9


総務の仕事には波があって、忙しい時とそうでない時の差が激しい。そうかといっても、そうでない時がヒマかといえばそうでもない。雑務が次から次へと降ってくるのだ。けれどもそれらの仕事は期日の急ぐものが少ないので、仕事に身の入らない佐々木にとっては救いのある日ではあった。しかし時間が経つのが早い。

チラッと総務部の壁に掛けられたどこにでもあるような時計を見つめると、もう後10分程度で就業時間の終わりを示すところに針が近づいていた。

佐々木は始終落ち着かない。何を探すでもないのに忙しく目をキョロキョロと動かす。本当に、落ち着かない。

「佐々木」

その声を聞いて、佐々木は飛びあがって驚いた。すごい勢いで後ろを振り向くとそこに上島が立っていて、佐々木を大いに動揺させた。

「かっ、かみ……!」
「おっ、久々のリアクションだな」
「えっ、あの、その……」
「落ち着かないのか、子供だな」
「すっ、すいません……」

待ち合わせぐらいで、と上島は柔らかい笑い顔を浮かべて佐々木に言った。

「今日はこれからちょっと会議だけど、6時半には終わるから。駅前だったよな。七時だっけ?」

佐々木は上島を見上げた。

「は、はい。七時です」
「ん。それじゃあ七時に」

上島が踵を返すと、佐々木が席から立ちあがって、上島の名を呼んだ。

「あ、あの」
「何」
「いえ、その……」

佐々木の目が2、3度落ち着きなく揺れた。上島が怪訝そうな顔で佐々木を覗きこむ。

「何?」

至近距離に顔が近づくと、佐々木はパッと顔を上げて言った。

「き、気をつけて来てくださいね!」

そこまで聞いて上島は呆れたような表情を見せた。まったく子供じゃあるまいし、佐々木の方がよっぽど気をつけろという感じだ。クスッと微笑を浮かべると上島は佐々木に言った。

「お前の方こそ気をつけろよ。知らないおっさんが困ってても、知らん顔しとけよ」
「は……」

いくらなんでも……。そう言って上島は再び踵を返すと、緩やかな足取りで総務部のドアの方向に向かった。佐々木の手が左胸の心臓の当たりを押さえる。その後ろ姿が消えても佐々木の視線はそこから動かせなかった。

(今度会うときは、どうなってるんだろう……)

しばらく上島の消えて行ったドアを見ていた佐々木だったが、やがて机の上を片付け始めた。壁の時計はもう5時半を過ぎていた。

胸が、痛い。本当にこの選択は正しかったのだろうか?頭の中でその問いが何度も何度も回った。

 

*    *    *    *    *

 

駅前すぐの商店街の入り口に佇む小さなレストランの入り口で足を止めると、上島は目線を上に上げ店名を確認した。

『トゥライベッカ』。

(イタリア料理か。いかにも女が好きそうな感じだな)

佐々木に聞いた時点で名前の響きから、どこの国の料理を扱っているのかは安易に想像がついていた。尤も、入り口に堂々とイタリアの国旗がタペストリーのように垂らされているのだから間違いようもない。上島は確かめるように玄関の扉を開くと、大きな歩幅で足を踏み入れた。

店内に入ると いらっしゃいませ! と、スタッフの何人かが、陽気な挨拶で上島を出迎える。外装は小さく見えたが建築がいいのか、それとも内装がいいのか……思ったより中は広くて感じが良い。店内を細かく観察する間も持たせず飛び出してきた小柄なウエィトレスが上島の前に立つと、ありがちなマニュアル通りの案内で言葉をかけた。

「いらっしゃいませ!何名様でしょうか」
「佐々木ですが、2名で予約をしてると思うんですけど……」

名を聞いたウエイトレスがパッと電気がついたように接客用の微笑を浮かべた。プロだ。

「2名様ですね。承っております、こちらへどうぞ」

店内も落ち着いた雰囲気が漂っているし、対応もすばやくてなかなか良い。何より店内には静かながらに活気が満ち溢れていた。こういう店は口コミなんかで瞬く間に人気が上がるんだろうな、と上島は思った。流石は我が社のウルサイ女子社員の話題にのぼるだけのことはある。女のこのテの情報の敏感さには頭が下がる思いだ。何か特別なアンテナでもあるのだろうか?上島は妙なところで関心した。

