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「あふ……」

暦も5月に入り、冬と違いだんだんと日が長くなってきたこの季節。もう午後5時にもさしかかろうかというのにこの眠気……。窓からはまだ高めの日差しが入るオフィスで、人目もはばからず佐々木は大きなあくびをした。

総務課というのは一般的には楽な職場と思われがちだが、実は以外にも四六時中忙しいところで、入社一月程度の佐々木としては結構ハードなスケジュールに追われる毎日が続いている。もともと要領のいい方ではなく、どちらかというと仕事の進め方も遅い。更にまいったことにその上司がむちゃくちゃ厳しい男で、小型犬並みの心臓しか持たない佐々木としては、毎日どれだけ寝たって疲れがとれやしない。いや、本当のところはそれだけではないのだ。それだけでは。

「明後日の休みは家にいるか」

業務終了間際に声をかけてきたのは噂の上司、上島洋介だった。隣の席にいるくせに、視線は自分の机上にあるパソコンの画面を見たままだ。しかも手の方は心地良いほど一定のリズムを保ったままキーボードを打ち鳴らしている。カタカタカタカタ……。

そんな突然の問いかけに佐々木は驚いて席を勢い良く立ちあがり、その弾みで座っていた椅子を思わず倒してしまった。

「あっ!あぁああぁぁ……」

もうどうしようもない、と涙目な表情で、これまた佐々木は慌てて椅子を起こそうとする。あんまり慌てたので椅子が必要以上にガタガタとうるさい音を立て、周りの同僚たちの視線をいやという程浴びることになった。上司・上島の冷ややかな視線がイタイ。佐々木は折角立てなおした椅子にも座らず、まるで怯えた声を隠すかのように早口でまくし立てた。

「す、すいません!で、あの……なんでしたっけ?!」
「明後日の土曜日は予定があるか聞いたんだ」
「えっ!あの、その……なんにもないです……けど」
「せっかくの休みだっていうのにつまんねぇヤツだな」

自分でヒマかどうかふっておいて「つまんねぇヤツ」とはご挨拶だ。もっとも佐々木は可愛らしい顔立ちをしている割には目立たない、気のいい平凡な男なので、そこまで言われても怒るどころか「すいません」などと謝った。

「ま、そんならいい」

サラリとそれだけ言うと上島はおもむろに席を立ちあがり、手にはニ、三の書類をまとめて、とっとと行ってしまった。後に残された佐々木はというと、ただ呆然と立ち尽くしていた。

「な、なんだったんだろう……でも、良かった……!」

佐々木は安堵のため息を漏らした。仕事に厳しい上司とはいえ、この程度の会話にも佐々木は内心かなり怯えていたのだ。どうしてって………。

 

*    *    *    *    *

 

花丸商事は主に雑貨やインテリアを専門に取り扱っている会社である。規模はそんなに大きくもないが、一応関東を中心に、大阪、名古屋、そして福岡に小さな支社をもつ中堅企業だ。小規模ながらも自前のビルを持ち、1Fには客が来社した時に応対する小さな受付のあるロビーと、その一角にはドアを隔てて、社の取り扱う製品のショウルームが設置されている。受付は正面玄関の脇にあり、机には『本日の営業は終了しました』と看板が立てられ、今日の業務が終了されている時間だということを告げていた。そこにはロビーの中を玄関に向かって足取り重く歩いて行く佐々木の姿があったのだ。

どうしてこんな憂鬱そうに歩いているのか、と聞かれれば、今、彼は非常に苦しい立場に立たされてるから……としか言い様がない。それはそうだろう。入社した会社の、しかも直属の上司と3ヶ月と言う期間付きではあるが、交際をするハメに陥ってしまったのだから……。しかもその上司と言うのは先ほど佐々木に声をかけてきた上島洋介、その人であった。

