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季節も6月に入って夏が近づいてきた。通勤ラッシュをスーツで通うには少々辛くなってきた時期だ。

ラッシュの電車を下りてホームに降り立った佐々木は、右手の人差し指と中指で襟首を広げて、大きなため息をついた。

強引ながらも上島と交際を始めたのが4月の末。3ヶ月という約束で、不本意ながら引き受けた上島のお試し期間もようやく三分の一を過ぎたばかりだ。その間に起こったことといったら、今までの佐々木の生活からは想像もしえないような事ばかりで結構ビビる。

まず、――偶然らしいが――上島が佐々木の隣の部屋に引越して来たこと。そして何故か朝晩と食事を共にすることになったこと。その代償として上島に風呂を貸すこと……。これらの生活については3週間ぐらいになるがもう慣れた。更に大学時代からの友人・犬養竜彦が上島に触発されてか、こともあろうか自分を好きだと告白されたこと。そしてその一件で上島の自分に対する真剣な気持ちを知ってしまったこと。

犬養のことは先日『友達宣言』をしたことで無事解決した(と佐々木は思っている)。そして今、佐々木を尤も悩ましていることが一番最後に上がったソレ、だ。

想いの強さが佐々木に伝わったこと知っているのに、上島ときたら肝心の佐々木の気持ちをちっとも聞いてこない。尤も尋ねられればどう答えたら良いのか佐々木にはさっぱり分からなかった。上島に教えろと強要されたわけではないのだが、何も応えないっていうのは少し悪い気がする。一方的に貰ってばかりいるようで落ち着かない。

そのことに少しばかりの罪悪感を覚え始めたことが最近の佐々木の心情だった。

 

*    *    *    *    *

 

佐々木の所属する総務課は花丸ビルの3階にある。いつもならすぐ横にある階段を使う佐々木であったが、その日はたまたま目の前でその扉が開いたのと、他に乗って行く人物が一人しかいなかったのでつい乗り合わせてしまったのだ。

花丸商事のエレベータは狭い。尤もビル自体がそんなに大きくもないので、そんなに広いエレベータは要らないのだが……定員数8名。それだけ聞くと結構広そうな感じがするが案外狭い。定員数が8名のそのエレベータは大人の男が二人入ると結構な密接度になる。このエレベータというのは一体どういう基準で定員数を決めているのだろう。

佐々木は3階のボタンを押すと奥に入った男に尋ねた。

「何階ですか?」
「4階をお願いするよ」

記憶に間違いがなければ一緒に乗り合わせたこの男、営業部の寺田部長である。45才前後だが髪に白髪が少ないせいだろうか、年のわりに若く見える。その割にある種の威圧感があるのは、少々いい恰幅のせいだろうか……?余裕のある目の表情もちょっと印象的だ。

あんまりジロジロと見るのも失礼なので佐々木は俯き加減に背を向けた。思えばこれがいけなかったのかもしれない。4階のボタンを押すと同時にエレベーターの扉が閉まった。

知らない人がいるとは思わないが、エレベータというのは独特な感覚を覚える。動くときにガクン、止まるときにガクン。上に上っているのか、それとも下に下がっているのか……。ガクン、と二度目の振動のとき、佐々木は自分のお尻の辺りに違和感を覚えた。

「!」

佐々木の表情が思わず固まった。

(……これって、もしかして……)

その瞬間、扉がガーッと開いて、慌てて佐々木はエレベータから弾け出るように飛び出した。お尻に両手を当てて扉の方を振り向くと、寺田が涼し気な笑い顔を浮かべてこちらを見ている。そしてエレベーターの扉がガーッと音をたてて閉まっていく様を、佐々木はただ呆然と見送った。

「…………」

そのままフリーズすること10秒間。佐々木の神経が過敏なのか、それとも寺田部長の故意なのか、単なる気のせいなのか……。人を疑うことに慣れていない佐々木には、正直、よく分からない。

「どうしたよ。顔、赤いぞ」
「!!」

なんの前触れもなくいきなり背後から声を掛けてきたのは上島だった。思わずすごい勢いで振返ると、会社用の、いつもの不機嫌な(実際そうではないのだろうが)顔をした上島が、書類片手に立っている。この男、どうしていつも驚くほどのタイミングで佐々木に声を掛けてくるのか。まったくもって心臓に悪い。