予約された席は結構奥の方らしく、入り口からは見えなかった壁の向こうを曲がって行く。案内係りのウエイトレスの後について歩いていくと、見知った顔が上島の視界に飛び込んだ。そのあまりの予想外の人物の登場に上島の目はその場にクギ付けになった。

(まさか……)

上島は信じられない、というような目でウエイトレスの方を見たが、そんなこと知ってるはずもない。ウエイトレスは驚いた表情の上島に気づくわけもなく歩みを止めると、その男の座るテーブルの目の前で身体の向きを変えた。

「こちらでございます」

と、右手を座席に添えると「すぐに料理をお運びいたします」と、そう言ってウエイトレスはその場を去った。しかし上島の耳にはもう何も聞こえてはいなかった。ウエイトレスの声だけではない。周囲のざわめきも、店内を流れるムード音楽も何もかも、総てが遮断された。聞こえるのはきっと目の前にいる、その男の声だけだ。

上島はそこからまるで凍りついたように動けなくなっていた。上島が驚いたのも無理はない。席にいたのはよく知っている懐かしい顔……営業部の田村、その人だったのだ。

その男を前にするだけで、手が震えて心拍数が大いに上がる。いつまでも座らず、立ちすくんだままの上島に田村は優しい声で話しかけた。

「座ったらどうかね?」
「……一体どうしてここに田村課長……いえ、部長がいるんですか」
「佐々木君に君と是非話をして欲しいと頼まれたんだよ」

その言葉を聞いて上島の顔色は瞬時に変わった。

「佐々木が……?」

昨夜の佐々木の空回りにも似た元気、今日の落ち着きのなさ……こういうことだったのか。上島の脳裏にさっきの佐々木の顔が浮かんだ。一体どういうつもりなんだ!上島は軽く舌打ちした。

「佐々木が何と言ったかは知りませんが、あなたと話すことはもう何もありません。失礼します!」

言い終わるやいなや、上島は田村に背中を向けた。こんな茶番、付き合ってられるか! 一歩踏み出すと同時に、田村のやんわりとした声が上島の足の足を捕らえた。

「待ちたまえ。君は折角この場を作ってくれた佐々木君の気持ちを踏みにじるつもりかね?」
「佐々木の……気持ち?」
「大体のことは聞いたよ。君の様子も、君達の関係のことも」
「佐々木が、そんなことまで……」

(あのお喋りめ!)

上島は思わず心の中で悪態をついた。

「あなたと俺とは……もう終わったんです!今更話し合ったところで、なんになるっていうんですか」
「さあ。なるかもしれないし、ならないかもしれない。君次第だということだ。進むもよし、止まるもよし……」
「………」

表情こそ変えなかった上島であったが、何か考えることがあったのか。しばらく立ちつくしていたままの上島であったが、目を伏せると無言で席に着いた。そしてゆっくりとした動作で頭を上げると真っ直ぐな眼差しを田村の方へ向けた。

「いい子だ」

そう言って田村は微笑むと、両手の上に顎を乗せた恰好で上島の顔を懐かしそうに見つめた。

 

*    *    *    *    *

 

「俺って、バカかも……」

自宅の部屋に着くと、佐々木はフローリングに転がって大きくため息をついた。なんだかひどく疲れたような気がする。そんなことを考えながら、佐々木は真上の天井の照明をただぼんやりと見つめた。

『田村部長、お話が……!』

そう言って田村を呼びとめたのが昨日の夕方。上島のあの表情を見て、いてもたってもいられなくなった佐々木は、どうしても上島と過去のことを清算する意味で話し合って欲しいと田村に持ちかけたのだ。少しばかり強引だとは思ったが、こうでもしなければ二人とも一歩だって前に進めない気がした。

(でも……)

