スピリチュアル
14

書店で30分ぐらいの時間を潰して、桂木と田嶋は店を出た。左手の腕時計は今やもう16時前を指していて、2月としては日暮れも間近だ。桂木は田嶋をチラリと横で見て、お茶しよう、と一言言った。

「いらっしゃいませ」

イートインできるつくりのケーキショップはなかなかに良い雰囲気で、店内は客足の多さもさることながら、控えめな美しい音楽と、質の良い静かな活気で満ちていた。 奥に広がったカフェでは、歳若い高校生ぐらいの少女から、果ては熟年の女性までがケーキと一緒にお茶を楽しんでいる。

その中の、とりわけ若い人たちのテーブルや椅子に何気に置かれた小さな、けれども美しい買い物袋。少し前、目の前を通ったさっきのあの行列の出来ていたチョコレート専門店のバッグも置かれていたからピンときた。さすがはバレンタイン前の最後の休日だ。きっと彼女たちは来週までの日にちを指折り数えて 、期待とときめきを込めて過ごすのだろう。今は来週のバレンタインにひかえて買い物を終えた女性たちの優雅なひと時というわけなのだ。中には片思いの子もいるのかも知れないなと田嶋は思った。

暖かな店内の空気に晒されて、寒さでこわばった体も弛緩を始める。表通りの良く見える、大きな窓際のテーブルに座った桂木の後について、田嶋もその前の席に腰かけた。

「ホット」
「あ、俺も」

座ってすぐに、熱いおしぼりと水を持ってきたウエイトレスがサット注文を取っていく。沈黙は嫌いではないが、しばらくの間手持ち無沙汰になった桂木が、テーブルに置かれたメニューを手で弄びながらつまらなさそうにポツリと言った。

「なあ、今日いつ帰んの?」
「ここを出たらもう帰ります。明日仕事ですから」
「一緒に暮らせば明日仕事でもずっと一緒にいられるのになあ……」

最後のところで田嶋は聞こえないふりをした。まだ諦めていなかったのか……。

予想どうりの流れだったが、全く取り付くシマもない。桂木はもの言いたげに顔に焦点を当てた目をツッと細めたが、そんなの田嶋は知らない顔でやり過ごす。数分のちに運ばれてきた、砂糖も何も入れない暖かなコーヒーカップに桂木は無造作に口を付けた。同じようにコーヒーを飲もうと顔を上げた田嶋は、桂木が恨みがましそうな目つきでこっちを見ているのに気づいて思わず一瞬動きが止まる。その時初めて気が付いた。

「……なんですか」
「俺、今日は鍋が食べたいなあ」
「食べたらいいじゃないですか」
「一人じゃ鍋がデカイんだよなあ」
「スーパーで一人用の売ってますよ」
「お前と食べたいんだって」
「俺はイヤです」

素っ気無い、それでいてしれっとした口調で田嶋は言った。こんな、ただ田嶋を引き止めることが目的の、明け透けでモロバレで、それでも桂木は直球勝負にしか出ない。尤も田嶋はこの直球勝負に一番弱 かったりするのも計算の内に入れていたりするのだが。

「……」
「………」
「…………」
「……………」
「………………」
「…………………もう、なんなんですか!」

こんな、無駄にデカイ大型犬が、美味しそうなエサを目の前に、まるで意地の悪い主人にお預けを食らっているような顔をしなくてもよいではないか!

「ああ、ああ。分かりましたよ、晩飯もご一緒すればいいんでしょ!」

いよいよ田嶋は怒ったように声を上げたが、そんなの当の桂木にはまったく少しも通じていない。その言葉を聞くや否や、満面の笑顔を浮かべて一口のコーヒーで喉を湿らすと、水を運ぶ 、横を通りかかったウエイトレスを呼び止めた。

「すいません、ケーキ持ち帰りたいんですけど」
「はい、いかがしましょう?」
「ええと、」

と、桂木はメニューのケーキ欄からさほど迷う様子もなくふつふつとケーキの名前を挙げていく。前でウエイトレスがポケットに入れていたボールペンを取り出すと、オーダーシートに懸命に言われるままの品名書き連ねていった。

(うわあ……)

ケーキの種類は詳しくないが、名前を聞いて憶測した限りでは、そのほとんどがチョコレートに属する種類の名前だったのだ。しかも、生クリームの多そうな。田嶋は呆然とした表情を浮かべて手元のメニューに視線を落とした。

「…と、ザッハ・トルテ。以上10個ですね。ご自宅までお時間かかりますか?」
「30分ほど」
「畏まりました。レジでお声をおかけください」
「どうも」

桂木はニコっと上の笑いを浮かべてウエトレスに礼を言った。そのやり取りの有様を唖然と、一部始終見ていたのは前の席に腰掛けた田嶋である。

「…この後、真っ直ぐ家に帰るんですよね?」
「うん、そう」
「じゃあなんで……」

10個も、と、呆然とその目の前の男の顔を見つめたのは当の田嶋で、困惑した表情のまま、しれっとした桂木の顔から視線を少しも外せない。とっさに何と言っていいのか分からずに、数秒黙って口を開ける。