「エレベーターで痴漢にでもあったのか」
「なっ、なんで分かるんですかー!?」

気味が悪い、と佐々木。上島にしてみれば些細な冗談だったわけで(冗談言うのかこの男)、佐々木の過剰な反応の方が不自然でよっぽど気味が悪い。

「はぁ?……マジですか」

呆気にとられたような顔をして上島は言った。その上島の表情を見て佐々木は更に慌てる。

女子高生じゃあるまいし、こんな、しかも会社のエレベーターなんかでそんなことなぞあるものか。自意識過剰も甚だしい。恥ずかしさで顔が余計に高揚した自分をフォローするかのように、佐々木はしどろもどろになりながら上島に言った。

「あの、その……、多分気のせいですよ、気のせいっ!寺田部長に限ってそんな!」
「てらだ……」
「あれ、営業部の部長……だったんだと思うんですけど……」

その名前に記憶をたどるような表情を示した上島ではあったが、5秒もしないうちにいつもの不機嫌そうな顔に戻って訝しげにこう言った。

「…………気のせいじゃねぇの?」
「そ、そうですよね、気のせいですよね!きっと、鞄かなにかが当たったんですよね……」

ああ、穴があったら入りたい……と、佐々木は心の奥深くから、本当に深くからそう思った。

 

*    *    *    *    *

 

(営業部の、寺田……。よりによって佐々木に目をつけるとはな)

今朝、佐々木の話を聞いてからというものさっぱり仕事がすすまない。全くというわけではないが珍しく上島の仕事ぶりは大きくペースダウンした。いかな上島といえども今回の出来事に関しては多少の心配感が否めない。佐々木には言わなかったが営業部の寺田については心当たりがあったのだ。

デスス上に散乱した書類と、ウィンドウが沢山開いたパソコンを目の前に、頬杖を付いていた上島の表情が少し険しくなった。左の中指でカチカチと机を叩く。

(餅は餅屋、か)

営業部員のことは営業部員に聞け、ということだ。そういうのに詳しいであろう人物を不本意ではあるが上島はよく知っている。犬養……ではない。しかしまったくの無関係ではなかった。犬養の直属上司……桂木圭吾という男である。

桂木は上島と時を同じく入社した、いわゆる同期の桜だ。しかし上島はこの桂木という男が少々苦手であった。別に嫌いなのではない。入社した当時は同期のよしみでよく一緒に酒を飲みにいったし、話も合う方であった。むしろ好きな部類ではあるのだが……それは桂木のキャラクターのせいなのか。うまく言えないがとにかく上島は桂木のことが苦手なのだ。

上島は頬杖をついていた右手の中指で下唇のあたりを擦りながらしばらく考えこんでいたが、やがてその右手を受話器に伸ばした。

 

*    *    *    *    *

 

昼休みを利用して会社の近くの喫茶店で桂木と待ち合わせた。時間をずらして休憩時間をとったおかげか、店内は思ったよりも空いていて2、3席の空きがある。

歩道に埋め込まれた街路樹の青さが、夏がもうすぐそこまでやってきているのを感じさせる。窓から入る初夏の日差しに上島は目を細めた。右手で左手の袖をずらして、月に一度は正確な時間を合わせている自慢の腕時計を確認する。

3、2、1……約束の時間ぴったりになると上島は顔を上げた。すると、それが合図だったかのようなタイミングで店のドアが開くと、一人の男が颯爽と入ってきた。男は上島を確認すると右手を上げてニヤニヤしながら近寄った。

「よお」
「相変わらず時間ぴったりだな。ぴったり過ぎて気味が悪い」

上島はニコリともせずに呟いた。その様子を見ながら桂木はいつもの余裕のある口調で言った。

「珍しいな。お前が俺を呼び出すなんてさ。明日は雨どころか雷かも」
「……いいから座れ」
「忙しい中、わざわざ来てやったのにその言いぐさ。ま、そういうところがお前の魅力の一つなんだろうけど?」

こんな会話をしていても別に桂木は上島を口説いているわけではない。桂木はもともとこういうヤツなのである。うまく言葉に出来ない苦手さ。上島は桂木のこういうおカルイところが苦手なのだ。