小さなため息をつくと、佐々木は仰向けに転がしていた身体を横に向けた。時計の音がカチコチカチコチ耳に響く。佐々木は目を閉じた。昼間の屋上の光景がやんわりと頭によみがえる。

『君は本当にそれでいいのかい?』

事情を説明した田村の様子からは、驚きと困惑が見てとれた。夕べの話しから佐々木が直感で思った通り、決して上島に愛情がなかったわけではなかったのだ。いや、むしろ……。

「いいわけ、ないじゃないか……」

佐々木は身体を横たえたまま、うずくまるように丸くなった。

決定的な事実。田村は奥さんと昨年の暮れから別居中なのだそうだ。上島を捨ててまで選んだ奥さんがいるのだと、安心した気持ちが全くなかったといえば嘘になる。しかしここまで話してしまった以上、後には引くわけにはいかなかった。

どっちに転んでも、上島が自由になれるならそれでいい。今のような上島を見ているのは佐々木にだって辛過ぎる。そう思ったはずなのに……。

佐々木は両手で目を覆った。

(こんなに、苦しいものなのか……)

佐々木は改めてこんなにも上島のことが好きになっている自分を思い知らされた。いつの間にこんなに心を奪われていたのか。でも、もうどんなに後悔しても遅いのだ。サイは投げられてしまったのだから。

 

*    *    *    *    *

 

少しでも長く時間を、と思ったらしい。佐々木が電話で頼んだのはえらくボリュームのあるフルコースで、最初にスープが運ばれてきたけれど上島は手を付けることが出来なかった。イタリア料理は上島も嫌いじゃない。休日の昼食のうち月に2回ぐらいは、スパゲティなんかを作ったりもするほどなのだから。しかし今は神経がピリピリしていて、とても喉を通る状態ではなかった。こんなに余裕のない上島も珍しい。

上島は目を細めると眉間にしわを寄せた。さっさと終わらせて、早く、家に帰りたい。上島は田村を前に厳しい表情を浮かべると、低い声で言った。

「で、一体なんの話しをしようっていうんですか」
「昔話を」

田村はニコッと微笑んだ。上島はこの顔に昔から弱い。そして、この顔を見せられると何故か素直になってしまうのだ。上島は田村の顔から少し目を逸らした。

「君には、すまないと思っていた。何も言わずに目の前から去ってしまったんだからね」
「すまない?じゃあなんで今頃俺の目の前なんかに現れたんですか!」

上島の顔は高揚した。そして、躊躇気味に俯くと呟くように言った。

「……最後まで、放っておいてくれた方が…どんなにか…」
「恨んでくれても構わないよ。もともとそう思ってもらうつもりで、君にはなにも言わずに去っていったんだからね」
「じゃあ、どうしてですか!」
「そうは言ってられなくなったんだよ。君の恋人が嘆願してきたんだから」
「…………!」
「君があの時のことを今でも引きずっていると聞いたんだ」
「引きずる?」
「そう。今のままでは君は佐々木君と関係を持てない。しかしそのままではうまくいくはずがないよ。お互いがお互いを思いやり過ぎて壊れてしまう」

上島は目を見開いて田村の顔を見た。田村の顔は穏やかで、それがかえって上島を不安にさせる。そんな上島の表情に気付いてるのかいないのか、田村は気にも留めない様子で話し始めた。

「あの頃、家内は少しノイローゼ気味でね」
「…ノイローゼ?」

上島は驚きを隠さない表情で田村に言った。

「あの奥さんが?初耳です。一体どういうことですか」
「私もあの日に初めて知ったんだよ。一番救いようのないことに、私は……妻の様子がおかしいのに少しも気付いてやれなかったんだ」

その言葉を聞いて上島は愕然とした。

「どうして、そんなことに……」
「家内が君の存在に気付いたからだよ」
「俺の……?」
「正確には、君が男だったから、と言うべきなんだろうがね」
「じゃあ、女なら良かったとでも言うんですか」
「まあ、倫理上どちらも良いわけではないけれどね。女であればそれほど苦しまなかったのかもしれない」

