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佐々木友弘は今春、花丸商事に入社した、大学を卒業したての若い男性社員だ。

童顔系で可愛らしい顔立ちのわりに、たいして目立たない印象を受けるのはこの男から発される、ほわーんとした雰囲気のせいかもしれない。佐々木はゆっくりとした足取りで窓際の中央まで歩き、軽く一礼した。

花丸商事では入社式より1週間の研修期間を経て各部署に配属される。

この佐々木という男、自分の意思を強く言える性質でもなく、なにか特別な技術があるわけでもなく、無難な線で総務部を希望した。突出した取柄のない自分には一番適切な部署だろうと思ったのだ。しかし、これが後々佐々木の人生を大きく変えていくことになろうとは……。人生とは、一体どんなところで変わってしまうものなのか、本当のところ知っているのは神様だけかもしれない。

晴れて思い通りの部署に配属され、今日が実質的な業務の始まりだった。昨日までは別の場所で新人としての教育を受けており、配属先の総務部には初めて顔を出す。

「今日からこの花丸商事・総務部に配属されることになりました佐々木友弘です。まだ何もわからない新人でありますが、どうぞよろしくお願いします!」

佐々木がペコリとお辞儀をするとパチパチと、あちらこちらで拍手が起こった。部朝礼での新人恒例の挨拶である。

幾分緊張気味のせいか手のひらが少し汗ばんでいた。なにせこんな大勢の前で挨拶するなんて、高校の時の自己紹介以来なのだ。たいして目立つことの少ない人生を歩む佐々木にとっては、人前でスピーチするという行為自体がたいした一大イベントだった。

(緊張したなあ……)

佐々木は安堵の表情を浮かべると、気を取りなおして研修中から用意されていた自分の座席に腰をかけようとした・・・・・・が、隣には先輩だろうか。佐々木より少し年上に見えるその男は、なにやら机上を書類でいっぱいにして仕事をしている。しかも顔が険しそうで、ちょっと恐い。それに黙々と書類を片付けていくその様子は周りを寄せ付けない感じすら漂わせているではないか。それどころか佐々木が横に立っているのも気がついていないような有様で、佐々木は所在無さげにその場に立ち尽つくした。

(・・・・・・声、かけた方がいいのかな)

却って仕事の邪魔になるかとも思ったが、これから隣で仕事をするのだ。知らんぷりするわけにはいかない。なにせ新人とはいえ、今春かられっきとした社会人なのだ佐々木は一発念を入れると、勇気を出してその隣の恐そうな男に話し掛けた。

「あの…、今日からここに配属となった佐々木です。えーと……」
「カミシマ」

男はこちらを見るわけでもなく、書類に目を向けたままで意味不明な、それでいてやけに素っ気無い返事を返してきた。あまりの簡潔さに何を言ったのか理解できずに、思わず「は?」と聞き返してしまったほどである。まあ一応は所在無さげにつったっていた佐々木の存在には気づいていたらしい。その時初めて男はこちらに顔を向けて、言った。

「上島洋介。今日から君の直属の上司を担当する」

佐々木は大きく目を見開いた。

(えっ!この人が…俺の……上司!?)

佐々木が驚くのも無理は無かった。童顔系の可愛らしい感じのする佐々木とはまったく正反対に見えるが、この上島という男、今年新人の佐々木の直属の上司としては若すぎる容貌だったのだ。身長はわりと高く、佐々木よりは4cmほど高い。襟足が少し長めの漆黒の髪と、細い印象を受けるシャープな輪郭、きりっと整った眉が意思の強さをうかがわせる。更に漂う周りを拒絶したかのような雰囲気。どれをとっても……やっぱり恐そうだ。

一方的に自己紹介を終わらせた上島は、簡潔に言葉を発して同時に5枚の書類を佐々木に手渡した。

「これコピー一部ね」
「あ、はい……」

あまりのスピード展開に呆然としている佐々木に上島は更に言った。

「モタモタしないでさっさと行く!」
「は、はいっ!!」

初業務がコピー取り……。

フロア横にあったコピー室で書類を複写しつつ佐々木はかなりビビっていた。

(おっかない……。なんなんだ、あの人)

