐに怒ったり怒鳴ったりするけど、いつも最後まで面倒をみてくれる。ニコニコと笑みを浮かべるそんな佐々木を見て田村は穏やかに目を細めた。営業部の新しい部長は気さくで品のいい感じだが、印象としては少し頼りない感じがする。佐々木はなんとなくそう思った。

 

席に戻ると上島は相変わらずの仏頂面でパソコンのキーボードを叩いていて、後ろの方からちょっと覗くと、目の痛くなるような数字がビッチリ詰まった表を作成していた。目眩がしそうだ。

「うわー……なんですか、これ」
「んー………」

仏頂面を浮かべて生返事。どうやら佐々木の質問など耳には届いてないようだ。まあ説明するのも面倒くさいんだろう、と、ふと上島の横顔に目をやった。別に聞かれてもいないがちょっとした知り合いのようだし……。佐々木はさっきトイレで田村部長と会ったことを上島に話そうと思った。

「そういえばさっき、そこのトイレで田村部長とお会いしました」
「!田村さんと?……なんか……、言ってた?」
「いいえ、特に……あっ、そうだ。タバコの銘柄、田村部長と一緒なんですね。珍しいなーって思って」

それを聞いた上島の目がほんの一瞬だが見開いた。でもそれはほんの一瞬のことで、佐々木はちっとも気づいていない。佐々木を見上げていた視線を画面上に戻すと、上島はとって付けたように呟いた。

「……偶然だ」

 

*    *    *    *    *

 

佐々木の胸に疑惑が沸いたのはそれから数日後のことで、発端は営業部の佐伯女子の一言だった。

「上島くん、いるかしら?」

営業部の佐伯は時々こうやって上島を尋ねてくる。上島は佐々木の隣の席だから不在時はいつも佐々木が説明することになっているのだ。

「上島さんなら、さっき総務部長に呼ばれて会議室に行きましたけど……」
「あら……。じゃああの噂、本当なのかしら」
「噂?」
「ええ、噂」

噂……。佐々木は怪訝そうに顔をしかめた。その佐々木の視線を察知したのか、佐伯は 聞きたい?ともったいぶるように言う。こんな聞かれ方をされたら聞きたくなくても聞きたくなるのが心情だ。尤も上島に関する噂なら佐々木にとっては大いに関心がある。曲がりなりにも『恋人』なのだ。聞きたくないはずがない。二つ返事で頷くと佐伯が目を細めて笑った。

「うふふ、佐々木くんって素直で可愛いわねぇ。お姉さん、いろいろ教えてあげたくなっちゃうな」
「ちゃ、茶化さないで早く教えて下さいよ…!」

年上の、しかもかなりの美人にそう言われて佐々木は思わず赤面した。佐々木はもともとノンケの男である。今だって美人や可愛い女の子にはときめくし、いいなあ、なんて思ったりもする。上島になびいたのが自分でも不思議なぐらいだ。

「上島くん、営業部へ復帰するんじゃないかって」
「復帰?……異動……じゃなくて、ですか?」
「ええ。上島くん、3年前まで営業部では一目おかれた営業マンだったのよ」

それを聞いた佐々木は えっ!と短い、それでいて素っ頓狂な声をあげた。そんなの聞いたことない、初耳だ。

あの態度のでかさ、口のきき方、部内の発言率……絶対、入社時から総務部にいたものだと思っていたのだ。しかし優れた営業マンのはずの上島が、なんでこんな畑違いの部署に異動してきたのか、と佐々木にはそっちの方が気になった。秘密を暴いてるようで、ドキドキする。

「ど、どうして総務部へ移ったんですか?」
「さあ。よく知らないんだけど、冗談めいた噂なら一時期女子社員の間で飛び交ったわね」
「ど、どんな……」
「こないだ帰ってきた田村部長が福岡支社に転勤したからだって」
「え……それが、どうして?」
「二人はデキてたんじゃないかって」
「え……えええ、えっ!!」
「それが、福岡支社から田村部長が帰ってくるなりこの異動の噂話でしょう?この話、結構信憑性でてきたわよね」
「……………!」
「冗談よ、冗談。佐々木くん、そんなに驚かなくても」

佐伯は佐々木の大袈裟な反応にケラケラと笑ったが、当の佐々木は大袈裟どころの騒ぎではなかった。多分、会社の人達は上島がそういう人間であるということを知らない。でも佐々木は知っているのだ。絶対ないとは言いきれない。本当かどうかは置いといて、現在進行形の恋人である佐々木が驚かないわけにいかなかった。