「……それ、全部食べるんですか」
「うん」
「食べれます?」
「あん?結構夢中になって食べちゃうと思うんだけど……」

いくら何でもこんなこってりしてそうな名前のケーキばかり、10個なんてかなり到底食べきれない、と思う。あ、いや、待てよ。 ジッと桂木の顔を真っ直ぐに見たまま、田嶋は騒然と脳内でシミュレイトを始めた。

生ものですのでお早めにお召し上がりください。オッケー。明日中に食べる計算として、今日田嶋がこれからマンションへよって帰り、自分がよく食べても2個、桂木が3個、俺は夜帰るから残りが5個、朝から いくつ食べるんだ……。ダメだ、どう考えても明日中に食べ終わらない。一体どういう計算なのか。ちゅうか!桂木はこんな甘いものが好きだったか?田嶋の質の良い脳がこんなつまらないことでぐるぐる と回っていたら、桂木が左手で頬杖をついたまま、窓の外を覗いてなんかいたりした。いや、正確には窓の外の上の方を。

「そろそろ出る?なんか雨が降りそうだ」

 

店を出たすぐ玄関で、桂木は耳を貸せと言わんばかりに、右手の人差し指を動かして田嶋に『来い来い』と催促をかけた。一体なんだ?田嶋が不思議そうな表情で顔をスッと 近くに寄せると、桂木はその耳に右手を当てて囁いた。

「な、田嶋このケーキ」
「…はい?」
「セックスする時に身体に塗ったら結構燃えると思わねえ?」

それを聞いたとたん、田嶋の目は点になり、そして3秒してから苦笑に変わった。なんだそりゃ。

『結構夢中になって食べちゃうと思うんだけど……』

その田嶋の顔をニヤニヤとした表情で見ていたのは桂木だ。いたずらっ子のような顔をして、田嶋を見つめる。

「たまには変わった刺激を。ほら、バレンタインも近いしいっぺんやってみたかった!」
「……本当に、あんたって人は」
「何。自分だって楽しいと思ったくせに」

そう言って笑った桂木に、違いない、と田嶋は心の中で思ったのだった。

 

*    *    *    *    *

 

桂木のマンションの最寄りの駅につくともう日没が近づいていた……と、いうか。もう10分もすればとっぷりと日が暮れそうな勢いだ。冬の日没は早い。

「早く帰んないとひと雨きそうだな」

昼から急に暗くなった空を仰いで桂木が言った。そして、そのタイミングは丁度一緒だったのだ。田嶋が顔を上げると勢いよくバラバラと、音を立てて雨が降り始めたのだった。

「降ってきましたね」
「悠長に言ってんじゃねえよ。田嶋!」

桂木は田嶋の手首を掴んで、数十メートル先にあった近くの店の軒下に滑り込んだ。本当に悠長どころではない。バラバラと降り出した雨は大粒で、あっという間に灰色のアスファルトを黒い色に塗り替えた。結構すばやく非難したつもりだったのに、思ったよりもひどく濡れてる。しかし身体は厚いコートに守られて、不快感はあまりない。問題は、無防備に濡らされた顔だった。雫がたれて、ひどく冷たい。

田嶋は顎の下へ滴り落ちる雫を手の甲で拭いながら言った。

「冷た……」

田嶋がそう言うのと同時に、頬に何か暖かな布が触れた。え、と視線を横にやると、田嶋はひどく驚いた。桂木が持っていたハンカチで田嶋の顔を拭いたからだ。自分の頬は濡れたままで。

「ちょっ…、主任!俺、ハンカチぐらい持ってます。先に自分を……」
「いい。なんかそっちの方が可哀想に見えんだよ」

桂木はそう言って、田嶋の顔の輪郭をハンカチで丁寧になぞった。呆然としたままの表情で、田嶋は自分の顔を拭う桂木の顔をじっと見つめる。その光景に、ふつふつと何かの感情がふっつりと沸いてきた。なんだ?この妙な既視感にも似た……。

(この感じ……どこかで)

ぼんやりそんなことを考えているとふいに桂木の右手の親指が田嶋の下唇に触れた。その瞬間、身体のこわばりとともに、田嶋の胸がドキンと大きな音を一つ立てた。

「あ……」

小さく声を発してそのまま、田嶋の口は動きを止めた。

(………そうか)

思い出した。昔、まだ桂木が主任でもなんでもなく立場の公平な同僚で、2年後に入社した田嶋と営業先で、ちょうどこんな風に雨に降られたことが確かにあった。その時の桂木も、今の桂木がしてくれたのと同じように田嶋を先に拭いたのだ。

田嶋の脳内に洪水のように溢れ出す。なんで桂木を好きになったのか。多分あの時、いや、今だって。桂木自身はなんとも思ってない無意識のうちの行動だったのだと思う。しかしその行動が 田嶋にとって大きなキッカケの一つになったことは間違いなかった。なぜなら、それによって今まで微塵たりとも気にも留めていなかった桂木への田嶋の感情がプラスに動いてしまったからなのだ。田嶋は、あの時初めて目の前のこの男を好きだと思った。