この上島という男、あろうことか入社して速攻、佐々木に交際を申し込んだり唇を奪ったり……未遂に終わったが、あげくは身体まで奪おうとした要危険人物である。さっき声をかけてこられた時も佐々木はかなりビビッた。デートの申し込みでもされるかと思ったのだ。

「はあ…………」

仕事中でも何度ため息をついたか分からない。尤もため息をつくだけでは何も変わりはしないのだが。

「何憂鬱そうに歩いてんだよ。」

後ろから明るく声をかけてきたのは佐々木と同期入社の犬養竜彦(いぬかい・たつひこ)だった。同期といっても犬養は大学時代から付き合いのある友人で、今は花丸商事の営業部に所属している若手の営業マンだ。今は外周りから帰ってきたところらしい。営業マンらしい黒いアタッシュケースが右手に握られていた。

「あ、犬養」
「久しぶりだなー。仕事、どう?」
「どうって…………」

痛々しい表情で沈黙した佐々木に犬養は同情ともとれる、そんな表情を浮かべて「大変そうだな」、と声をかけた。実際大変なのは仕事ではなくプライベートの方なのだ。犬養は佐々木の肩をポン、と叩いて言った。

「仕事ってどこも同じなんだ。俺んとこも大変なんだぜ」

励ましてるつもりらしいが根本的なことはそうじゃない、そうじゃないんだよ、犬養。佐々木はそう思ったが本当のところはまさか言えない。泣きそうな顔でありがとう、とだけ言っておいた。

しばらくロビーの隅にある4人がけの長いすに座って犬養と最近の近状だとか話していると、階段の方から長身の男が降りてきた。その体格は実にスマートで、色素の薄い短髪と、フレームなしの眼鏡がちょっとした知性を感じさせる。着ているダークグレーのスーツがまるであつらえられたかのように決まっていて、顔はよく見えなかったが、上島と同じでかなり若い印象を受けた。その男が視界に入るやいなや犬養は、あ、と言う顔をして立ちあがり、佐々木の方に視線を向けると口を開いた。

「悪い、主任だ。また今度遊びに行くよ。大学ん時のマンションと一緒のとこだろ?」
「う、うん。そうだけど……」
「また連絡するわ、じゃ!」

犬養はすまない、と右手の指をそろえると、慌てて若い男の方へ歩み寄って行った。どうやら犬養の上司らしい。

(犬養の上司も若いなあ・・・・・・)

佐々木はなんの気なしにぽつりと思った。が、若いのも当然だった。犬養の上司というこの男、かの上島と同期入社だったのだから。佐々木はしばらく二人のやり取りを見ていたが、やがて玄関に足を向けた。

 

*    *    *    *    *

 

土曜日は快晴だった。

「いい天気だなあ。こんな日は洗濯物がよく乾くんだよなあ」

そう言って佐々木はマンションのベランダで1週間たまった洗濯物を干していた。1週間も洗濯物をため込んで……と思う人もいるかもしれないが男の1人暮らしとは大抵こんなもんである。ただでさえ仕事で夜も遅いのだ。平日には洗濯する間もありはしない。

白いカッターシャツをハンガーに掛ける。

佐々木は洗濯物を干すのは結構好きな方で、特に今日のような天気の良い日はなんだか気分もよくなって鼻歌なんかも出てしまう。カシャカシャと手際よくハンガーを吊るしていると下の駐車場に、その辺の道路なんかをよく走っている引越しセンターの車がキキッ、と軽いブレーキ音を立てて止まった。2階にある佐々木の部屋のベランダからは、マンションの駐車場がよく見える。1人暮しだろうか、小さい目のトラックが1台。

(そう言えば隣、空いてたっけ)

引越します、と隣に住む男子学生から粗品を受けとったのは、佐々木が入社する少し前だったように思う。佐々木の住んでるマンションは3階建てで各階に4部屋づつ。たいした数はないので空室があれば結構目立つのだ。今現在空いているのは佐々木の記憶が正しければ1階の一番端の部屋か、佐々木の隣しかなかった。