得意げな表情を浮かべて桂木は頬杖をついた。

「で、今日は俺になにを聞きたいよ」
「お前んとこの寺田部長のことなんだが」
「ああ、寺田部長ね。そろそろ季節だもんなあ」

でもお前にゃ関係ないんじゃないの?と桂木はさもおかしさをこらえるように笑った。それを聞いて上島は桂木をジロリと睨んだが桂木にはちっとも効果がないようだ。ニヤニヤと上島に視線を送る。

「関係あるから会いたくもないお前なんかをわざわざ呼び出したんだろうが」
「ふーん、わけを聞かなきゃ教えるわけにはいかないな」
「どうして」
「お前の迷惑そうな顔を見るのが、趣味だから」

桂木は満面の笑みで答えた。対する上島は桂木と向かい合う形で苦虫を噛み潰したような顔をしていて、一体どっちが呼び出したのか分からない。なんとも不思議な光景だ。

上島は「いかにも不愉快!」と言わんばかりに眉間にしわを寄せた。

できれば桂木なんぞに弱みを見せるようなことは一切したくはない上島であったが、背に腹は代えられない。佐々木の貞操が掛かっているのだ。

尻を触られたぐらいでたいそうな、と思われるかもしれないがこれは結構重要なサインなのだ。というのも寺田というこの男、入社した新人(主に男)に手を出すとんでもないセクハラ上司だったのだ。

目をつけた新人がいるとまず尻を触って相手の反応を確かめる。この段階で食ってかかってくるようなタイプは後々面倒なことになりかねないので除外される。まあ会社に入ったばかりの新人にそういうタイプは滅多にいないのだが……それよりビビって何も言えなかった連中がどうなるか?答えはこうだ。

 

『毎年6月に恒例で行われる本社の新人歓迎会で意識がなくなるまで酒を飲まされ、ホテルへ連れ込まれて処女を奪われてしまう大惨事に見舞われる』

 

「○○されて」、のオンパレード!新人歓迎会では男の新人はまず酒を断れない。恰好のセッティングだ。いくら断れないといっても、大の男が酒に飲まれて意識を失った結果、上司に処女を奪われました、なんて恥ずかしくて誰に言えるか。尤も抗議をしたとしても記憶がないのをいいことに『同意の上だ』、でかわされるのがオチだろう。

上島の知った限りではそれが原因で会社をやめたのが2人いる。それどころか入社した当時、ターゲットにされたこともあるのだ。尤も上島の飲める酒の量は半端でなく凄いので大事にはいたらなかったのだが。

「今年は俺がみた限りでは2人、だな」
「2人……」

と言ってもこれは桂木の見た感じであるらしいが、これがどうして、桂木の私見はかなり正確だ。「獲物を見つけた寺田の微妙な浮かれ具合が……まっ、これはちょっとその辺の奴らにゃ分からんだろうがな」、と桂木。流石は営業部のナンバー1である。洞察力には相当の自信があるらしい。

そこに佐々木がプラスされて確率は最低三分の一、である。その数値は高いのか低いのか……。新人歓迎会は明後日に控えていた。

「心配しててもしゃーねぇか……」

上島は桂木に不本意ながら礼を言うと会計を済ませて喫茶店を後にした。

 

*    *    *    *    *

 

花丸商事の新人歓迎会は部に関わらず、花丸ビルの全部所で行われる為、結構な人数になる。更に新人歓迎会は毎年総務部が幹事をまかされていて、それは今年も例外ではなかった。

幹事の仕事は結構大変だ、というより面倒くさい。会場の確保、出欠の確認、会費の徴収、飲食物の追加注文……数え上げたら切りがない。大体は女子社員がやってくれるが責任者は何故か上島だった。そんな中一人で佐々木から目を離さないというのはまず不可能に近い。どうしようか?