おっかない人―――これが佐々木の上島に対する第一印象であった。しかしそれは序盤に過ぎない。このあともっとすごい印象に変わっていくことになる。が、当の佐々木はそんなこと知る由もなく、ただひたすら、黙々とコピーを取り続けた。

「コピー、終わりました」
「ああ、サンキュ」

誠意がこもっているのかいないのか、よくわからないお礼の言葉と目も合わせないこの態度……。小市民佐々木としては本当にこの人のもとでやっていけるのか、なんだか心もとない。

上島はコピーを受け取るとパソコンの表計算を使えるかどうか聞いてきた。そこそこに使えることを告げると今度は表の修正だと言う。実質的な業務の説明がないばかりか、仕事が終わると次々と新しい雑務……仕事が用意されていて、休むヒマもなく仕事をいいつけられる。気がつくと佐々木は本当に配属されたばかりの新人なのに、ここ10日ほどで残業残業で帰りはいつも10時過ぎだった。

10時をまわるころに帰路に着くと、通勤時間はもとよりメシやら風呂やらで12時を回る。朝は9時出勤となってはいるが上司である上島は朝はやたらめっぽう早い。8時には会社に着いているのだ。上司より遅く出てくるなんて……と思い更に早く出勤するハメになる。限りなく悪循環だ。

(総務って、こんなにハードな業務だったなんて…)

はっきり言って、ナメていた。総務って、もうっとこう、ほんわかしたイメージがあったからだ。

「トロトロやってんじゃねーよ」

その仕事の遅さに上島がかなり苛立っているのがわかった。眉間のしわと、こめかみにうっすらと浮いた青筋がなによりもそれを雄弁に物語っている。佐々木は怯えた。その姿はまるでもらわれてきたばかりの子犬の用にも見える。それも小型だ。

仕事を次々と、しかも無慈悲にふっかけるそんな上島に、佐々木はふとあることを思った。

(俺、もしかして上島さんに嫌われてんのかな……)

佐々木はコピーを取りながらそんなことを考え始めていた。だってあの人、なんか恐いし冷たいし…などと自虐的な思想に陥っていると突然背後から、声がした。

「すいません、2枚なんですけど先にコピーさせてくれませんか?」
「あっ、はい、どうぞ!すいません!!」

慌てて原稿をコピー機から取り上げると、佐々木はその声の主に視線を向けた。総務部に所属している女性だろうか。小柄ではあるが細身で可愛らしい顔をした女性だった。

佐々木にごめんなさいと断りをいれてコピーを取り始める。その後ろ姿は、久しぶりに見る―――といっても佐々木に注目しているヒマがなかっただけだが―――女性のそれで、佐々木は思わず見とれてしまった。

(……知らなかった。こんな可愛い人が総務部にいたなんて……)

彼女いない歴22年をひそやかに更新中の佐々木にとって、もはや女性という存在すら尊い。思わず背後で拝む。

総務部には佐々木のいる総務課のほかに、経理課と労務課というのがある。フロアは同じだけれど、席の周りで見たことがないところを見ると、多分この女性は総務課ではないのだろう。なにせ経理と労務は通路を挟んだ向こう側にあるのだから。

「上島さんとの仕事は大変でしょう。佐々木さん」

突然話しかけられたことよりも、この女性が自分の名前を知っていることに佐々木は驚いた。

「えっ、どうして僕の名前を知って……!?ええと……」

動揺する佐々木を見て女性はクスリと笑った。

「経理課の米田(よねだ)です。あの上島さんと新人なのに仕事をしてるんでしょう?それだけで有名ですよ、佐々木さんは」

(それって、どういう意味で……)

佐々木はそんなことを考えながらも漠然とした不安を覚えた。が、その不安を解消するような答えを米田はくれたのだった。

「今はね、3月度の決算が重なってものすごく忙しい時期なんですよ」
「…………」
「総務ってね、月末のほうが忙しいと思うじゃないですか。実は月初めの方が忙しいんですよ。そこに3月度の決算でしょう」

クスリと笑うと米田は続けた。

「忙しくて……上島さん、気が立っているんだと思うんですよ。いつもはもう少し…優しい人です」
「詳しいんですね、上島さんのこと」

佐々木はなんの気なしに言った。あまり深読みの出来ないタチなのだ。尤もそれが佐々木のいいところではある。

「ええ、こないだまで、上島さんの下で働いてましたから」
「え……!」

佐々木と入れ違いに経理課に配属されたらしい。もうすこし遅ければ一緒に仕事も出来たのに、と佐々木は少し……いやかなりガッカリした。米田は結構な佐々木のタイプだったからだ。