上島は唖然とした。男だったからどうだっていうんだ!そりゃあ驚いたり、信じられなかったり、女としてのプライドが酷く傷つけられたりはするかもしれないが……浮気の事実に変わりはない。それは一体どういうことなのか。

田村は苦笑した。

「私達夫婦に子供がいなかった、というのが直接の原因だ」
「子供……」
「いわゆる不妊症というヤツでね、私達も若い頃は病院に通ったりしたもんだよ。しかしあれは財政的にも、精神的にもかなり負担の大きい治療でね、知っているかね?」

上島はゆっくりと無言で頷いた。

不妊治療……上島の知人にそれを受けた者はいないが、又聞きなどでたまに耳に入ったりする。保険が利かないからすごく金がかかるということや、精神的にも、肉体的にもかなり苦痛の伴う治療であるということ。しかも治療を受けたからといって必ずしも子供が授かるわけではない。治療を途中で止めてしまう夫婦が多いところをみると、その内容を知らなくても、それがどれほど過酷な治療かであるかは聞かずとも明白だった。

「結局、4回目の体外受精に失敗したところで、止めてしまった」

田村が少し遠い目をしたので上島はいたたまれなくなった。

「……余計なことを思い出させて……すいません」
「君が謝ることはないよ。僕個人の問題なのだからね」
「しかし……」
「子供というのは神様が授けてくださるものだ。少なくとも私はそう思っていたよ。そこまでしてだめなものは、そういう縁がなかったという他言いようがない。しかし家内はそうじゃなかった。私に子供を与えられなかったことをかなり責めていたようで、恥ずかしいことに私はそのことを少しも気付いてやれなかったんだよ……」

上島はなんとも言えない気持ちになってしまった。田村の奥さんの気持ちは分かる。自分だってこういう性癖があるのだから生涯子供なんて望めない。それは自分の中で最も譲れない部分なのだから仕方がないけれども、生産的な意味合いにおいては男として欠陥品だ。きっと田村の奥さんも、自分を女性として欠陥品のように感じたんだと上島は思った。

世の中当たり前のように進んで行く決め事が、自分のせいで実現出来ないというのはやりきれない。その事に関しては、上島も両親に対して少し申し訳なく思う。

田村は目を伏せて続けた。

「不妊治療を始め、家内の笑顔が消え……日々の生活がだんだんと重くなっていった。そんな時、君が私の目の前に現われたんだ。君は私の受け持った部下の中では最高に素晴らしい逸材だった。真面目で頭が切れて……何より、自分に正直で見ていて眩しいくらいだったよ。そんな君がある日突然、私を好きだと言った。影の差す生活にくたびれていた私は君の手を取るのを迷わなかったんだ」

そこまで言うと、田村は伏せていた視線を上島の方へと向けた。

「君との関係は私に光を与えてくれた。君はとても可愛くて……私はすぐに夢中になったよ。全てが、見えなくなるくらいにね」
「俺も……夢中でした」
「正直なところは少しも変わっていないね、君は」

田村が笑みを漏らすと思わず上島は俯いた。

「……そんな私の変化を、家内は見逃さなかったんだ。どうやって調べたのか……家内は君の存在を知った。しかし家内にとって肝心なのは、浮気したとかしないとか、そういうことではなかったんだ」
「選んだ対象が、子供を産めない男だったから……ですか?」
「その通り。相手が女であるなら納得もいっただろう。そういう負い目があったのだからね。しかし君は男だった」
「………」
「私達のような子供のいない夫婦にとっては、お互いの愛情しか二人を繋ぐものはない」

何度目かの苦笑を田村は浮かべた。

「それだけに家内は相当なショックを受けたようだったよ。しかし、妻は優しい人間だったから、私を問い詰めることが出来なかったんだ。もともと神経の細い人だったからね」
「だから、ノイローゼ……」
「しかし最後の最後まで、妻は私を信じてくれようとしたようで……そしてあの日、君のマンションへ来たんだよ」