そんなことを考えていると、そこへ見知った男が視界に入ってきた。

(……利用できるものは利用するか)

あいつも一応営業部員だろう、酒はそこそこイケるはずだ。上島は偶然廊下で会った犬養に声をかけた。

「なんだ、上島か」

犬養はその表情に不快感をかくせない。露骨に嫌そうな表情を浮かべるとつっけんどんに上島に言った。

「何か用かよ」
「なんだとはご挨拶だな。そんなことより犬養、お前佐々木のことまだ好きなんだろう」
「……悪いかよ」

犬養は悪態をつきながらも否定しなかった。先日佐々木に『友達でいたいんだ』、とあっさり振られてしまったものの、自覚してしまった気持ちはそうそう消えるものではない。まあ嫌そうな顔をした理由はこれだけではない。なによりもこの人を食ったようなこの男の態度がいちいち癇に触るのだ。

上島は、とがる犬養の腕を掴んで耳元で囁いた。

「じゃ、協力しろ。今日の歓迎会、佐々木から目を離すな」
「なんだよ、それ」

佐々木の名前が出たところで、犬養の表情が変わると、上島は大まかな事情を犬養に説明した。それを聞いた犬養の反応は到底信じられない、といったような感じで明らかに不信の色が伺える。

「なんだよそれ。何でそんなめちゃくちゃなヤツが会社にいられんだよ。」
「しょうがねぇだろ。それなりの実績があるんだから、会社もあっさりクビには出来ねえの!」

鼻っ柱の強い子供に言い聞かせるような口調で上島は犬養に言った。

「第一プライベートなことで、内容が内容だし……表沙汰になるわけねぇだろ」
「そうはいっても……」

若い犬養は少々不満そうだったが会社というものはそういうものだ。実際若い頃はかなりのやり手だったらしく、古株の顧客は寺田が取ってきたものも少なくない。

「佐々木に言っといたほうがいいんじゃないの?」
「なんて」
「なんてって……今の話さ」

眉間にしわを寄せると上島は抑え気味な、そして厳しい口調で犬養に言った。

「ただでさえ男づいてる佐々木に、セクハラ上司が狙ってるから気をつけろ、なんて言えるのか」
「そっ、それは……」

入社してからというもの上司である上島に交際を迫られ、友達であったはずの犬養までもが佐々木を好きだと言い出した。これだけでノン気な佐々木の頭は手一杯なはずなのだ。この上セクハラ上司にまで貞操を狙われているかもしれない、と知ったら一体佐々木はどうなってしまうのだろう。

人間不審に陥ったり、会社をやめたり世の中イヤになったり……どこをどう考えても良い影響はでないだろう。そう思うと上島は佐々木にはとても言えなかったのだ。候補に上がっただけのことで決定ではない。知らずに済ませられるものならそうしてやりたい。最初に佐々木に手を出した、上島のいわゆる仏心だったのだ。

「わかった、出来るだけ目を離さないようにする」
「よろしく頼む」

上島はそう言いながら犬養の肩をポンと叩いて階段を降りて行った。犬養は最後の『頼む』に少し驚きを隠せないまま上島の後ろ姿を見送った。

 

*    *    *    *    *

 

つつがなく新人歓迎会は終わったが、店の周辺にまだ大半の社員がたむろして混雑している。時間は9時をまわる頃だった。

犬養は流石に桂木の下で働く営業社員である。犬養だって今年入った新入社員でよっぽど勧められただろう、顔が多少赤い。それでもしらふを保っているのは流石だった。だてに桂木の部下ではない。

肝心の佐々木は、というと酔いはかなり回っているようだ。佐々木はあまり酒の強い方ではない。ビール瓶1本空けたぐらいか。あとは上島が引き受けたのに、である。店の客を待たせる椅子に腰をかけさせたが、今にも寝てしまいそうな感じが心もとない。赤い顔でやたら目をこすっている。

「犬養、俺ちょっと金払ってくるわ。会計が潰れちまったからな」
「わかった」

離れるなよ、とだけ言って上島は会計所に向かった。目を閉じて動かなくなった佐々木を持たれかけさせて犬養も横に座った。すると、すっかり寝ているもんだと思った佐々木がふいに言った。

「いぬかい、みず……」
「えっ、や……ちょっと……」

せめて上島が帰ってくるまで、と犬養は思ったが佐々木が小さな声でお願い、と言った。

犬養は迷ったが、佐々木とは別の新人に的をしぼったのか。周りを見まわすと寺田の姿はすでになかった。そのことを確認をすると犬養は佐々木を置いて席を立った。

 

*    *    *    *    *

 