聞くところによれば米田も上島と仕事をしているころはかなり大変だったらしい。だが同時にかなり信頼できる上司で、私情を挟むようなタイプでないことも佐々木には朗報だった。

よかった、別に嫌われてるからあんな横柄な態度じゃあないんだ。

佐々木は少し安堵した。

少し割り込みが入って―――ほんとは話もちょっとだけしたけど―――遅くなってしまったがコピーを上島に渡すとやっぱりお叱りを受けた。

「遅い」

上島はかなり待っていたようで大変なご立腹だった。漢字にするとたった二文字の「おそい」という言葉から、結構な苛立ちが感じられる。上島が怒るのは無理も無い。時間はもうとっくに昼休憩にさしかかっていたのだ。

「は、すいません……」
「うちのコピー、最新をリースしてるんだからもっと速いはずだ」

上島はうなづくように言った。その言葉に佐々木はつぶやく。

「最新……」

意図がまったくわからない。繰り返すような呟きに上島はある事態を想定した。佐々木から向かって右45度の恐い角度でジロリと睨む。

「……まさか一枚一枚手動でしてたんじゃないだろうな……」
「えっ!そうですが……」

上島は怒りを通り越して呆れ顔になっていた。よくよく聞けば最新のコピー機というのは、原稿を入れると自動で原稿を紙送りをしてくれると同時に仕分けまでしてくれるらしい。更に設定さえすればホチキスの芯まで止めてくれるのだ。

ご親切なことではある。しかし、だ。そんなのコンビニでしかコピーを取ったことのない佐々木が知るはずもない。
知ってるとすれば、せいぜい500円を入れて10枚コピーしたらおつりが400円出てくるということぐらいだろう。まったく技術の進歩とは素晴らしいものだ。しかし今の佐々木には迷惑意外の何物でしかなかった。

うなだれる―――ほんとは上島が恐かっただけだが―――佐々木を見て上島は頭をボリボリ掻きながら言った。

「昼飯、食いにいくか。おごってやる」
「え……」

予想外の言葉がかけられたことに佐々木は驚いた。戸惑っている間にも上島はスタスタと出入り口の方に向かって歩き始めている。

「早くしないと置いて行くぞ」
「はっ、ハイ!」

(さっきの話通り、本当はいい人なのかも知れない……)

佐々木はコピー室での米田の話を思い出していた……が、この後佐々木は生まれて始めての体験に、来なきゃよかったと思いっきり後悔することとなる。

何処に?……総務部を希望したことに、である。

 

*    *    *    *    *

 

昼どきでファミレスだというのに店はわりとすいていた。穴場なのだろうか。それともよっぽど不味いのか。不信感でキョロキョロ周りを見回す佐々木を尻目に、上島はさっさと席を決めて一人で座った。その後ろを慌てて佐々木が追いかける。窓際の4人がけに座ると、上島は慣れた様子でウェイトレスを呼びとめ昼のサービスランチを頼んだ。

「タバコ」
「は?」
「煙草、吸ってもいいか?」
「あ、どうぞ……」

そういえば上島が煙草を吸っているところを見るのは初めてだ。

佐々木が知らないだけで実は社内は定時の17時半まで禁煙だった。非喫煙者の佐々木には知らなくて当然だろうが、定時以降の残業時だって吸っているのを見たことがない。ひょっとして上島は気を使ってくれたのだろうか。佐々木はなんとなくそう思った。人間とは現金なもので、嫌われてると思ってるうちは何をされてもマイナス思考へ陥りがちだが、そうでないとわかると急に善意的な見方に変わる。佐々木だって例にもれない。

煙草の先にライターの火を近づける。

上島というのはかなりの男前で、煙草を吸う姿は、かなりサマになっていて、ちょっとかっこいい。佐々木のような普通の男でも思わず見とれてしまうほどだ。

一本目の煙草をゆっくり吸い終わると上島は佐々木に言った。

「なあ、佐々木……。お前俺と…」

言いかけたその時、ウェイトレスがちょうど頼んでおいたサービスランチを運んできた。そのタイミング、まるで推し量ったかのようでなんだか漫画の一コマみたいだ、と佐々木は思った。