上島の脳裏にはあの日の光景が浮かんだ。どことなく儚げな印象を持つ、田村の奥さん。怒るわけでもなく、罵るだけでもなく、ただただ上島を見つめて無数の涙を流した。その時の田村の顔は今でも忘れられない。上島はその表情を見たとき、初めて田村が奥さんとは決して不仲で自分とこうなったのではないことを悟った。そして、同時に自分への愛情は本物ではなかったことを痛いほど思い知らされたのだ。

「……妻をそこまで追い詰めてしまったのは私だ。責任をとらなければならない。しかし君はそんな理由ではきっと別れてはくれなかっただろう?少しでも私が君のことを好きであるなら、二人で償っていこうと……きっとそう言うだろうと思ったんだ」

これはちょっと自惚れかな、と田村は笑ったが聞いていた上島は何の言葉もでなかった。田村は上島の性格をとても熟知していて、時には自分よりもよく知っているではと思ったことがある。きっと、その時なら田村の言う通り上島はそう言ったかも知れない。いや、そう……言っただろう。

「君は若い。一時の感情だけで君の人生を束縛するわけにはいかなかったんだよ。しかし私は君の目を見て嘘をつくことは出来ないと思ったんだ。だから私は、恨まれてもいい、憎めばいい。何も言わずに君のもとを離れることにしたんだよ」

上島は俯いて押し黙った。膝に置いた両手に力が入ってズボンに皺が寄る。

「しかし、それがかえって君をこんなふうに追い詰める結果となってしまったようだ。許して欲しい……」

そう言うと田村はテーブルに深く頭を下げた。上島はそれを見て慌てた。

「た、田村部長、止めてください!」

椅子から中腰に立ち上がると、右手で静止のポーズを取った。それを見た田村が顔を上げると、上島も幾分ホッとしたかのように席についた。

「それで……奥さんは今、どうしてらっしゃるんですか」
「家内とは今別居中だよ」
「別居?」
「妻がそうしたいと。精神的なものはこの3年間の間にかなり回復したんだがね。……まだ自分が許せないらしい」

上島の驚いた視線を見て、田村は慌てて付け足した。離婚は考えていない、と。

その言葉にホッとすると同時に、意外な事実の浮上に上島の心はいたく動揺した。知らなかったこととはいえ、自分に何も告げず姿を消した田村を恨んだりもしたのだ。

上島は目を伏せた。

(そんな経緯が……)

しばらく考えこんだ末、ついに上島はこの3年間ずっと心に止まっていたことを聞く決心をした。これを聞けば、全てが。全てが本当に終えることが出来る。

「……部長……」

上島は顔を上げた。

「田村部長。俺とののことは家庭を忘れるためだけでなく……少しでも愛してくれてましたか」
「ああ!一番肝心なことを忘れていたよ。もちろん……愛していたとも。あの時の君への気持ちに嘘はなかった。それと」

田村は言葉を切って、視線を下へ下げた。

「さっきは若い君を束縛するわけにはいかないとかなんとか、偉そうに言ったけれども」
「…………」
「本当は、このまま君に溺れていってしまいそうで……恐かったのかしれないな」

そこまで言って田村は顔を上げた。その顔はいつもの余裕のある笑顔で、ある意味上島を安心させた。

「しかし今は、その気持ちも穏やかなものに変わっている。時間というものは偉大だね。全てを懐かしくさせる。君も……そうだろう?」
「………はい」

上島は長いこと胸につかえていたものが静かに浄化されていくのを感じた。確かに、そうなのだ。あの時の気持ちも情熱も……全てが色褪せてしまったとは思わないが、当時と同じようには感じない。

ふと、頭に佐々木の顔が浮かんだ。

(ああ、そうか。佐々木が……いるからなんだ……)

『よ、よろしくお願いします……!』、『来ても、どうしようもないってことは来てから気づいたんですけど……」』、『好きです……』、『これ、デートってヤツですよね』……。