会計は思ったより時間がかかった。金額がかなり大きいため、領収書に貼る収入印紙がなかなかみつからなかったのだ。

急いで戻ってくると上島は唖然とした。佐々木はおろか、犬養までいなくなっていたからだ。ふと後ろをふりかえると犬養が水の入ったコップを片手に店のカウンターから出てきたところだった。佐々木がいないことに気付くと犬養は あ! と、小さな悲鳴を上げた。

「使えねーヤツだな!」

上島は犬養に一括浴びせると店の外に出た。その後を慌てて犬養が追う。

だいぶ人数は減ったがまだ社員がばらばらと残っていて、上島はそのうちの一人を捕まえると佐々木か、寺田部長を見なかったか!?とすごい剣幕で聞いた。

「ああ、寺田部長ならさっき酔いつぶれたのを一人連れてタクシーに乗ってったぜ」

上島はやっぱり、と言う顔をすると、どっちに行ったか聞いた。

こんなことなら多少借りを作っても桂木にでも頼みゃ良かった、と、上島にしては珍しく後悔したがそんなこと言ってるヒマはなかった。早く手を打たないと佐々木が危ない。しかしどこから探せば良いものか。

右手の中指で下唇を擦る仕草をしながら上島は考えこんだ。表情からかなりの苛立ちが読み取れる。ふいに上島の手の動きが止まって、俯き加減だった顔を上げた。

「犬養、帰っていいぞ」
「なんだよ、ここまで人を引っ張っといて!それに、俺の責任で……」

一応、というか犬養はかなり気にしているようで、その顔には約束を守れなかった子供のような悔しさが伺えた。そんな犬養の言葉を遮るように、上島はストップをかける。

「すっかり忘れたけどお前んとこの総括だろう。仕事、やりにくくなるんじゃねえの?」

犬養はハッとした。そう言われてみれば確かにそうだ。しかしこんなところまできて今更引けるか。第一、かなわないと思いながらもこの男にだけは絶対負けたくない。犬養は強気に言った。

「佐々木の方が大事だよ」

それを聞いた上島はそっけなく そうか、とだけ言った。しかし気のせいなのか、犬養に対するその表情が少しだけ優しくなったような気がした。

「じゃ、行くぞ」
「行くって、どこに行ったのか分かんのかよ!?」
「そこにいなきゃ、アウトだな。他には浮かばない」

上島には思うところがあった。おそらくあの男、曲がりなりにも部長という役職についているのだからラブホテルなんていう安っぽいところには足を運ぶまい。そしてことを性急に急ぐはずだ。そうなると答えはおのずと絞れてくる。近くて、それなりに高級感があって……そんな場所は一つしか思い当たらない。

「多分ここいらで一番近いシティホテルだ」

言うが早いか、上島はタクシーを止めに表の歩道へ飛び出していた。

 

*    *    *    *    *

 

タクシーが止まったのは駅前のシティホテルだった。乗りつけたタクシーの運転手に料金を払うと、上島と犬養は猛ダッシュでロビーの中へ突進した。

玄関をくぐると、シティというには勿体無いような、かなり広めロビーが視界に展開する。深夜とまではいかないが、結構遅めの時間なので、閑散とした雰囲気がロビー全体に漂っていた。早足でロビーを通りぬけて行く上島の後を慌てて犬養がついていく。犬養はなんとも不安げな表情を浮かべて上島に言った。

「入ってきたはいいけどさ、一体どうすんだよ。こんなとこじゃ事情が事情でもそう簡単には部屋番号なんて教えてくれないんじゃないのか?」

後ろからやかましいことを言う犬養を無視して上島は受けつけのフロントに向かった。時間が時間だったのでフロントには女性が一人しかいない。それが帰って好都合だ。行きずりじゃあるまいし、用意周到なあのオッサンのことだ。予約ぐらいはとってあるだろう。

女性を前にすると、上島は何の躊躇もなく話を切り出した。

「ここに宿泊されている寺田修さんの部屋番号を教えて頂きたいんです」
「お客さまのプライバシーに関わることはお教えできません。どういったご用件なんでしょうか?」
「会社の部下ですが、できれば直接本人に会いたいんですけど……。あ、僕こういう者です」

そう言って上島は受けつけの女性に名刺を差し出す。フロントの女性が名刺を受け取ろうと両手を出したその時、すかさず上島は女性の右手を両手でギュッ、と握り締めた。女性が小さな声であっ!と声を上げると上島は女性の目をまっすぐ見つめて、そして耳元で囁いた。