テーブルにキビキビと手馴れたスピードでランチが置かれていく。

「何ですか、上島さん」

と佐々木は言ったが、実は相当腹を空かせていた。朝はそんなに弱くない方だが最近のハードスケジュールの仕様は朝が辛い。ギリギリまで寝てしまって朝食もロクに取れない朝が続いていたのだ。それを察していたかどうかは知らないが、上島は後でいいから先に食べろと言った。その食べっぷりに上島は少々呆れていたようだが佐々木には目に入らなかった。

食べ終わる少し前に食後のコーヒーが運ばれてきて、満腹になった佐々木はすこぶる上機嫌だ。心配していた味もたいして悪くない。結構な穴場だったのだ。機嫌が良くなると余裕も出てくる。佐々木は上島がさっき話しだそうとしたことを思い出し、上島に訪ねた。それがどういう展開になろうとも知らずに。

上島は「ああ、あれね」と軽く言って、視線を少し窓の方へ反らした。そして右手の中指で下唇を2、3回軽く擦るようなしぐさをすると、佐々木の方に視線を戻した。そしてあろうことか、そんな重大な科白をあっさりとこともなげに言ったのだ。

「あのさあ、お前俺と付き合う気、ない?」

あまりの突拍子のない言葉に、佐々木は飲んでいたコーヒーを噴出してしまった。当の上島は今の有様に不愉快そうな表情を隠さなかったが、すぐにいつものクールな表情に戻った。本当に何事もなかったかのような涼しい顔をしていたので、よもや聞き違いかと思い、思い切って聞き返してみた。しかし、佐々木の声はかなり動揺の色が……。思わず上ずる。

「つ、付き合うって……どこへ……」

『付き合う』。

上島の言い方からしてそういうことではない、と分かってはいたがボケずにはいられない。もしかしたら冗談ですませてもらえるかも知れないのだ。低い確率に佐々木はかけた。

「そうじゃなくて、一般的に言う男と女のアレだ」

それを男と男でしようとういうのか。佐々木の目は点になった。

上島は2本目の煙草を取りだすと、無造作に口にくわえた。

「………………上島さんて、ホモ?」
「ホモ……、ああ、ホモね」

そこまでいうと上島はニヤッと不適な笑みを浮かべた。

この二週間というもの恐い顔、不機嫌な顔を見慣れていたが、笑った顔など一度も見たことがない。しかし最初に見たこの笑顔、ある意味それらの顔よりもっと恐ろしく感じた。

「さあどうだろう?」

上島はそう言うと視線を落として、持っていたライターで煙草に火を付けた。そのサマは飄々として非常に落ち着き払っていて憎らしいほどだ。

(どうなんだ……、どうなんだ!)

こっちが投げた質問を更に質問で返してくる。こういう時は大抵肯定の意味合いが多いのだ。かなり動揺しているのだろう、佐々木の額にはうっすらと汗が滲んでいる。ふと飲みかけのコーヒーカップが視界に入り、佐々木はハッとして上島の顔を見上げた。

(も、もしかして今日のコレも俺を釣るためのエサ……だったんじゃあ……)

「誰がそんなセコイ真似するか」

心外だ、とでも言いたげな、それでいて心の内を見透かすような上島の一言が。

読心術か!?いや、単に佐々木の考えることが単純なだけだ。動揺し続ける佐々木に更に追いうちをかけるように上島のピシャリとした一言が浴びせられた。

「俺は短気だからな。返事は早くよこせよ」
「…………!!」

うっすらとかいていた汗は、今やバケツにいっぱい取れそうなほどになっていた。

 

*    *    *    *    *

 

佐々木が上島に『告白』―――っていうのかあれは―――をされてからちょうど1週間が過ぎようとしていた。
といっても言われた段階で佐々木の返事はもう決まっている。

――――――『NO』だ。

佐々木は可愛らしい顔立ちをしているが中身は普通の男だ。男をそういう対象としては見られない。いや、見たこともないし、これから先もきっと見ることもないだろう。佐々木は大きなため息をついた。