雨の音を遠くに聞きながら田嶋は瞬きもせず、桂木の顔を吸い込まれたようにじっと見つめた。

一見なんてことのないような行為かもしれないが、他人にこんな風に自然に優しく出来る人間がいるなんて初めて知った。入社してすぐに身体の関係を持ったが、それ以外 に何も、特別な感情を持たなかった桂木を、好きだと感じ始めたのはその時からだ。

それからだった。目で姿を追うようになり、桂木の声に耳を傾け、ついにはずっと傍に居たいと思っていった。こんな風に、長い時間を重ねて膨らんだ想いを、どうして言葉に出来るのか。

田嶋は唇に触れている桂木の手をぎゅっと握ると、そのまま真っ直ぐな、痛いぐらいの眼差しで桂木と視線を合わせた。

「……おい、そんな顔するな。今すぐ押し倒したくなるから」
「俺は……」

田嶋は慎重に口を開いた。胸の鼓動がバクバク高鳴る。

「俺は、あんたの全部が好きですよ」

ちんけで、ありがちで、何の飾り気もない、でもそんな言葉が田嶋の気持ちに一番忠実で、一番近い言葉だった。はた迷惑な行動も桂木だから許せるし、桂木だから愛しくて仕方がないのだ。桂木のどこが好きかだなんて 正確に言葉になんか出来やしない。

「は?」

それを聞いてひどく呆れた表情を見せたのは桂木だった。

「そんなこと知ってるよ。何?こないだのこと?お前まだそんなこと考えてたのか。なんか今日一日おかしいと思ったよ」
「ひどいですね、これでも一所懸命考えたんですよ」

田嶋は苦笑交じりに言ったが、桂木はそんな目の前のこの男が可愛らしいと思った。

「お前が俺を好きなんだったら、何だっていいよ。例え顔と身体だけでも」

上等だ、と、そう言って桂木は屈託なく笑う。笑顔も好きだと田嶋は思った。そして、つられたかのように微笑を浮かべたその顔がいつもの無表情になって、田嶋はゆっくりと目を細めて俯いた。

「……ねえ主任」
「うん?」
「俺、そんなにマメなほうでもないし、朝は低血圧で寝起き悪いし、料理も得意じゃありません」
「うん」
「軽いジョークも言えないし、一緒にいるとつまんない男だと思います」
「うん」

これでもか、と思えるぐらい田嶋は自身のマイナス要素を並べ立てた。桂木はそんな田嶋の言葉を、ゆっくり優しく    受け入れる。「うん」。

言ってみればこれは保険だ。マイナスを、重々承知で買い上げた。

「俺は何一つ、あんたを喜ばせるものは……持ってないですよ。それでも」
「充分だ」

そこまで言って桂木は小さな微笑を浮かべた。その言葉が一つ一つが、どれだけ桂木を喜ばせているかだなんて、田嶋はちっとも少しも気づいていない。俯けたその顔を、 気持ち少し分視線の高いところから見下ろした桂木はゆっくりと手を伸ばし、田嶋がこちらを向くのを促した。もうすぐそこにある顔は、愛しく田嶋を見つめたままだ。

「別に世話してくれる嫁さんが欲しいわけじゃない。そういう硬いところも、気を使うところも愛想のないところも田嶋だからいいんだ。お前だから好きなんだ」

田嶋だから。

心臓が大きな音でバクっと鳴って、それでも内心を明かさない、いつもの無表情な顔のまま、田嶋は桂木をじっと見つめた。桂木の言葉はまるで魔法のようだ。本当にこの男は肝心なところで何もかもを知っていて、それが田嶋をひどく心地の良い場所にいとも容易く連れて行ってしまう。

「だいたいよ」

桂木が一言言って田嶋は我に返ったように顔を上げた。

「愛想はないわ、素っ気はないわ、連れないわ、可愛げないわじゃ、好きでもなけりゃやってらんねーよ」
「いいとこないじゃないですか……」
「ま、アバタもえくぼっちゅーことで」

ニヤッと桂木が笑うと田嶋もつられて苦笑した。本当に。好きって言うのは相手のマイナスすらもよく見える。そういうことなのだと田嶋は思った。少し戸惑い気味に表情を崩す。それでもそれは数秒で、その後ひどく穏やかな顔をして、本当は言われた時から きっと受け入れてしまうであったろう言葉を口にした。桂木が望むなら。

「俺はあんたが好きですよ。一緒に、暮らしましょう」
「え」
「暮らしましょう」
「……本当に?マジで?」

自分で言い出たくせに、なんだが信じられない、というような顔をして桂木は、その後いつもの満面の笑顔になったのだった。 田嶋の出したこの選択が、良かったのか悪かったのは別にして、ちょっと困った事件が起こるのはもう少し先の話になる。

 

end.


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