「実は会社の同僚が上司に連れ込まれてしまって……」

かなり男前の部類に入る上島に手を握られて、耳元で囁かれる……。男嫌いであるとか、そういう例外を除いて、大半の女性はかなりまいってしまうに違いない。

更に上島は懇願するように女性に言った。上島の、今にも泣き出しそうなその顔は、女性に備わっている母性本能を思わず刺激する。

「同僚の一生が掛かってるんです、お願いします……!」
「そ、そういうことでしたら……少々、お待ち下さい……」

最後の方は聞いていたのかいなかったのかは分からない。ただ女性の頬はうっすらと紅潮していたのは確かだった。上島のやり方は実に巧妙だ。自分の魅力と言いうものをよく知っている。そのやり取りを後ろから見ていた犬養は唖然とするしかなく、同時に全然かなわないとも思った。

「…………よくやるよ」
「何が」

当の上島はそんなこと意識もしてないかのように返した。上島は佐々木のことで頭がいっぱいだったのだ。こんなことならやはり一言言ってやるべきだったのか。思うより早く上島はエレベータの方へと足を運んだ。

部屋の前まで来ると上島は一つ大きな深呼吸をしてスーツの襟元を緩めた。その様を横目で見つめながら、犬養は心配そうに上島に言った。

「どうやって中に入る気だよ」
「定石だ」

上島はニヤッと笑ってそういうと何の迷いもなく部屋をノックした。

 

*    *    *    *    *

 

うっすらと佐々木の目が覚めると見たこともない天井の模様が広がっていた。驚いてベッドから飛び上げろうとしたが、酒の余韻のせいか思うように身体の自由がきかない。ゆっくりと時間をかけて上半身を起こすことに成功した佐々木は辺りを見まわした。

(ここ、一体どこなんだ……?えーっと、確か俺歓迎会で……)

佐々木は記憶をたどった。たしか店の先で犬養に水を要求したことはぼんやりと覚えている。しかしそこから先の記憶がぱったりない。不安が佐々木の小さな胸をどっと埋め尽くしていく。なにせアルコールが弱いところへもってきて飲むと眠くなる体質なのだ。どれくらい飲んだだろう。大した量ではなかったが佐々木が眠りこんでしまうには充分な量だったのだ。

「おや、目が覚めたのかね?」

その声に反応するように佐々木の身体がビクッと硬直した。上島ではない、どこかで聞いたような声なのだ。慌てて声の方を振り向くとシャワーを浴びてガウンに着替えた寺田が佐々木を見つめていた。佐々木には何が何だかわからない。佐々木は恐る恐る口を開いた。

「寺田、部長……」
「知っていてくれたのかい?光栄だね」

そう言って寺田はベッドに腰を下ろすと、佐々木のネクタイを緩めた。

「あ、あの……」
「なんだい?」
「何を、する、つもりなんですか……」
「何をだって?」

寺田は可笑しくてたまらないといったような表情を浮かべた。佐々木の顔が青く染まる。

佐々木だって奥手ではあるが22歳の立派な青年だ。ホテルで男と二人っきり。しかも相手の男はシャワーなんぞを浴びて佐々木を今にも押し倒さんとする勢いだ。今自分がどういうシュチュエーションに置かれているかぐらいははっきり分かる。しかし聞かずにはいられない男心も分かって欲しい。動揺のあまりろれつも上手く回らない。

「………やめて、下さい!」

佐々木は勇気を振り絞って抵抗の言葉を放ったが、いかんせん身体が言うことをきかない。絶対絶命だ。脳裏に浮かんだのはこの前エレベータでお尻を触られたのは気のせいではなかったということ。

佐々木の言葉など聞こえないかのように、寺田の手がシャツのボタンを外しにかかった。第1、第2と器用に次々とボタンが外されて佐々木の素肌が顕になる。寺田は手馴れた素振りで佐々木をベッドに押し倒した。首筋に口付けると佐々木の身体がビクリと反応してますます寺田を刺激する。