だがしかしカドが立たないよう、どうやって切り出せば良いものやら……。

佐々木は悩んでいた。

(上島さんって私情は挟まないって言ってたけど……そんなわけにはいかないだろうなあ。イジメ倒されて会社辞めなくちゃならないようになったりして……、ありうる…)

ブツブツと考え事をしていると後ろから声がした。

「佐々木君、ちょっといいかね」
「あ、ハイ」

経理課の浦田課長が佐々木の席の後ろに立っていた。手には書類をもっている。佐々木が視線を手から顔に戻すと浦田は言った。

「この資料をワープロ化してもらいたいんだが……」

そう言うと、手もとの書類を佐々木の前に差し出した。明日の2時からの経営会議に間に合わせて欲しいらしい。
浦田課長は50代前半のどうみても機械には縁のなさそうなおじさんだ。

経理課の方も今忙しくて手すきの女子社員がいないらしく、新人の佐々木のところへおハチが回ってきたと思われる。しかしどう考えても同じ総務部ではあるけれど別の課の仕事を請け負ういわれはない。本来なら直属の上司である上島経由で仕事を依頼すべきだが、こういうおじさん連中には通じなかったようだ。『課長』という肩書きと、ここ2、3日ヒマが出てきたという理由で、佐々木は深く考えずについ引きうけてしまった。

「13枚か。明日午前中いっぱい潰せば大丈夫だろう。」

そう言って佐々木は預かった書類を机の一番上の引き出しにしまった。

 

*    *    *    *    *

 

「おはよう、佐々木」
「おっ、おはよう……ございます……」

あまりの緊張感に座っていた椅子から飛びあがってしまった。はっきり言って心臓に悪い。一方的に佐々木が緊張しまくって、上島の一挙一動に毎日ドキドキだ。まったくもって胃まで痛い。佐々木は恐る恐る上目遣いに上島を見た。当の上島といえば返事を催促するわけでもなく、いつもとまったく変わらない。それどころか何だか殺伐としている。

「今日からまた忙しくなるからな」
「はっ、ハイ…」

向こうから女子社員が上島を呼んだ。上島はそっちの方へ行くとなにやら書類のチェックを頼まれているようだ。
キビキビと適切な指示を飛ばす。仕事の出来る男は同姓の目から見てもかっこいい。

(ああいう上島さんはかっこいいかも……)

自分の思考に気付き慌てて打ち消した。こんなことでは上島と付き合うハメに陥ってしまう。佐々木は大きく頭を振った。

総務課として一番忙しい年度初の月初は過ぎ去ったが、その後、ヒマかと思えばそうでもない。すぐに月初の次に忙しい月末が迫ってきている。その前にあらゆる雑務を片付けてしまわなければならない。案外、総務としての雑務は結構あるのだ。なかにはこんなことも総務がしてるのか、と思うものもたまにある。どれもこれも緊急を要する仕事でないのがせめてもの救いだ。

気がつくともうすぐお昼になるという時間で、どこからともなく上島が席に戻ってきて言った。

「ちょっと早いけど昼飯、食いに行くか」
「あ、はい。えーと……」

財布を探すのに一番上の引き出しを開けた。

「!!」

目に飛び込んできたのは昨日浦田課長に頼まれていた書類。佐々木は顔面蒼白になった。

「今日も頑張りゃ、8時には帰れるぜ」
「か……、上島さん!!」

佐々木は上島の袖をガッチリと掴んだ。その表情は今にも泣き出しそうで、驚いたのは上島だ。

「な、なんだあ?」
「どうしよう、上島さん!!」
「はん?」

よく分からないといった表情の上島に、佐々木は昨日の浦田に頼まれた資料の事をしどろもどろ説明した。自分自身もかなり混乱しているらしく、途中、自分が何を言っているのか、よくわからなくなっていたが、最低限の状況はどうにか伝わったらしい。そして上島の開口一番。

「アホか!」

容赦なく上島の罵声がフロアに飛んだ。佐々木はビクッと肩を強張らせた。

「今直属の上司はこの俺だ、なんで勝手に仕事を引き受けるんだ!だいたい経理課の仕事を総務課のお前が引き受ける義務はねえだろうが!!」
「でも、課長……」
「課長もへったくれもあるか!筋違いだって言ってんだ!」

