ナイーヴ

一緒に暮らしましょうと、田嶋。あんなに渋っていたのに、いざ決めてしまうと田嶋はすることがやたらに早い。言い出したこっちの方が呆然とするぐらい迅速に、見る間に引越しを終えてしまった。移動プランを立ててから、ものの半月で引越し完了というのは……すごいじゃないか。

「荷物少ないですもん」

しれっと言った田嶋の顔があんまり可愛かったので、掃除もそこそこに桂木は思わず荷物の整理を放棄して、その場で田嶋を押し倒してしまいたくなる。当然、真顔で軽く平手を喰らったのだが。

まあ田嶋の荷物はホントに少ない。大型の荷物はスーツをかける洋服ダンスと机だけだったし、パイプベッドに限っては、折りたたんでひどくコンパクトに収納できる。後はこまごましたものをダンボールにつめて、軽トラック一台で容易に作業を終えたのだ。

ついでに言うと桂木のマンションは3LDKで、独身男性なんかよりも、むしろ小さな子供がいるような、そんな若い家族向けの間取りで、田嶋の荷物を全部入れてもゆとりを見せる。

 

「で、家賃の話なんですけど…」

そこそこに片付いたダイニングのテーブルで、田嶋は引越し蕎麦をすすりながら桂木にポツリと言った。 話題にのるのはちょっと遅いが、こういう協定はキッチリと結んで置かなくては。それに対して同じように口に蕎麦を入れ込んだ桂木は あ? と 気の抜けた短い返事を返し寄越した。 今時引っ越しに蕎麦もないだろうが、桂木が異常に食べたがったのだから仕方がない。結局、イベントの好きな男なのだ。

「ですから家賃」
「そんなん、いらねーよ」
「そういうわけにはいかないですよ」
「シェアリングだから?」

田嶋は小刻みに首を数回縦に振った。

「俺だって正規の料金支払ってないもん。受け取れねえよ」
「……は?」

間の抜けた返事を返したと田嶋は思った。なんだって?

「なんで」
「ここ、親の持ちもんだもん」

田嶋はそれを聞いて呆然としたと同時に、謎が解けた。なるほどね。桂木がいくらやり手の営業マンだからといって、田嶋とそう何万も給料が変わるとは思えない。夜な夜な結構遊び歩いて、なのにどうしてこんないい物件に住んでいるのか、前から不思議に思っていたのだ。と、そこに奇妙な疑念がふつふつと沸いてきた。

「え、じゃあ何ですか。下の管理人室にいるのって……」
「俺の親じゃねえよ。おふくろのトモダチ。ちゃんと給料払ってるっていってたぜ」

管理人室にいるのが親であるなら、桂木のこんな乱れた生活を放っておくなどできないか。持ち物の嗜好といい、口の割には優雅な物腰といい……前からうすうす感じてはいたが、桂木は結構いいところの箱入り息子であることが 容易に想像できてしまった。

「住居のシェアリング、ね。じゃあ別にそんなんしなくていいじゃないですか」
「したいのは愛ある生活さ」
「なんか囲ってもらって愛人みたいですよね、そういうのって」
「気持ち悪りぃ?じゃあ家賃払ったつもりで、その金溜めて旅行に行こう。つもり貯金!」
「休み、取れるんですか」
「取る」

桂木はニコっと笑って言い切った。 まったく子供みたいな無邪気さで、真っ直ぐな桂木。呆れないと言えば嘘になるが、そこが愛しいのもまた事実。田嶋は呆れたような苦笑を浮かべると、椅子から立ち上がって、もう食べ終わって空になった丼とコップを引き寄せた。

「洗います」

そう言って田嶋は背中を向けてシンクに立ったが、すぐ横に立った桂木の視線がめっぽう痛い。なんでそんなに人の手元をジロジロ見るのか……。田嶋は小さなため息をついて桂木をジロっと睨むと、食って掛かるように語気を荒げた。

「ああ、もう、何なんですか!」
「終わるの賢く待ってんの」
「は?」

と、田嶋が素っ頓狂な声を上げると同時にもう至近距離ある桂木の顔がゆっくりと田嶋の唇を奪った。賢く待ってる?嘘をつけ。腰に回したその手はなんだ。

「あのねえ…」

桂木の右手が頬を滑って田嶋の唇の上でその指を止め、言いかけた田嶋の言葉をいとも容易く奪ってしまう。ニヤッと笑うと、指先を追うように、そのままもう一度口付けた。シンクへ流れ落ちる水音だけが大きく聞こえて、桂木の手が背中越しに蛇口をひねって雑音を消し止めた。