「あっ……!や、やめ……っ」
「可愛いね」
「……やっ…上島さんっ!」

佐々木はとっさに上島の名前を呼んだ。自分でも意外だったが他に浮かばなかったのである。しかしその名前に反応したのは佐々木だけではなかった。

「……上島くんとはどういう関係なんだい?」
「ど、どうって……あ…っ」
「上島くんは来ないよ」

質問をしながらも寺田は行為をやめようとしなかった。

部所は違うが上島は5年前手に入れそこなった男である。寺田にとってそれは今でも残念に思うほどだ。その上島がよりにもよって今日の飲み会で選んだターゲットの傍にいた。気にならないはずがない。それに多少の因縁もあったのだ。

首筋から更に下に唇をはわすと佐々木の身体が小さく揺れた。それに伴い寺田の手が佐々木の下半身に伸びる。

(……ああ、もうダメだ!)

佐々木のきつくしまった目から涙がこぼれた。と、そこで……。そこで寺田の動きが止まった。誰もくるはずのない部屋のドアがノックされたからだ。寺田は邪魔が入ったことに不愉快さを隠さない様子で舌打ちをすると、ドアに向かって歩き出した。

酒が回ってるせいか、展開に腰が抜けてしまったのか……。助けを求めるなら今しかないというのに、肝心の佐々木ときたら足はおろか、指の一本だって動かすこともできやしない。

(……カミシマ、さん……)

脳裏に何故か、上島のいつものあの不機嫌そうな顔が浮かんだ。

(……カミシマさん、上島さん、上島さん、上島さん………!!)

ベッドの上で震えながら何度も何度も佐々木は心の中で叫んだ。寺田がさっき言った通り来るはずもないだろう。が、呼べば上島なら助けに来てくれる気がしたのだ。

『俺の全てを捨ててでも守ってやる』

こういった状況を指して言ったのではなかったが、何故かあの言葉だけが、佐々木の頭の中をぐるぐる回った。

 

*    *    *    *    *

 

ドアの前に立つと、寺田は不機嫌を隠さない声でぶっきらぼうに言った。

「どちらさんですか」
『ルームサービスです』
「頼んでないが?部屋を、間違えたんじゃないかね」
『えー、おかしいなあ。5015号…寺田様ですよねえ』
「そうだが」
『弱ったなあ……、とりあえず受けとってサインだけでもいただけませんか?後で間違いだったとしても請求はいたしませんから』

お願いしますよ、とホテルマン。おかしいな、と思いつつ寺田は部屋のドアを開けた。

その時だった。視界に入ったその男を見て寺田は慌ててドアを閉めようとした。が、遅かった。上島がその右手の指でドアをガッチリ押さえていたからだ。

上島はわざと威圧的に見せるように顎を上げて、見下ろすような仕草で言った。

「ちょっとでもおかしいと思ったんなら開けちゃダメですよ、部長。外国ならまず、殺されてます」
「か、上島くん……!」
「佐々木、いるんでしょう?返して下さい」

上島の口調は穏やかだったが、その口調には明らかに怒気が含まれている。しかし開き直りか、寺田は鷹揚に答えた。

「いるわけないだろう」
「犬養!」

上島の背後から犬養が飛び出した。寺田の脇をくぐりぬけて奥の部屋へと入っていく。寺田はしまった、という表情を浮かべながら犬養の後姿を目で追った。

犬養がベッドの置かれた奥の部屋に入ると、そこにはシャツのボタンが外された佐々木が今にも泣きそうな顔をしてベッドに座っていた。あられもない姿の佐々木を見て犬養の心臓は少し高鳴った、が今はそんなことを言っている場合ではない。