「可愛い女子大生とかだったらいいなぁ」

恋がめばえたりなんかして、と、佐々木はそんな淡い期待を込めつつ、足元に置いてあった洗濯カゴを手に持つと早々に部屋に入っていった。

 

*    *    *    *    *

 

玄関のチャイムが鳴ったのは昼過ぎで、佐々木は何気につけていたTV番組を手元のリモコンで消した。部屋に入った直後から隣の部屋でゴトゴトと重い荷物を運び入れる音が聞こえたから、やっぱり隣に越してきた人だろうと、佐々木は思ったのだ。引越しの挨拶にでも来たんだ。佐々木は部屋のドアを控えめに開けた。

「はい、どちら様…………」
「隣に引っ越して来たんですけれど」

低い声。なんだ男か、とドアから見える人影の顔が視界に入ったその瞬間、佐々木の目は大きく見開かれた。その目に映ったものはまさしく、腕を組んで佐々木の顔をニヤニヤしながら見ている上島洋介、その人の姿だったのだ。

「!!!!!!!!!!」

佐々木の心臓は止まりそうになった。

「ええええええぇっ!な、なんでぇ?!」
「失礼なヤツだな。引越しの挨拶に決まってんだろう」

そう言いながら「ホイ」、と驚く佐々木に洗濯洗剤だろうか、少し重めの包装紙に包まれた小箱を押し付けた。慌てて行き場のない佐々木の手がそれを包むように受け取る。

「いや、それはそうですけど……」

佐々木は口篭もった。なんと言ったらいいかわからない。悪夢だ。よりにもよって隣に引っ越してきたのが佐々木に交際を申し込んだ上島だったなんて……。佐々木は今にも倒れそうな目眩を覚えて、目の前が回るような錯覚に陥入った。マズイ、頭がガンガンしてきた。

そんな佐々木の気持ちを知ってか知らずか、上島はふいに右手の拳を佐々木の前に差し出した。その手には小粒ながらも、まさしくネットにくるまれたスイカの姿がぶらさっがている。

「スイカ、好き?」
「あ、好き……」

覗きこむようにスイカを見る佐々木に、「だと思った」、と上島はそう言ってニコッと笑った。その笑顔はいつも会社で見ているような仏頂面からは想像も出来ないほど可愛らしいもので、佐々木はとっさに言葉が出ないほどに驚いた。

「…………」
「なんだ?」
「いや、笑った顔って初めて見たもんで……。あの、笑えるんですね」
「はあ?当たり前だろーが」

上島は怪訝そうな顔をしたが会社で見なれているようなスーツじゃないからだろうか。濃い緑のポロシャツとジーンズというカジュアルな出で立ちの上島は年相応に見えてあまり恐くは感じなかった。実際上島はまだ28才の青年なのだ。

先日のことが先日のことだったので少しは警戒したが、立ち話もなんなので佐々木は上島を部屋に入れた。というか、図々しくも上島の部屋はまだ荷物のほとんどがダンボールの中で、「コーヒーぐらいごちそうしろよ」、と催促されたのだ。

キッチンのテーブルで大の男二人が向かい合って、温かい、しかも粉末インスタントのコーヒーを飲みながらスイカを食べる姿はちょっと変かもしれない。いや、相手が上島だから余計に変な感じがするのか。佐々木はぼんやりとそんなことを考えていた。とにかく、不思議な光景なのだ。

とりあえず沈黙が恐いので早々と話題を振ることにする。佐々木は差し障りのないような話題を選んでふった。

「スイカ、どうしたんですかコレ」

暖かくなってきたとはいえまだ5月だ。スイカの季節にはまだ早い。

「ああ、故郷から送ってきたんだ。初物だってさ」
「ふーん、クニって何処ですか?」
「島根。ほら、出雲大社のある辺り」
「そうですか…………」
「…………」

そのまま、会話は終わってしまったように見えたが再び口を開いたのは上島だった。

「お前さぁ、今日予定ないって言ってたよな」
「あ、ええ。まあ……」

とそこまで言って佐々木はハッとした。いやな予感がする……と、そこまで思って佐々木はまたもやハッとした。困ったことにこの手の予感は外れたためしがない。思ったことに思わず俯く。