佐々木とのいろんなやりとりが思い出されて、上島はなんだかえらく遠いところに来てしまったような気になった。なんだか無性に、佐々木に会いたい。

テーブルの横にウエイトレスが来ると、上島は顔を上げた。話しに夢中で気付かなかったが、コース料理も終盤に差し掛かっている。ウエイトレスが差し出した皿にはコースの締めであるデザートの、甘ったるそうなソースがかかったケーキが乗っかっていた。ほとんど料理には手をつけなかった上島であったが、デザートには間に合ったようだ。

上島はフォークでケーキを一口放り込むと、俯き加減に微笑んだ。

 

*    *    *    *    *

 

「もう、誤解は解けたのかな……」

マンションの風呂場の浴槽につかりながら佐々木はそっと呟いた。どれぐらい長い時間転がって天井を見ていただろうか。いろいろ思ってみてもしょうがない、と重い腰をあげて時計を見るともう9時を過ぎていた。食べる早さに個人差があるとはいえ、男二人が食べる早さは相当なものだと思う。もうとっくに店は出ているはずなのに、帰ってくる気配どころか電話の1本すら掛かってこない。

「上がろ……」

そう言って浴槽から身体を引き上げると、風呂のドアを開ける。体についた雫を大きなバスタオルでふき取っていると、ふと、脱衣所にある洗面所の鏡が目についた。佐々木は鏡をじっと見ると、大きなため息をついた。

きっともう今日は上島は帰ってこない。そんな気がした。帰ってこない……つまり、上島は田村と……。

「……こうなったら救いは最後までしてなかったってことだよなー……!」

そこまで言って佐々木はハッとした。今、自分はなんと言った?

『最後までしていなかった』……肉体関係のことである。皮肉なことに自分を励ますつもりで言った言葉が、漠然と感じていた佐々木の身体を許せない理由を、急にリアルなものにしたのだ。

佐々木はもともと女の子が好きなごく普通の成人男子である。いくら上島が好きだからといっても、性的嗜好は全然変わっていないのだ。きっと男にそういう感情を持つのは後にも先にも上島しかいないだろう。それほどに好きになった男である。身体を繋ぐともっともっと近くなる、ずっとずっと好きになる。考えたくもない話だが、もし上島と別れるようなことがあればどうなってしまうのか。全部を上げてしまうともう絶対に立ち直れない。男同士には先の約束なんてなにもないのだ。

「・……そうか、そういうこと……だったのか……」

本当に怖れていたのは、上島が去ってしまうこと。上島が佐々木のことを身体だけじゃないってことは充分分かっていたはずなのに、それほどに上島は自分のことを大切にしてくれたのに……。

佐々木は右手で口を押さえて、愕然とした。

「今頃気付いても、もう遅いよ……」

佐々木はもう一度大きなため息をつくと、うなだれながら脱衣所を後にした。

 

*    *    *    *    *

 

入った時とは反対で、3年ぶりに晴れ晴れとした気持ちになった。足取りも軽い。

店の扉をくぐると、その玄関先で田村は上島にこう言った。

「佐々木君……彼は、大事にしなさい。自分のことよりも、君のことを一番に考えてくれている」
「ええ、分かっています」
「今の話は彼も全部知っている。そして、今私と家内が別居していることも……それを承知で君と私を会わせたんだ。そして、君がまだ私を好きだと思っている」
「!本当、ですか……」

上島は絶句した。それはつまり……そういうことなのだ。上島は佐々木がどんなに自分を好きなのか知ってるつもりだ。なのに昨日からの佐々木の様子といい、最後の言葉といい……。上島の胸は熱くなった。田村はそんな上島の肩をポンと叩いて優しく言った。

「早く帰って安心させてあげなさい」

返事を返さないまま、上島は駅に向かって走り出していた。

 

駅に着くと慌てて改札をくぐる。電車を待つ時間がこんなに長く感じられたことはない。早く、佐々木の元へ帰らなくては……!上島の胸はその思いだけで一杯だった。

駅から走ってきた上島は、マンションの階段を駆け上がりドアの前に立つとスゥッと一つ、息を整えた。落ち着きを取り戻してゆっくりドアを開ける。瞬間、違和感が広がった。

佐々木が帰ってるはずなのに、部屋中真っ暗で、点いているところといえばシンク上にある小さい蛍光灯だけしかない。上島はとりあえず玄関に一番近い電気のスイッチを押した。灯りがともる。更に進んでキッチンの電気も点けた。人の気配は感じられない。寝ているのかもしれないな、と上島は寝室の部屋のドアをそっと開けた。