「は……」

わずかに開いた唇の隙間を 2、3度舐めると、田嶋は大きく口を開いて桂木の舌を受け入れる。背中に回した田嶋の手は少しばかり濡れていて、桂木のシャツを湿らせた。

「ん…ん……」

入ってきた舌が縦横左右に口内を丁寧に舐めまわす。手を首に回して、田嶋もその舌に愛撫を返した。唇が離れて、桂木の口はそのまま耳へと移行する。

うん、と小さな言葉を発して、田嶋は桂木の舌に反応するように首をすくめた、かと思うと瞬間桂木の動きがそのまま止まって、不審に思った田嶋が目を開ける。開けた先には呆然とした顔立ちの桂木の顔がすぐ前にあって、思わず視線をそっちに向けた。

「主任?」
「……すげーそそる……」

何言ってんだか……。朝っぱらじゃあるまいし、こんなのいつもの週末となんら変わらないではないか。田嶋は呆れた内心を隠くそうともせず苦笑を浮かべた。

「それ、褒め言葉ですか」
「最上級」

桂木はそう言うと ゆっくりと眼鏡を外してシンクに置いた。その手を田嶋が取って手のひらに口付ける。ゆっくりと視線を合わせたその顔は、ひどく駆け引きめいていて、桂木の背中をゾクゾクさせた。

 

二人の新しい生活はもう始まっているのだ。

 

*    *    *    *    *

 

お願いします、と机上に出された会社の規定用紙である『住所変更届け』に驚いて、ひどく意外そうな顔を上げたのは総務の上島洋介だった。そうは言っても上島自身は別に 『住所変更届け』 の提出 、それ自体に驚いたわけではない。問題は、記入されたその中身だったのだ。

上島は右手のひらで頬を支えると、表情から内心を伺おうとするようにその用紙の提出主であるその男の顔をじっと見上げた。

「何、3月1日付けじゃん。もう住んでんの?」
「先週の終わりからです」
「ふうん……、まあいいけどね」

素っ気無くそう言って上島は、キシっと椅子を鳴らして男の方へと向きを変えた。組まれた長い足が、独特の威圧感を醸し出す。

「毒を喰らわば皿まで、っていう心境?」
「まあ、そんなところです」

そう言って、田嶋は思わず苦笑する。複雑な心境に置かれていても上島の頭の中は冷静だ。いきなりこうも切って返した。

「おい。住所録の電話番号、どうする?」

上島が言ったのは届けの番号ではなく、社の住所録に記載される方だった。本社に登録される用紙なんか、誰も見ることがないから、あってないようなものである。ところが社内で出回る住所録に関しては、正月前などに年賀状なんかの関係で年末になると欲しがる社員が結構いるのだ。別段気に留める輩がいるとも思えないが、住所が一緒で電話番号が同じでは、一緒に住んでることがバレバレではないか。

電話の権利は持っていても、マンション住まいの桂木宅にモジュラージャックをも一つ作るわけには到底いかない。大体、携帯が普及しまくった今のご時世、寝に帰るだけの独身男性に家の電話が必要あるのかあ?

それでも上島の言ってる意味が通じたようで、田嶋は あ、という顔をして、2、3秒後に口を開いた。

「別に住居のシェアリングって話なんですけど……、携帯の番号でも入れといてもらえますか?」
「ん」

短い返事を返して上島は、手馴れた手つきで担当欄に判子を押して差し出した。

「総務室長の決済箱に入れといて」
「あ、はい」
「しっかしねえ……お前はこういうの、絶対首を縦に振らないと思ってたぜ。桂木の押しにやられた?」
「は……まあ」

今日は二度目の、困ったような苦笑を浮かべて、それでも田嶋は数秒後、真っ直ぐな瞳をして上島にこう言ったのだった。

「まあ、最後の選択は自分でしましたから」

 

総務室を出たところの廊下で、田嶋はふっと小さなため息を洩らした。それでも顔を俯けたのは一瞬で、ものの数秒もしない間に凛と顔を上げると、そのまま階段へと続く廊下へ足を出す。

こんな子供みたいな気まぐれが、どこまで続くか知らないが、田嶋は可能な限り桂木の傍にいようと思うのだった。

桂木が望むなら。

 


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