佐々木は直感的に思ったが嘘はつけない性格だ。いや、ついたとしてもすぐにばれてしまうと言った方が良いかもしれない。「まあ……」、で俯いた佐々木の様子を見て上島はニヤッと白い歯を見せた。

「荷物片すの手伝って欲しいんだけど」

ガーン……、昨日帰り間際に予定を聞かれたのはこれだったのだ!しかしそうならそうと言ってくれればよいものを、佐々木が逃げるとでも思ったのだろうか。上島の用意周到さには頭が下がる。かくして佐々木は荷物の整理を引き受けることになったのだった。

 

*    *    *    *    *

 

「こっちのダンボールのは、ここの本棚に入れてって」
「は、はい」

黙々と、二人で荷物を片す。怪しい状況に追いこまれるよりは多少マシだとは思うものの、この沈黙、耐えられない。

佐々木はため息をつきながらダンボールを開けると上島の指示どおりに、中の荷物を棚に納め始めた。佐々木が整理しているのは上島の趣味であろうか、CD、LD、ビデオなどの類だ。相当な数である。

(……この懐かしい『ダイ・ハード』とかの洋画系は分かるとして……『ピングー』?)

佐々木は上島を見た。が、上島は衣類を整理しているらしく余念がない。テキパキと荷物を片付けていたのでついぞ佐々木の視線なんかには気付かない様子で、会社でよく着ているスーツを几帳面にタンスの棒に掛けていた。

『ピングー』はピングーという名の子供ペンギンがおりなす粘土アニメーションだ。どう見ても小さい子供なんかが見るようなものだが…………意外な趣味だ。どういうつももりで買ったかは恐くて聞けなかった。

佐々木は部屋の周りを見回した。更に趣味の巾は広がる。2台もある家庭用ゲーム機。格闘物からRPG、シュミレーション……書籍類だって相当な数にのぼる。しかもやたら範囲が広い。経済、マーケティングの本があると思えばフィクション、ミステリー、コミック、とにかく多岐にわたる。佐々木は上島がどういう人間なのかますますよく分からなくなってきた。なんかのコレクターなのか?

ふと、抱えた頭の視界に、なんだか一般家庭ではあまり馴染みのない、独自の曲線の黒いケースが視界に入った。

「上島さん、これ……」
「あん?ああ、これね」
「ギター……にしちゃ大き過ぎますよね」
「うん」

そう言って上島は少し懐かしそうな顔をして、微笑ともとれるような表情を浮かべた。

「チェロだ」
「チェ、チェロー?!」

素っ頓狂な声をあげて驚いたのは佐々木だ。チェロ、チェロって……。ピアノやバイオリンを習っていた子供はクラスに何人かいたけれどチェロを習ってる子なんてちょっと見たことはない。佐々木は絶句した。

「近所に教室があったんだよ。5歳の時から始めて……小6の時までだったかな。もう今はやってないから難しい曲とかは弾けねぇけど、すんごい好きな曲があってさ。それは今でも時々弾くんだ」
「へぇー……」

この口の悪さに騙されていたが、実はかなりのインテリだったのか?とも思ってみたり。上島のことはやっぱりよくわからない。

 

*    *    *    *    *

 

「ありがとさん、今日はほんとに助かった。実は、あてにしてたんだ」

上島は満足そうな笑みで礼を言った。こういう笑顔は憎めない。

結局部屋が片付いたのは日没間際の午後6時。冬ならとっくに真っ暗な時間帯だ。それでも二人がかりでこれですめば、引っ越しの荷物入れとしては上出来だったといえる。

佐々木は上島が淹れてくれたコーヒーに一口、口をつけた。佐々木の部屋にある粉末インスタントとは違って豆から挽いたものらしい。部屋中にコーヒー豆の匂いが広がっている。しかし佐々木の関心はそんなところにあるのではない。上島が部屋に挨拶に来た時から気になって気になってしかたなかった事があるのだ。佐々木は思いきって口を開いた。