「佐々木、大丈夫かっ!?」
「い、犬養……!」

ちっとも大丈夫ではない。貞操を奪われかけたのだ。犬養は椅子に掛けられてあったスーツの上着を佐々木の肩に掛けてやった。

「犬養……どうしてここに?」
「ああ、えーと……」

とそこまで言って犬養は言いたかないが、という表情を浮かべた。

「上島がここだって言った。アイツ……やっぱすげーよ。一人じゃ来られなかった」
「一人じゃって……」
「上島も来てるんだ」
「……カミシマ…さんが……」

呼んだら上島が本当に来てくれた……。驚いた顔をして、そして佐々木の胸は少し熱くなった。

「ボタン、留められるか?」
「うん……」

その会話を、開いたドアから聞いていた上島は冷ややかに言った。

「『いるわけないだろう』、ねぇ」

いるじゃないか、と軽蔑にもよく似た視線の上島に、寺田は苦々しく呟いた。

「……君には邪魔をされてばかりだな。去年も、その前も」
「そんなの知りませんよ。ああ、でもその前は桂木に寝取られたんでしたっけ」

偶然かもしれないが、去年も一昨年も寺田が目を付けていた新人は、酔いつぶれたと同時に上島がきっちり家まで送り届けていたのだ。年に一度の新人歓迎会は総務が幹事の一大イベントだ。一次会で酔いつぶれた野郎どもは介抱する義務がある。もちろんターゲットが彼らだったということを上島は知らなかったようなのだが。

「年甲斐もなく、毎年毎年……もうやめたらどうですか」

上島は半ば呆れ口調で言ったが、悪びれる様子もなく寺田は苦笑して答えた。

「やめられんよ、年に1度のお楽しみだからね」
「どうしようもないエロオヤジですね。ま、佐々木は連れて帰りますよ」
「御勝手に」

そう言うと上島は奥の部屋に入っていった。

 

*    *    *    *    *

 

朝、二日酔いに良いと言われる味噌汁をすすりながら上島はあからさまな不機嫌さを隠さなかった。目の前で同じように味噌汁をすすりながら、佐々木は上島を上目遣いにチラッと見た。

「……あの、怒って……ます?」
「別に」
「クリーニング代、ちゃんと払いますから」
「当たり前だ。言われなくても請求するね、俺は!」

話は昨日の晩に遡る。と、いうのもあの後、酒が回ったせいなのか、それとも恐怖で腰が抜けたのか……。いずれの理由は不明だが、佐々木は立つことが出来なかったのだ。しかたがないので上島が背負ってマンションまで佐々木を連れて帰ってきた。来たのだ、が。

そこまでならちょっと良い話で終わるところが、そうは問屋が下ろさなかった。タクシーで再び眠ってしまった佐々木を背負って階段を上がってくる途中、ふいに佐々木が言ったこと。

『すいません、かみしま、さん……』
『あん?』
『……気持ち……わる……』
『お、おい!まさか吐きそう、なんていうんじゃないだろうな?部屋はすぐそこだ、ちょっと待て……!!』

きれいな話でなくて恐縮だが、あとはご想像の通りである。いくら佐々木が好きでも佐々木の吐しゃ物まで愛せるほど上島は寛容ではない。スーツは汚されるわ、夜中に階段の掃除をしなけりゃならないわで上島にとっては散々な日であった。

「………怒ってるんじゃないですか」
「違う、呆れてるんだ」

口を尖らす佐々木を、上島はジロリと睨んで言った。

「好きな男の為にしたこととはいえ、後が悪い。それでもそんなお前が好きな自分に呆れてるんだ」

上島のストレートな物言いに思わず佐々木は赤面した。

上島はいつもこんな風にサラリと自分のことを好きだと言う。それがいかにも自然体でなかなか巧妙だ。冒頭でも書いたが、そう言われたとき、佐々木はいつもそれ相応の答えを返さなければならないと思う。いわば佐々木の今の正直なところの気持ち、である。

佐々木は上島と目を合わさないようにと伏せ目がちに視線を横に流した。佐々木の顔は赤いままだ。

「上島さん、いろいろ考えたんですけどね……」
「何を」
「そういう対象かどうかは別にして、僕、上島さんのことは……結構好き、ですよ」

それを聞いて上島は少し意外そうな顔をした。

「そういうことをわざわざ言うって、どういう風の吹き回しだ」
「えーと……中間報告です」

上島はふーん、と顎に手を当てて言った。

「お前はさ、凄いよな」
「は?」
「自分と根本的に違う人間だって受け入れようとするからさ」

だから好きになったんだけど、と笑って上島は付け加えた。上島がどういうことを言いたいのか佐々木にはよく分からなかったけれど、それを聞いた佐々木の顔はますます赤くなった。

それにしても佐々木が絶体絶命だ、と思った時どうして浮かんだのが上島の顔であったのか。またそれ以外は浮かばなかったのか……。尤も佐々木は色恋沙汰にはてんで疎い方なので、本人がその気持ちに気付いたりするのはもう少し後の話だったりする。


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