絶句したままの佐々木に佐伯は更に続ける。

「田村部長は当時の上島くんの直接の上司だったのよ。仕事柄いつも一緒にいたし、上島くん、あの顔で彼女とかいなかったみたいだし。そういうのが好きな女子社員が勝手に妄想した噂よ、本当なわけないじゃない」
「そ、そうですよね……」
「そういえば、佐々木くんも上島くんと仲いいわよね。案外デキてたりして」
「ま、まさか!ち、違いますよ!!」

ムキになって否定した佐々木であったが、内心の動揺はかなりのものだった。実際のところデキかけで、まだデキきったわけではないのだが、これからそうなる予定なのだ。佐々木のような小心者にはかなり心臓に悪い。

そして女子社員の噂、あなどれない……と、佐々木はひっそり思った。

 

*    *    *    *    *

 

佐々木ははっきりいって疎い。疎いというか、ニブチンだ。佐伯にここまでダイレクトにいわれるまで思いつきもしなかった。ヒントはたくさんあったのに気付かなかったのが不思議なぐらいだ。

佐々木は自分のデスクで溜まっていた仕事を片付けていたけれど、ちっとも頭に入りやしない。仕事に集中しようとしても、どうしてもすぐ上島のことを考えてしまう。上島にしれたら怒鳴られてしまいそうだ。しかし佐々木の頭の中にはたった一つのことしか考えることが出来なかった。佐伯の言葉。

『二人はデキてたんじゃないかって』

……営業部の女子社員達が噂したとおり、きっと二人は関係があったのだ。そうすると最近の上島の様子がおかしいのも全て納得がいく。

過去のことを言わなかったことに関してはどうでもいい。知ったところでもう過去のことだ。人間、28年間も生きていれば上島ほどの男なら、一人や二人そういうのがない方がかえっておかしい。中には触れられたくない思い出だってあるだろう。そんなのわざわざ掘り返えして波風を立ててやる必要なんかあるはずがない。

だけど、最近のぼんやりとしたあの態度、ロビーで田村と会ったときの上島の反応、……なにより、田村が現れてからというもの上島は佐々木に全くといっていいほど、触れてこなくなったのだ。性的な意味合いを含まないものに関しても。

佐々木の胸の中を一つの疑惑が渦まいた。もしかすると上島はまだ田村部長のことを好きなんじゃないか?

(いや、でも触れられたくない思い出なのかも……)

どっちなのか。佐々木にはこれを確認する度胸がない。もしまだ好きなのだとしたら上島に答えてしまった自分はどうしたらいいのだろう。きっともう、立ち直れやしないのだ。だけど……知りたい。

モヤモヤと考えていると、勢いよく総務部のドアが開いた。上島だ。弾かれたように机から顔を上げると、佐々木は上島に詰め寄った。

「か、上島さん!話し……なんだったんですか?!」
「あー……?来月から主任に昇格だってさ」
「そ、そうですか……あっ、おめでとう、ございます!」
「あんまりめでたくねぇよ。また七面倒くさい仕事が増えるだけだっつーの」

あからさまに不機嫌な顔でそう言うと、上島はドカっと自分の席に腰を下ろした。

(なんだ、営業部へ異動じゃなかったんだ。よかった……)

上島はいつもの仏頂面に更に輪をかけたような不機嫌な顔で眉間にしわを寄せている。いつもの、上島だ。佐々木はなんとなくホッとする。同時にさっきの疑惑を晴らしたくもなった。

きっと、自分の考え過ぎなんだ。いつもの上島だったら、冷静にやり過ごしてくれる。佐々木はさっき佐伯から聞いたことを言ってみようと思った。関係あったにしろ、なかったにしろ……いつものぶっきらぼうな言い方で、きっと佐々木を納得させてくれるに違いない。

佐々木は唐突な話題が不自然に聞こえないようにと注意して、さも今思い出したかのような口ぶりで上島に話しかけた。

「そういえば上島さん、昔営業部にいたんですってね」

返ってきた答えは佐々木の予想を見事に覆した。それを聞いたとたんに上島の顔色がみるみる変わったのだ。椅子から立ちあがると、佐々木の腕をがしっと掴む。スーツに寄ったしわが、上島の力の入り具合を鮮明に映し出していた。そしていつもの上島らしくない取り乱し様で、佐々木に怒鳴るよう言ったのだ。

「!……誰に聞いた!桂木か!?」

その予想外の反応に佐々木の方が心底、驚いたのである。

「え、営業部の佐伯さんです!」
「佐伯・……」

その名を聞いた上島はようやく冷静になって、同時に佐々木の怯えた顔が目に入った。不安そうな、顔。

上島は掴んでいた腕を離すと、らしくない大きなため息をついて佐々木についぞ謝った。

「……怒鳴ったりして、すまなかった」
「い、いえ……」

上島は目を合わさない。それがかえって佐々木を不安にさせた。しかもこんな剣幕で怒鳴られたりすると、ますます疑惑の色が深くなる。深くなるどころか、これはもう、決定的だ。やっぱり、単なる触れられたくない思い出なんかではなかったのだ……。