「ねえ、上島さん。どうしてここへ……引っ越してきたんですか?」

そこまで言うと、上島はなんでもないことのようにサラリと言った。

「前住んでたところが手狭になってきたのと……貴重なお試し期間を愛する佐々木と過ごすため」

その言葉の後半に、佐々木の血の気は引いて倒れそうになった。普通そこまでするか?佐々木は右手で両方の目頭を押さえた。が、ちょっと待て。上島の科白にはまだ続きがあったのだ。

「……というのは冗談だが、住んでたところが手狭になったのは本当。隣が佐々木だったのはラッキーな偶然。ま、駅はちょっと遠くなったけどな」
「…………」
「お前、疑ってんの?」

訝しげな視線で見つめる佐々木を上島はジロリと睨んだ。まあさっきの荷物を見れば手狭になるのはわかる。しかしこうもうまい具合に佐々木の隣に越してこれるものなのか。

「い、いえ。そんなわけじゃ……」
「あのなあ、お前いつ入社したよ?先月だろーが。部屋契約して引越し手続きして……どう考えても無理だろ」

半ば呆れたように上島は言った。言われてみればそれはそうだ。佐々木は安心……してよいかどうかは別にして怖い想像をやめた。

「そんなどこぞのストーカーみたいなことするか」
「……すいません」

佐々木は思わず苦笑した。

しかし佐々木のカンは正しかった。これから本当の試練が始まるのだ。

 

*    *    *    *    *

 

「上島さんって、マメなんですねぇ」

意外とも感心とも取れるような視線を向けて言ったのは佐々木だった。本当なら片づけが終了した時点で、佐々木は一刻も早くここから逃げ出したかったのだけれど、それを半ば強引に上島が止めたのだ。『手伝いのささやかなお礼だ、メシでも食って行け』と。

上島は自炊派だったのでついでに近所のスーパーにも案内させられた。そんなわけで今、佐々木は上島の部屋で、あの上島が作った夕飯を一緒に食べている。やっぱり……、やっぱり変な光景だ。

しかしマメどころか、上島の料理は非常に美味かった。今日のメニューの一つであるひじきの煮物なんか、自分の母親が作ったそれよりも美味いんじゃないかとすら思う。当然、佐々木がよくお世話になってるスーパーやコンビニで買うような惣菜とは一味も二味も違うのだ。いや、一緒にするのは失礼か。

「大学に入ってからだからもう10年になるかな」
「はー……」

佐々木は感心を通り越して、尊敬の念を送った。佐々木だって大学時代から1人暮しをしていたが、自炊とは程遠い生活を送っている。専ら外食かコンビニで弁当でも買って済ませるタイプだったからだ。

「お前さあ、メシとかいつもどうしてんの?」

真ん中に置かれた漬物を箸で取りながら上島は言った。

「そうですねぇ、外食とか多いですけど」

と佐々木は味噌汁をすすって返す。が、この一言がいけなかった。上島はそれを聞くとふうん、という表情をして、そして言った。

「俺が毎日作ってやろうか」
「えっ!いや、そんな……いいですよ!」

佐々木は狼狽した。ただでさえ隣に越して来られて混乱してるのだ。これ以上安息の場所を失いたくはない。しかし上島は更に畳み掛けるように言った。その表情には佐々木の困惑ぶりなど当然視界にも入っていない。

「不経済なんだよなあ、1人分って。もちろんただとは言わない」
「は?じゃあどういう……」
「風呂、貸してくれ」

風呂……。一体どういうことなのか。上島は要領をまるで得ないというような顔の佐々木を無視して構わず続けた。

「1人しか入んないのに浴槽に湯を溜めるのって勿体無いと思わねえ?かといってシャワーだけじゃ入った気はしない……日本人だからな!」
「そりゃ思いますけど、それって……」
「経済的。別にどうこうしようって言ってんじゃねえよ。寝るのは自分の部屋に決まってんだろう」