上島の怒りは尤もだった。来週末には4月の末……ゴールデンウィークに入るのだ。月末から月初にかけて特に忙しい総務課。いつもより時間が少ない上にGW明けには仕事が集中する。

佐々木は頼まれた仕事の時間が迫っているのと上島に怒鳴られたことでパニック寸前だ。次の瞬間、怒りは完全に収まったわけではないが意外なまでに沈静で建設的な回答が返ってきた。

「〜〜〜〜〜〜っ!引きうけちまったもんはしょうがない。原紙、貸せ」

そしてこの迷惑そうな顔。佐々木はこの表情だけは、しばらく忘れることは出来ないだろうと思った。上島は半ば強引に佐々木から書類を奪うと、大まかにザッと目を通した。

「浦田課長の字は結構でっかいから正味10枚ぐらいか……。ややこしい図面が入ってないのが救いだな。
1枚5分で打ったとして今12時だから…ギリギリか…」

手書きの資料を文書化するのは結構かかる。打つのは1枚5分の計算でいっても、プリントアウト・修正などのその他の時間がかなりかかるのだ。しかも浦田課長の字は結構雑い。略字も沢山使われている。読めなさそうな字もたくさんありそうだ。

そう言って上島は13枚ある資料のうちの5枚を佐々木に押し込むように突っ返してきた。この比率のわけは上島の方が佐々木よりキーボードを打つのが断然速い、ということの現れだった。

「あ、ありがとうございます……」

佐々木は半ば呆然と、反射的にお礼を言った。実際もっと怒鳴られるかと思ってビクビクしていたのだ。そして軽はずみなことをしたと反省すると同時に上島に感謝の念が湧いた。佐々木の感謝の念は通じたのかどうかは知らないが、上島は悪態をつきながら机上のパソコンのキーボードをものすごいスピードで殴打していた。

「くそっ!あのオヤジ、余計なことしやがって……いつか10倍にして返してやる……!」

上島のイライラは既に頂点に達していたのだった。

 

*    *    *    *    *

 

「なんで俺がこんな時間まで残業なんかしなくちゃなんねーんだよ……」

上島はやってられないというように頭の後ろに腕を回し、机の上に足を組んで投げ出していた。もう完全にやる気が感じられない、というような姿勢だ。実際上島の心情もそのとおりだった。持たれかかられた椅子が悲鳴を上げている。時間は0時をまわるころなのだ。

最終的なプリントアウトが出たのは1時40分だった。それから急いで印刷担当社に書類を渡し、事無きを得たというわけだ。その2時間にものすごく集中をしてしまったためにそれ以降の業務にはかなりの支障が出た。
つまり脳の疲労度からくる生産性の低下、というヤツである。それでこんな時間になってしまったというわけだ。上島のそんな言葉を聞いて佐々木は本当にすまない、と思って言った。

「すいません……。今度なにかでお返ししますから……」

その言葉がいけなかった。上島は椅子から立ちあがると佐々木の前に立ち、後ろの壁に勢いよく手をついた。

「それじゃあ今、体で返してもらおうか」

しまった!そう思った佐々木であったが後の祭である。目の前のこの男は自分に交際を申し込んだ男だということを、今の今まできれいさっぱり忘れていたのだ。しかも返事は保留になったまま、である。

上島の形よく整った顔が、佐々木の視界をいっぱいにした。眉毛の片方が上がる。口元なんか今にも笑いがこぼれそうで、佐々木は思わずゴクッとつばを飲み込んだ。もちろん相手に欲情したからだとか、そういうことではない。思いっきり身の危険を感じているのだ。

佐々木の額から汗が滲んだ。壁際にいたものだから逃げようにも前に立たれてしまったので、どこにも逃げ場はない。上島との身長差は4cm程度のものであったが今の佐々木にはとてつもなく大きく感じられた。その様はまるでドーベルマンに路地に追い込まれたチワワの子供のようだ。