佐々木は確かめたいばかりに上島に言ったことを、酷く後悔することになった。

 

*    *    *    *    *

 

犬養はいつも3時きっかりに、休憩がてら1階ロビー脇にある自販機でコーヒーを買うのが日課だった。それは今日も変わらない。ふと、視界の先に、よく見知った友人が自販機横の長椅子にポツンと一人座っているのが見えた。佐々木だった。

「よお、佐々木」
「ああ、犬養か……」
「なんだよ、元気ねえじゃんか。上島とケンカでもしたのか?」

冗談で言ったつもりだったが、佐々木が泣きそうな顔をしたので犬養は飛び上がるほど驚いた。慌ててフォローを入れようかと思ったが、一体全体、どこがどう悪かったのか皆目見当がつかない。犬養はまくし立てるように声を荒げた。

「な、なんだよ!俺、なんか悪いこと聞いたか?」
「……犬養は別に悪くないよ」
「じゃあ、なんでそんな泣きそうな顔するんだよ……俺でよければ相談にのってやるけど?」

佐々木は犬養の顔を見つめた。一人で思い悩んでいても自体はちっとも良い方向には進みそうもなかったのだ。こんなこと、相談できるのは上島とのことを知っている犬養ぐらいしかいない。

自販機の前にあるベンチに腰を掛けると、佐々木は11月からの経緯を犬養に話した。上島の様子がおかしかったこと、田村部長が本社へ赴任してきてからのこと、佐伯の話も……。大まかな内容を聞いた後、犬養は うーん、と唸って複雑そうな表情を浮かべた。

「……そりゃあ、疑わしいよな」
「だろ」
「でもさ、もう終わったことなんだろ?」
「それはそうかもしれないけど、もし……田村さんもまだ上島さんを好きだったら?」
「……やけぼっくいに火が付くかもしれないってこと?」
「………」

佐々木は答えなかった。答えなかったけれども、佐々木がそう思ってることは間違いなさそうだ。目に力のないまま、精彩のない顔で俯く。犬養は佐々木に視線を注いだ。今だって泣きそうな感じで、見てられない。

「お前、もっと自信持てよ。最初に上島の方がお前のこと好きだって言ったんだろ?」
「でも………」
「そんなの、ありえないと思うけど」
「犬養……。俺、上島さんとはまだ何にもないんだ」

それを聞いた犬養は えっ!という短い悲鳴をあげた。あれから裕に3ヶ月は経っている。当然すっかり済ませたものと思っていただけにずいぶん驚いた。

「上島さん、俺に触れてこない」
「……マジ?」
「俺も俺で、いざそういう雰囲気になるとどうしても身体が怖くて身体が竦むんだ。多分上島さんもそれで何にもしないんだと思う」
「佐々木……」
「大事にされてるなぁ、って思ったよ。でもさ」

佐々木は一呼吸おくと、ゆっくり言葉を繋いだ。

「でも、こんな場合でも、やっぱり……怖いんだ。こんなに好きなのに、身体を繋ぐことが……」

佐々木の気持ちは無理もなかった。恋愛経験の浅いところへもってきて、今まで考えたこともなかった対象であるはずの同性と関係を持つ。女が処女を捨てるのとは全く次元が違うのだ。

「もし、上島さんが田村さんのところへ行っちゃっても責めらんないよ。……俺には、受け入れることが出来ないんだから」
「…………」
「俺、もうどうしていいか分かんないよ……」

俯いた佐々木の顔を何気に覗いて犬養はぎょっとした。佐々木は、泣いていたのだ。

目立たない場所に設置されている休憩所とはいえ、人が全くいないわけではない。人目もはばからずに涙をこぼす佐々木は本当に痛々しくて、佐々木がどれだけ上島を想っているのかが鮮明に伝わってきた。犬養の胸だって切なくなる。

「……佐々木、泣くなよ」

本当は抱き締めてやりたいところだったが、まばらでも人通りの絶えない会社のロビーで、そこまでする度胸は犬養にはなかった。せいぜい肩に手でもおいて、伝わっているのかいないのか、気のきかない慰めしか言えない。そんな自分に嫌気がさした。フラれた相手とはいえ、好きな相手に何もしてやれないなんて、男として本当に情けなさ過ぎる。犬養は足元に視線を落とした。

上島だったらこういうとき周りの目も気にせずに佐々木をギュッと抱き締めて、もっとスマートにこの涙を止めてやれるんだろうな、と犬養はひっそり思う。それと同時に上島のあの憎ったらしい横顔が脳裏に浮かんできて、何だか腹も立ってきた。

(なにをやってんだよ、上島の野郎は……)

犬養は心の中で呟いた。


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