佐々木の心を見透かすような返事が返ってきた。

「メシ作ってやるから風呂を貸せって言ってんの!これは下心も何もない正当な取引だ。お互い、悪い話じゃないだろう?」
「た、確かに悪い話ではないですけど……」

佐々木は口篭もった。それとは違う危惧する事情が佐々木にはあるのだ。

交際を引き受けることになった際、『絶対にそんなことしない』という約束は確かにした。『そんなこと』とはいわゆる身体の関係のことで、その約束も過ごす時間と距離が近くなればどうなるかわかったものではない。そういった意味で上島は既に前科者である。この強引さで明日にも佐々木の貞操を奪ってしまうかもしれないのだ。

「じゃ、決まりな」
「えっ!いや、その、………ハイ」

そしてその強引さで、上島はとっとと話を決めてしまった。対する佐々木の返事は、最後の辺りは聞こえるのか聞こえてないのか分からないほどに弱々しくて、まったくお気の毒さまとしかいいようがない。佐々木はそんな自分の断りきれない意思の弱さを少々恨めしく思った。

 

*    *    *    *    *

 

そういった諸々の事情で今、上島は佐々木の部屋の風呂に入っている。一体全体なんということなのだ。

佐々木は……やっぱり憂鬱だった。

(はー、えらいことになったなぁ……)

すっかり佐々木はうなだれていた。会社どころか朝ご飯も、昼ご飯も、夕ご飯も、果ては就寝前までずっと一緒なのだ。最後の安住の地がこんなことになるなんて……。正直、これまでの、そしてこれからの佐々木の人生にも考えてもいなかったようなこの展開。これからのことを思うと気が遠くなりそうだ……と、そんな佐々木の部屋の電話がベルを鳴らしたのはその時だった。

電話が鳴ったといっても、たいして広くもない部屋ですばやく電話を取るのは難しい事ではない。3回目のコールが鳴り終わる前に、佐々木は受話器を取った。

「ハイ、佐々木……犬養!」

意外な人物からのいきなりの電話だ。受話器の向こうからは犬養のいつものハキハキとした口調が聞こえてきた。そして一方的な内容も。

『よお、佐々木?近くまで来たからそっち寄るわ。じゃな』
「い、犬養!今日はダメだっ!またにしてくれ……!!」

おい聞けよ……。佐々木が言い終わるか終わらないうちに電話は切れていた。犬養はせっかちだ。しかしどうしたものなのか。佐々木の部屋には今、上島が来ているのだ。

(ま、いいか。面倒なことには……ならないだろう)

上島だって分別のついた立派な大人だ。滅多なことは言わないだろう、と、佐々木はそう思ったのである。

「電話?」

後ろから声をかけてきたのは風呂から上がってきたばかりの上島だった。気配にも気づいていない人間に、背後からいきなり声をかけるのは心臓にかなり悪い。佐々木のチワワのような心臓が止まりでもしたら一体どうしてくれるのか。

「あっ、いや……そうです」
「そう」

素っ気無く言った後、軽くバスタオルで頭を拭きながら何か考えるような目つきで上島は佐々木を見ていた。そして右手の中指で下唇を擦りながら上島は言った。

「佐々木」
「はっ、はい……」
「お前さあ、一言一言にそう怯えるのやめてくんない?」
「…………はあ、と言ってもですねぇ」

怯える……そうとも取れるかもしれない。佐々木はもともと気の弱い性格だしそこへ上島ときたら怖いことこの上ない。上島の一挙一動に佐々木は会社でも毎日ドキドキなのだ。ときめくであるとかそういった意味ではもちろんない。とにかく!恐いのだ。