「言ったよな?俺短気だって……」
「えっ、ちょっと……上島さん……」

上島の手が佐々木の頬に触れるとどんどん顔が近づいてくる。佐々木は抵抗しようとしたがうまく体が動かない。

「やめ……っ!!」

とうとう上島の唇が佐々木の唇に触れた。佐々木は目と口を固く閉ざしたが口の方は……あっさりと上島の侵入を許してしまった。

「ん……んんっ……」

上島の舌がゆっくりと佐々木の口内を犯してゆく。

佐々木はいわゆるノン気であったが体には関係ないらしい。それとも上島が巧いのか。不思議と……イヤではなかった。

(頭の、芯がクラクラする……)

気がつけばうっとりと目を閉じている自分がいるではないか……。それももうどうでも良かった。佐々木の頭はもう何も考えられないほどに真っ白になっていたのだ。

唇を開放すると、上島は今度は抵抗をしなくなった佐々木の首をゆっくりと攻め始めた。佐々木はもう立っていられないほどに感じてしまっていた。足がガクガクする。

「……はっ…………ん!」

自分の口からこんな声が漏れるなんて……。

何時の間にやら佐々木の上着は脱がされ、ボタンがはずされていた。いつ外されたのだろう、気がつかなかった。

(俺、このまま……犯されちゃうのか……)

もうろうとした意識の中ぼんやりとそんなことを考えていた。そしてその時、上島の手が佐々木の肌に直に触れた。

「!!!!!!やっぱやだーーーっ!!」

その瞬間、頭も体もすごいスピードで冷静さを取り戻した。言うが早いか佐々木は力任せに上島を突き飛ばしていた。驚いたのは上島である。もう手に入れたも同然だと思っていたのだ。その佐々木が自分を拒絶した。

「………………」

驚きとも、困惑ともつきかねない表情を打ち消すように、上島は乱れた前髪をかきあげた。そして少しバツの悪そうな顔をして、上島は佐々木に尋ねた。

「……なんで?」
「いや、その……。服の下に手を入れられた瞬間、なんか、急に……ダメです」

どうも身体的な嫌悪感が働いたらしい。右手の中指で下唇を擦ると、上島は佐々木の身体を上から下まで一瞥した。キスはOKだった。じゃあ俺個人は別に嫌われてはいないということか……。直感的に上島は思った。まったく脈なしなわけではないのだ。上島は佐々木に言った。

「一つ聞くけど俺のことはどう思う?」
「どうって……仕事面では、尊敬しています。でも……」
「そんなこと聞いてんじゃねぇよ、好きか嫌いかだ」
「え、や、その……嫌い、じゃないですよ……」

上島のドスの効いた一言に佐々木はしどろもどろに言った。別に嘘は言っていない。確かに嫌いではないのだ。佐々木は開かれたシャツを右手で重ね合わせ、上目使いに上島を見た。

「嫌いじゃない、か」

佐々木の言葉を聞いていて何か考え込んでいた上島であったがしばらくすると口を開いた。

「OK!じゃあ、あながち勝算がないわけでもないんだな」
「……はあ?」

佐々木はおびえた目を上島に向けたが、上島は気付かないふりをした。

「3ヶ月」

もちろん妊娠月数のことではない。佐々木はなんのことやら分からないという視線を上島に送った。当の上島は顎に手を当ててニヤニヤしながら佐々木を見ている。

「3ヶ月でいい。お試し期間だ」
「はあっ!?」
「キスであれだけ感じたんだ。お前素質があるかもな」

なんの素質だ!と佐々木は思ったが黙っておいた。上島は恐い。

「3ヶ月、俺と付き合おう」
「………え、あの…」
「3ヶ月の間に俺のこと好きになれなかったら返品してもいい」
「……でも……」
「その間絶対今みたいなことはしねぇよ。約束する」

戸惑う佐々木に上島の駄目押しがかかった。

「…………でも、あの……」
「付き合おう」
「…………………………はあ」

とうとう佐々木は根負けした。その瞬間の上島の顔といったら……まるで、欲しくて欲しくてたまらなかった大切なものが手に入った子供のような笑顔を浮かべた。尤も前途の多難な佐々木の目には入ってはいなかったのだがもし、この表情が目に入っていたら、一体佐々木はどう思っただろう?

「お祝いだ!飲みに行こう!!」
「えっ、今から……もう1時ですよ!?」
「かまわんかまわん!」

上島が何を思って佐々木を選んだのかは知らないが、二人の関係がこの先どう進んで行くのか。
物語は進んで行く。

 


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