「佐々木、いねーの……?」

そう言って、上島はドアの横にあるスイッチを押して電気を点けた。

 

*    *    *    *    *

 

佐々木は脱衣所を出て台所の方へ足を向けると点いてないはずの部屋の明りがいくつも点いているのに気付いた。

「あれ?ここ、点いてたっけ……」

部屋の明かりはほとんどつけた覚えがなかった。なのに玄関の電気が煌煌とついていて、ちょっと気味が悪い……。そう思いながら佐々木は部屋のドアを控えめに開けると、そのまま動けなくなった。信じられないことに、そこには上島が立っていたのだ。

ドアの開いた音でこっちを振り返った上島は、呆然と立ち尽くす佐々木の顔を見ると言った。

「佐々木…」
「か、上島さん……どうして……」

『ここに』、と言おうとした佐々木の言葉は続かなかった。鼻のあたりがツンとして、泣きそうになったからだ。佐々木は懸命に笑顔を浮かべると、上島にこう言った。

「か、かみしま、さん」

声が震える。

「ちゃんと話、出来ました?」
「うん……」
「誤解……解けたんでしょう?」
「うん……」
「僕が言った通り、事情……あったでしょう?」
「うん……」

そこまで言って佐々木の目からボロボロと涙がこぼれた。上島は酷く驚いた表情を浮かべたが、本人はそんなことも気づいてないようで、なおも何かを言おうと一生懸命に口を動かしている。上島はいたたまれなくなって言葉を挟もうとした。

「ささ……」
「良かったですね」

佐々木はその時初めて泣いてる自分に気づいたようで、右手のひらで涙を拭った。顔を上げても涙がまだボロボロこぼれて上島はなんと言っていいのか分からない。佐々木は顔を上げて笑顔を浮かべると、震える声でこう言った。

「か、上島さんを嫌いになる人なんて……いないですよ……」

この言葉が上島の心臓を掴んで離さなかった。『嫌いになる人なんていない』。そんなの、佐々木の方がよっぽどだ。上島はいきなり佐々木の腕を掴むと、そのまま強引に引き寄せた。

「か、かみしまさ……」
「黙ってろ」

佐々木は上島の突然の行動に驚いたが、重なった身体から上島の鼓動が伝わってきて佐々木は目を閉じた。

「ちゃんと、終わらせてきたから……」

もうなんにも心配することないんだ、と上島が言った。その言葉に佐々木の身体がビクッと震える。言葉が出ない。

「お前、やっぱりすげーよ……。俺だったらあんなこと、絶対できねー……」

続けざまに上島は弱々しく呟いた。そして肩に埋められていた佐々木の顔をこっちに向けると、まるで壊れ物を扱うような手つきで両手で触れた。親指で、涙を拭う。

「かみ……」
「黙れ」

上島の唇が佐々木の目に触れた。頬に、額に、鼻に、耳に。

「佐々木……」

キスの雨を降らせながら上島の両手は佐々木の髪を狂おしいほどにかき乱した。

「佐々木、佐々木、佐々木……」

上島は針の飛んだレコードのように、何度も何度も佐々木の名を呼んだ。胸が一杯になって他の言葉が見つけられない。

佐々木がどんな気持ちで上島を田村に会わせたのか、どんな気持ちでこの部屋で待っていたのか……。たまらなくいじらしく感じられて、それを思うと奥の方から突き上がってくる衝動を止められなかった。佐々木の唇にゆっくりと触れる。唇を離すと、上島はもう一度口づけた。今度は深く。