「俺がまたこないだみたいな強引なこと、やると思ってるとか……」
「いやっ、そんな……少しだけ……」

その率直な返事に思わず上島は苦笑した。全く佐々木は嘘のつけない人間だ。もっとも上島にとってはそういうところが可愛らしくてしかたない。手を出すつもりは毛頭なかったけれど急にちょっかいをかけたくなった。

上島は佐々木の前に立つとニヤニヤと佐々木を見つめた。

「期待してた?」
「まさかっ!そんなわけ、ないじゃないですか……」

そう言い終わるのが早いか遅いか……上島は佐々木の頬に右手を当てた。佐々木の心臓はバクンと一つ、大きな音を立てた。真摯な視線で上島のような男に見つめられると、何も佐々木でなくても心拍数の十や二十は上がるだろう。上島の顔は端正で、それでいてかなりの男前なのだ。

佐々木は喉をゴクリと鳴らした。上島の顔が近づいてくる。

キスされるかもしれない!佐々木は強く口と目を閉じた。ささやかな抵抗のつもりだったが、そんな佐々木の予想に反して上島の唇は佐々木の頬に軽く触れた程度にとどまった。虚をつかれたように、アレッと言う表情で佐々木は顔を上げた。

「!」
「冗談だよ、冗談。しないって、言っただろ」

キスされた方の左ほっぺに思わず佐々木は手の平を当てた。キスをされたことか、それとも心の中を見透かされたことなのか……佐々木の顔は真っ赤だった。上島の顔はまだ至近距離にある。涙目になった佐々木の顔を上島は澄ました、それでいて余裕な表情で見つめていた。口元にはいつもの勝気な微笑が浮かんでいる。

(まったく、可愛らしいったらありゃしない)

と、その時。

「ドア、開いてたから勝手に入ってきたぞー、佐々木……!!」
「!」

すべての雰囲気をぶち壊すかのような男の声が……。

「!!!!!!」

マンションの構造上、ドアを真っ直ぐ入ってくると、そこはもう佐々木達のいるリビングだ。佐々木と上島は思わず向かい合ったまま、勢いよく開けられたドアの方を振り返った。入ってきたのはさっき電話をかけてきた犬養。そう言えば近くまで来ていると言ってたっけ、と佐々木の記憶はまるで処理のたまっていたパソコンが一気に動くような、そんな勢いでよみがえった。

いつもなら鍵をきちんと閉めているはずのドアも、上島と二人っきりの密室になるのを避けるために、わざと開けておいたのだ。そこへ犬養が入ってきたのである。それだけのことなのだが、実に間が悪い。だがしかし重要なのはそんなことではなかった。更にまずいことに佐々木と上島の顔は、さっき頬にキスをされた距離のままだったのだ。しかも佐々木の顔は涙目で、更に赤いときている。

普通に考えたら、例えそれが男同士だったとしても………そういうことになるんだろう。今までその場にあった雰囲気が立ちこめた部屋ではそう思われても無理はない。

「ご、ごめん!邪魔したっ!」
「ご、誤解!誤解だあーーーーーっ、犬養っ!!!」

佐々木が言い終わるのが早いか、犬養は佐々木の言葉すら届いていないかのように、背をむけてすごいスピードで玄関に消えていった。奥の方で、ただ、閉まるドアの音だけが虚しく響いたのだった。後に残されたのは呆然とした表情の佐々木と、いつものポーカーフェイスのままの上島だけだ。佐々木は弱々しく、目の前の視界が滲むほどの涙目で呟いた。

「……い、犬養……」
「友達?さっきの電話かな。来るんなら言ってくれてればすぐに帰ったのに」

と、上島といえば悪びれるでもなく、飄々とした面持ちでニヤツと笑った。その瞳、さながら悪魔のようだと佐々木は思った。全く迷惑な隣人が引っ越して来たものだ。

佐々木はこの先のことを思うと目の前が真っ暗になったが、二人の半同棲(?)生活は始まったばかりなのだった。


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