「……んっ……」

佐々木の吐息を合図に上島は佐々木をそっと押し倒した。首筋を吸うように唇を滑らせると、佐々木の顔は高揚して小さな声を何度か上げた。

「ぁ……あっ……っ」
「佐々木……」

上島は々木のパジャマのボタンを外すと、今度は身体を優しく愛撫し始めた。その度に佐々木の身体がビクッと震える。きつく閉じられた瞳を目の当たりにして、上島は動きを止めた。

「……嫌?」
「……イヤじゃ、ありません。ちょっと……恐いだけです。続けてください……」

佐々木は両手の甲で目を覆った。弱々しいけど、手が震えているけど……覚悟のこもった言葉だ。上島が優しくその手をどけると、佐々木の泣き出しそうな顔が視界に入った。胸の鼓動が早くなって、上島は優しい眼差しを佐々木に向けて髪を梳いた。

「……俺も、恐いよ」
「!」
「『こんなことして、佐々木に嫌われたらどうしよう、俺から離れていったらどうしよう』っていつも思ってた」

上島は大事そうに佐々木の頬の輪郭を右手でなぞると、もう一度優しく口付けた。唇を離すと、上島は佐々木の耳に口を寄せた。

「でも、もう限界だ。我慢……できねーよ……いい?」

上島は『いい?』などと謙虚な姿勢で聞いてきたが、佐々木がダメだと言っても強引にでも奪うつもりだった。多少嫌われたっていい。佐々木と、一つになりたい。

佐々木は目を逸らすことなく真っ直ぐに見つめると、上島の肩に両手を回した。心臓がバクバク音を立てる。治まれ!

大きな深呼吸をすると、佐々木はゆっくりと上島の耳元で囁いた。

「僕は上島さんが、好きなんです……」
「……」
「好きなんです……」

佐々木が目を閉じると上島はこの上なく幸せな気持ちで、佐々木の唇に口付けた。

 

*    *    *    *    *

 

朝、目を覚ますと目の前に上島の寝顔が視界に入った。安らかに寝息を立てるその顔はいつもの恐い上島からは想像も出来ないくらい可愛らしい。いつもは上島の方が早く目を覚ますので、実は佐々木が上島の寝顔をみるのは初めてだったりする。

(こんな顔して寝るのか。やっぱり上島さんって、かっこいいなぁ……)

佐々木は上島の寝顔にしばらく見とれた。しかしどうして上島と一緒の布団なんかに寝ているのか……思考を巡らすと昨日の経緯にぶち当たった。

(あ、そうか!昨日、とうとう……しちゃったんだ……)

『しちゃった……』。改めて考えて見るとものすごく恥ずかしいことをしてしまったような、されてしまったような……されたのだ。そこまで考えて佐々木の顔はすこし高揚した。複雑な気分だったが、嫌ではない。いささか腰が痛いのが少々困ったこことではあったが。

(あっ、まず……!)

佐々木は23歳と若い。昨夜のことを思い出して、思わず下半身が反応してしまったのだ。年頃の成人男子としては、まあこんなものだろう。

(収めなきゃ、収め……でもどうやって?!)

初めての朝立ちでもあるまいし、どうすれば収まるのぐらいいくら佐々木だって知っている。しかし横には上島が眠っているのだ。ここで済ますわけにはいかない。佐々木はいたく動揺した。

「と、とりあえずトイレに……!」
「……朝っぱらから元気だな」

下半身の反応に気を取られていた佐々木はその声に心臓が飛び出すぐらい驚いた。声の主は言わずと知れた上島だったが、一体何時の間に目を開けていたのか、ニヤニヤとした表情で佐々木を見ている。思わず佐々木は慌てた。

「げげげげ、元気って何がですか!」
「何って、ナニが」

上島のストレートな物言いに佐々木はカーッと顔がみるみる赤くなっていくのを感じた。それを見た上島も少し照れたように言った。

「なんだよ、そんな顔されちゃ、言ってるこっちが恥ずかしくなるだろ」
「す、すいません……」
「男の生理現象だってことぐらいわかってるよ。俺も男なんだからよ。でもさ」
「……」
「してやろうか?」

ニヤッと笑ってそういうと、上島は佐々木の返事を待たずに布団に押し倒した。


end.

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